第2話「沈黙の図書室と視線の檻」
入学式から一週間が経過した。
俺の「ぼっち回避作戦」は、奇妙な形で成功と失敗の狭間を揺れ動いていた。
まず、クラスメイトたちは俺を遠巻きにしている。これは成功だ。誰も俺に話しかけてこないし、俺も誰にも話しかけない。教室の一番後ろの窓際、物語の主人公なら特等席だが、悪役にとっては孤立を深めるだけの席に陣取り、授業が終われば即座に姿を消す。
失敗と言えるのは、その孤立が「崇高な孤独」として受け取られていることだった。
「ルシアン様は今日も、俗世に関心がないご様子だ」
「あの方の瞳には、我々のような有象無象は映らないのだろう」
「なんという気高さ……」
トイレの個室で聞いた会話に、俺は頭を抱えた。違う。俺はただ、変なことを言ってボロが出るのが怖いだけなのだ。
そして最大の問題は、ノエル・シルヴァである。
彼はオメガでありながら特待生として入学したため、周囲の風当たりは強い。特に、選民思想の強いアルファやベータの生徒たちからは、露骨に避けられたり、陰口を叩かれたりしている。
本来なら、ここで俺がいじめの先頭に立つわけだが、俺は完全無視を貫いていた。
それなのに。
「……」
視線を感じる。
移動教室の廊下で。食堂の片隅で。中庭のベンチで。
ふと視線を上げると、必ずと言っていいほど、遠くからノエルがこちらを見ているのだ。
目が合うと、彼はびくりと肩を震わせ、パッと顔を赤くして俯く。
『なんだ? 何か恨みでも買ったか? いや、何もしてないぞ。本当に何もしてない』
俺は彼に近づいていない。彼の教科書を捨ててもいないし、足をかけて転ばせてもいない。
なのに、なぜあんなに熱心に見つめてくるのか。もしかして、俺の存在自体が不快で、どうやって復讐してやろうかと画策しているのだろうか。原作の主人公は一見健気だが、やられたらやり返す強さも持っていたはずだ。
恐怖で胃が痛くなる。
逃げ場所を求めて、俺は昼休みになると図書室へ向かうようになった。
学園の図書室は広大で、奥の方にある古書エリアは人がほとんど来ない。カビと古紙の匂いが漂う静寂の世界は、俺にとって唯一の安息の地だった。
今日も俺は、人気のない閲覧席に座り、適当な歴史書を開いて時間を潰していた。ここなら誰にも会わずに済む。
コツ、コツ、と足音が近づいてくるまでは。
俺は息を止めた。足音は迷いなく、この奥まったエリアへ向かってくる。書棚の影から現れたのは、あの蜂蜜色の髪だった。
ノエルだ。
彼は胸に数冊の本を抱え、きょろきょろと辺りを見回している。そして、俺の姿を見つけると、ぱあっと表情を輝かせた。まるで、探していた宝物を見つけたかのように。
『ひっ……!』
俺は心の中で悲鳴を上げた。なんでここに? ここが俺の隠れ家だってバレてるのか?
ノエルはおずおずと近づいてくると、俺の座っているテーブルの、対角線上の席の前に立った。
「あ、あの……」
鈴を転がすような、可愛らしい声。
俺は本から目を離さず、石像のように固まった。無視だ。聞こえていないフリをするんだ。
だがノエルはめげない。
「ここ、座ってもいいでしょうか? 他の場所は、その、いっぱいで……」
嘘だ。今の時間、閲覧席はガラガラだったはずだ。わざわざこの陰気な古書エリア、しかも俺の目の前に来る理由なんてない。
これは罠だ。ここで「座るな」と罵倒すれば、それが周囲に知れ渡り、「オメガを差別する傲慢な貴族」というレッテルが貼られる。かといって「いいよ」と優しくすれば、彼に好かれてしまうかもしれない。どちらも破滅への道だ。
俺はゆっくりと顔を上げ、氷点下の視線を彼に向けた。
そして、一言も発さず、ただ無言で彼を見つめ返した。
『頼むから去ってくれ。俺に関わらないでくれ。怖いんだよお前が』
心の叫びを目力に込める。
ノエルは一瞬ひるんだように身を縮めたが、すぐにその瞳に涙を滲ませ、深く頭を下げた。
「あ……ありがとうございます! ご迷惑はおかけしませんので!」
そして嬉しそうに椅子を引き、ちょこんと座った。
『……は?』
俺は内心で首を傾げた。なぜ感謝された? 俺は一言も許可していないし、なんなら「消えろ」という念を込めて睨みつけたつもりだったのだが。
ノエルは持ってきた本を開き、勉強を始めた。時折、チラチラと上目遣いでこちらを見てくるが、俺は徹底的に本に集中するふりをした。
心臓がうるさい。甘い匂いが漂ってくる。至近距離に主人公がいるという異常事態に、冷や汗が止まらない。
十分ほど経った頃、数人の男子生徒が騒がしく図書室に入ってくる気配がした。声の大きさからして、柄の悪い連中だ。
「おい、オメガの匂いがするぞ」
「どこだ? 生意気な特待生か」
書棚の向こうから、下品な笑い声が近づいてくる。ノエルの肩がびくりと震えた。顔色が青ざめ、手元の本を握りしめている。
どうやら、彼を探しに来たらしい。
俺は本を閉じた。
関わりたくない。だが、ここで彼らが乱入してくれば、俺の安息の時間も終わりだ。それに、目の前で騒がれるのは不愉快極まりない。
俺は立ち上がった。
ノエルが驚いて顔を上げる。
俺は無言で書棚の方へ歩き出した。ちょうど角を曲がってきた三人組の男子生徒と鉢合わせる。
彼らはオメガを探してにやついた顔をしていたが、俺の姿を見た瞬間、凍りついたように表情を消した。
「ヴ、ヴァルドア公爵令息……!」
「な、なぜこんなところに……」
俺は彼らを、ゴミを見るような目で見下ろした。身長差もあるが、この悪役面による威圧効果は絶大だ。
言葉はいらない。ただ、「邪魔だ」という意思を込めて、軽く眉をひそめただけだ。
それだけで十分だった。
「し、失礼しましたッ!」
彼らは脱兎のごとく逃げ出した。公爵家の嫡男に睨まれては、退学もあり得る。彼らの生存本能が働いたのだろう。
静寂が戻った。
俺は深いため息をつきたいのを我慢して、そのまま図書室を出ようとした。これ以上ここにいると、ノエルと二人きりになってしまう。
背後で、ガタリと椅子が引かれる音がした。
「あの!」
ノエルの声。俺は足を止めずに歩き続ける。
「助けてくださって、ありがとうございました……!」
震える声が背中に投げかけられた。
違う。俺は自分自身の平穏のために、騒がしいハエを追い払っただけだ。お前のためじゃない。
だが、振り返って訂正するのも面倒だ。俺は一度も振り返ることなく、その場を去った。
残されたノエルが、胸の前で手を組み、頬を染めて俺の背中を見送っている姿を想像することもなく。
「やっぱり……ルシアン様は優しい。言葉にしなくても、行動で示してくださる方なんだ」




