第5話「返却されたジャケットと加速する誤解」
その日の朝、教室の空気は奇妙な緊張感に包まれていた。
原因は、教壇のすぐそば、最前列の席に座る一人の生徒にある。蜂蜜色の髪を揺らすオメガ、ノエル・シルヴァだ。
彼は大きな紙袋を膝の上に抱え、時折、教室の後方にある扉をそわそわと見つめていた。まるで、待ち人が来るのを心待ちにする子犬のように。
俺、ルシアン・ヴァルドアが教室に足を踏み入れたのは、予鈴が鳴る五分前だった。
いつも通り気配を消し、誰とも目を合わせずに自席へ向かおうとした瞬間、視界の端で何かが動いた。
「ルシアン様!」
弾んだ声とともに、ノエルが駆け寄ってきたのだ。
俺の心臓は瞬時に早鐘を打った。
『来るな! 朝から来るな! 俺の平穏な一日を破壊する気か!』
内心での絶叫とは裏腹に、俺の顔は条件反射で能面のような無表情を作り出していた。長年の(といっても前世の記憶が戻ってからの数ヶ月だが)鍛錬の賜物である。
俺は歩みを止めず、彼を無視して通り過ぎようとした。
しかし、ノエルは俺の前に回り込み、深々と頭を下げて、抱えていた紙袋を差し出したのだ。
「こ、これ! 先日の……お借りした上着です! クリーニング、済ませました!」
教室中が静まり返った。
ざわめきが波のように広がる。
「おい、聞いたか? 上着を借りたって……」
「まさか、あの噂は本当だったのか?」
「ヴァルドア公爵令息が、オメガに自分の服を?」
最悪だ。
雨の日の出来事は、どうやら尾ひれがついて広まっていたらしい。「ルシアン様がずぶ濡れのオメガを助け、自らの服を与えて温めた」という、どこぞの騎士道物語のような話にすり替わっている。実際は「臭いから近寄るな」と言って投げつけただけなのに。
俺は差し出された紙袋を見下ろした。
受け取るべきか? いや、受け取れば「二人の間には貸し借りがある」という事実を公認することになる。
「……捨てておけと言ったはずだが」
俺は極力冷たく、温度のない声で告げた。
これでいい。高慢な貴族らしく、一度他人に貸した物など穢れていて着られない、という態度を示せば、周囲も「ああ、やっぱりいつもの冷血漢か」と納得するはずだ。ノエルも傷ついて離れていくだろう。
だが、ノエルの反応は予想の斜め上を行っていた。
彼は顔を上げて、潤んだ瞳で俺を見つめ返したのだ。その瞳には、恐怖ではなく、奇妙な熱が宿っていた。
「捨てられません! ルシアン様が……僕を守ってくださった証ですから」
は?
「それに、まだ……ルシアン様の香りが、少し残っていて……それを捨てるなんて、僕にはできません」
待て。
その台詞はまずい。
教室の空気が、驚きから衝撃、そしてある種の艶めいたものへと変化したのが肌で感じられた。
アルファの香りが残る服を、オメガが大事に持っていた。それはもう、一種の求愛行動への返答に近い。
俺の顔から血の気が引いた。
『バカかこいつは! そんなことを大声で言ったら、俺がお前にマーキングしたみたいじゃないか!』
これ以上、ここで問答を続けるのは危険だ。俺は乱暴に紙袋をひったくった。
「……黙れ。目障りだ」
捨て台詞を吐いて、逃げるように自席へと向かう。
背後で、ノエルが「ありがとうございます!」と嬉しそうに礼を言う声が聞こえた。
俺は机に突っ伏したくなった。
なぜだ。なぜ俺が冷たくすればするほど、彼は嬉しそうにするんだ?
もしかして、原作の主人公にはマゾヒズムの属性があったのか? いや、そんな設定はなかったはずだ。
袋の中のジャケットからは、ほのかに甘い果実の香りと、洗剤の清潔な香りがした。俺の匂いなんて消え失せている。
俺は袋の口をきつく縛り、足元に押し込んだ。
その日の午後、事件の影響は如実に現れた。
昼休み、食堂へ向かう廊下で、数人の高位貴族の生徒たちとすれ違ったときのことだ。普段なら俺を見て畏縮するか、遠巻きにする彼らが、今日は探るような視線を向けてきた。
「ヴァルドア卿。最近、随分とあの特待生にご執心のようですな」
声をかけてきたのは、侯爵家の次男、ベルンハルトだ。原作ではノエルをいじめる取り巻きの一人だった男だ。
俺は足を止めず、目も合わせずに答えた。
「……何の話だ」
「とぼけなさんな。あのオメガにジャケットを貸した一件、すでに広まってますよ。まさか、あなたが先に目をつけられていたとは」
ベルンハルトは卑しい笑みを浮かべた。
「まあ、公爵家の権力があれば、特待生の一人や二人、自由にするのは簡単でしょうがね。我々にも少しはおこぼれを……」
ピクリ、と俺の眉が動いた。
不快だった。
ノエルがどうこうではない。こいつらの、人間をモノとしてしか見ていない思考回路が、生理的に無理だった。
俺は立ち止まり、ゆっくりと首だけで振り返った。
そして、前世で培った「クレーム対応中のコールセンター係長の無の境地」と、現世の「悪役公爵令息の威圧感」をブレンドした視線を彼に突き刺した。
「……おこぼれ、だと?」
低くつぶやくと、ベルンハルトの顔が引きつった。
「勘違いするな。俺は誰にも興味がない」
そう、俺は平和に生きたいだけだ。
「だが、俺の視界で不快な真似をする奴は……潰すぞ」
最後の一言は、原作ルシアンの台詞を借りた。これくらい言えば、こいつも怯んで退散するだろう。
予想通り、ベルンハルトは「ひっ!」と悲鳴のような声を上げ、仲間と共に逃げ出した。
やれやれ、これで少しは静かになるか。
そう思ってため息をついた瞬間、柱の影からまたしても蜂蜜色の髪が見えた。
ノエルだ。
彼は両手を口元で合わせ、感動に打ち震えていた。
「……やっぱり。ルシアン様は、僕を守るために、あんな恐ろしい人たちを威圧してくださったんだ……!」
目が合った。
俺は何も言わず、全速力でその場を去った。
違う。断じて違う。俺はただ、変な誤解を解きたかっただけだ。
だが、俺の逃走は「照れ隠し」として処理され、ノエルの脳内にある『ルシアン・ヴァルドア聖人伝説』の新たな一ページとして刻まれたのだった。
俺の平穏な学園生活は、音を立てて崩れ去りつつあった。




