第8話「沈黙の忠誠と図書室の密会」
ルシアン・ヴァルドアの側近である私、テオドールにとって、ここ数ヶ月の主の変化は興味深い観察対象だった。
幼い頃の彼は、癇癪持ちで、自分の思い通りにならないとすぐに暴れる、まさに「悪童」だった。
しかし、春の初めに高熱を出して寝込んで以来、彼は変わった。
静かになった。慎重になった。
そして何より、何かに怯えるような、繊細さを帯びるようになった。
その変化が、まさか「平和に生きたい」という庶民的な願望によるものだとは、さすがの私も気づいていなかったが。
期末試験の季節が訪れた。
ルシアン様は、放課後になると図書室の最奥にある個室へ篭るようになった。
「静かに勉強したい。誰も入れるな」
そう命じられていたが、例外が一人だけいた。
ノエル・シルヴァだ。
彼は今日も、バスケットを片手に図書室の個室を訪れていた。
「失礼します……あの、差し入れをお持ちしました」
私は眼鏡の位置を直し、彼を通した。ルシアン様は「入れるな」と言いつつ、彼が来た時だけは追い返さないことを、私は知っていたからだ。
個室の中では、奇妙な時間が流れていた。
ルシアン様は分厚い魔術書を広げ、眉間にしわを寄せて書き込みをしている。
その向かいで、ノエルは教科書を開きつつ、時折ルシアン様のお茶を注ぎ足したり、クッキーを並べたりしていた。
「ルシアン様、少し休憩しませんか? 今日はラベンダーのクッキーを焼いてきたんです」
ルシアン様はペンを止め、不審そうにクッキーを見つめる。
「……毒見はしたのか」
「えっ? あ、はい! 僕が味見しましたから、大丈夫です!」
ルシアン様はおそるおそるクッキーを口に運ぶ。
サクリ、という音が響く。
無表情だったルシアン様の目が、一瞬だけ見開かれ、微かに輝いたのを私は見逃さなかった。
『……美味しいと感じておられる』
だが、口から出る言葉は憎まれ口だ。
「……甘すぎる。庶民の味だな」
そう言いながら、二枚目に手を伸ばす。
ノエルは嬉しそうに微笑んだ。
「すみません、次はもう少し控えめにしますね」
彼は気づいているのだろうか。ルシアン様が、本当は甘いものが好きだということに。そして、言葉とは裏腹に、彼を受け入れつつあることに。
私は部屋の隅で控えたまま、密かにため息をついた。
ルシアン様は、ノエルを遠ざけようとしているようで、実は彼に救われているように見える。
以前の孤独な彼には、心を許せる相手などいなかった。父である公爵は冷酷で、母は病弱で離宮にいる。
だからこそ、打算なく、ただ純粋に好意を向けてくるノエルの存在は、彼にとって初めて触れる「暖炉の火」のようなものなのだろう。本人は「火傷しそうで怖い」と思っているようだが。
「ここの数式、間違っているぞ」
ルシアン様が唐突に言った。ノエルのノートをペン先で指している。
「えっ? あ、本当だ……ありがとうございます! ルシアン様はすごいです、こんな複雑な構成式も一瞬で」
「うるさい。間違った知識を隣で広げられると気が散るだけだ」
不器用な指導だ。
だが、その空間は、どこか穏やかで、優しい空気に満ちていた。
私は心の中で決めた。
この関係を守ろう。
たとえそれが、周囲から見れば「悪役と主人公」という歪な形であっても、今のルシアン様には必要な時間なのだ。
「テオドール、お代わりを」
「かしこまりました」
私はポットを手に取り、二人のカップに紅茶を注いだ。
窓の外では夏の始まりを告げる蝉の声が聞こえていたが、この部屋の中だけは、静謐な時間が流れていた。
この平穏が、嵐の前の静けさであることを、私たちはまだ知らなかった。




