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推しの悪女の侍女になりました 〜断罪フラグ? 推し愛で全部へし折ります〜

作者: 海城あおの

 

 ──突然、火花が散ったように頬が痛んだ。

 視界に飛び込んできたのは、砕け散った陶器の残骸。紅茶が床に広がり、絨毯を濃い色に染めている。


「こんな不味いお茶を持ってくるなんて、どういうつもり!?」


 鋭い叱責の声に心臓が跳ねた。

 視線をあげたそこには──私の"推し"がいた。

 艶やかな紫色の長髪、燃えるような赤い瞳。怒気を孕んだ鋭い眼差しは、漫画やアニメで何度も見た推しそのもの。


(ろ、ろろろ、ロザリア様……!?)


 混乱の渦の中で、私は必死に記憶をたぐり寄せた。

 最後の記憶として浮かんだのは、原稿を書き殴っていた夜。

 夏コミの入稿まで残り二日。三徹目という修羅場で意識が朦朧とする中、キーボードを叩きつけていた。だけど突然、心臓に激痛が走り、モニターに映るロザリア様の表紙に手を伸ばし──意識を失った。

 そこまで思い出して、私は一つの可能性に行き当たる。


(まさか私……死んで、転生したの……!?)


 目の前には推しの悪女。

 私が命を削ってまで推していた彼女が、現実に立っている。

 頬の痛みは、きっとビンタのせいだろう。ものすごく痛いが、推しからのビンタだと思うとそれさえも愛おしい。


(ロザリア様……! 本物のロザリア様だ……!)


 存在が尊すぎて胸が熱くなる。

 内心感激している私とは打って変わって、ロザリア様は氷のような声で命じた。


「下がりなさい。顔を見るだけで不快だわ」


 周囲のメイドたちが一斉に息を呑み、わずかに後ろに下がった。誰もが主人の怒りを買うまいと、息を潜めている。

 恐れられて当然だった、彼女は王都で「悪女」と呼ばれる令嬢なのだから。

 だけど私は違う。


(ロザリア様……! その厳しさ、その孤高さ……やっぱり尊すぎる……!)


 周囲が震える中、私の胸は歓喜でいっぱいだった。

 しかし恐怖で立ち尽くしていると勘違いされたのか、後ろのメイドが私を必死に引きずろうとする。


(あっ、ちょ、ロザリア様を拝んでいるのに!!)


 私の抵抗もむなしく部屋の外へと引きずられ、扉がパタンと閉じられる。ロザリア様の冷ややかな視線から解放され、張り詰めた空気が若干和らいだ。

 すると頬にそばかすが散ったメイドが心配そうに声をかけてくる。


「ソレイユ、大丈夫?」


「ソレイユ」と呼ばれた瞬間、体に眠る記憶が鮮やかに蘇ってきた。

 この体の持ち主の名前は、ソレイユ・フラン。エルフェリア国の子爵家の令嬢で、事情があってロザリア様のメイドとして働き始めた……らしい。

 私が頷くと、メイドたちはため息をこぼした。


「ロザリア様の機嫌が悪いわね……」

「お茶を飲みたいとおっしゃったのは、ロザリア様なのに」

「本当に悪女みたいな方だわ……」


 メイドたちは口々に囁き合い、足早にその場を去って行く。彼女らの背が角を曲がって消えたとき、私はようやく息を吐いた。心臓が暴れたように高鳴っている。


(やっぱり間違いない、ここは「花キミ」の世界だ……!)


 小説「祝福の花束はキミのために」、通称「花キミ」。

 光の魔法に目覚めたヒロインが、王子であるヒーローに愛される王道恋愛ファンタジーだ。

 私の推しであるロザリア様──ロザリア・ヴァレンティーノは婚約破棄をされ、ヒロインを排除しようと画策し、最後は牢獄で処刑される。一見すれば同情の余地なしの悪役だ。

 だが私は、ロザリア様が最推しだった。


(推す理由はいくつもあるけど、やっぱり一番は牢獄のシーンよね!)


 親の顔より見た展開をうっとりと思い出す。

 牢獄に繋がれるロザリア様のもとへ、元婚約者であるアランが訪ねてくるシーンだ。


「ロザリア……なぜ正しい道に進まなかった?」


 アランが鉄格子越しに問いかけたあと、ロザリア様は微笑みながら言い放つ。


「何が正しい道だったかなんて誰にも分からない。

私が生きてきた道を、正しいと信じるだけよ」


(推せる……!!!)


 思い出すだけでも胸が熱くなる。

 牢獄の中で髪は乱れ、みすぼらしい囚人服を纏っていても、彼女は自分の決断を少しも後悔していなかった。

 最後まで迷いや痛みを抱えていたのかもしれない、それでもロザリア様は自分の道を貫いた。彼女の行動は称賛できるものではなかったが、その生き様は確かに私を救ってくれたのだ。


(でもまさか生きがいだった同人活動で死ぬことになるなんて……)


 皮肉めいた笑みを一人浮かべていると、窓を叩く雨の音が耳に届いた。

 雨滴の向こうには、整然と手入れされた庭園が広がっている。


(雨……)


 廊下の窓へ駆け寄る。鉛色の空の下、庭の白薔薇が重たげに揺れていた。

 その時、ファンブックの片隅に描かれたイラストをふっと思い出す。雨の日にロザリア様がこめかみを押さえているイラストだ。

 気づけば体が先に動いていた。

 ソレイユの記憶のもとにキッチンへ走り、戸棚の奥を漁る。目的の茶葉が見つかったので、私はティーセットと一緒にトレイに載せた。

 キッチンにやってきたメイドが驚いたように声をかけてくる。


「ちょっと、ソレイユ!? さっき怒られたばかりなのにどこ行くの!?」

「ロザリア様のお部屋へ行ってきます!」


 戸惑うメイドを無視して、私はロザリア様の部屋へと向かった。

 扉をノックしたが、反応はない。私は決意してドアノブに手をかけた。


「失礼します。先ほどのお詫びをお持ちしました」


 扉を少し開けると、窓際の椅子に座ったロザリア様がこちらを一瞥した。氷のような視線がこちらを射るが、拒否の言葉はない。

 私は室内に入り、入り口脇のテーブルにトレイを置いた。

 ティーポットの中に茶葉を入れ、湯を注いで二分ほど蒸らす。カップに薄緑色の液体を注ぎ、ロザリア様の座る窓際へ向かった。

 彼女は私の方を一切見ようとせず、外を眺め続けていた。そっとカップをテーブルに置く。


「ミントティーです」

「ミントティー?」


 声には不愉快そうな色が滲んでいた。しかし私が笑みを崩さずにいると、呆れたように一つため息をついて、一口だけ飲んでくれた。すると僅かだか目が見開く。


「ロザリア様」

「……何よ」

「頭が痛いのではありませんか? もしよければマッサージいたします」


 ロザリア様は一瞬だけ意表を突かれたような顔をし、すぐに隙のない無表情へと戻った。


(色んな表情を目にできて感激です……!!)


 内心叫んでいると、「勝手にすれば」と素っ気ない返事が返ってきた。心の中で小さくガッツポーズをし、ロザリア様の背後へと回る。


「失礼します」


 許可を得てから、肩のあたりをぐっと押す。びっくりするほど指が入らない。まるで岩のようだ。時間をかけて念入りにほぐしていくと少しずつ柔らかくなってきた。指を移動し、次はこめかみ付近を慎重に押していく。


(うああああああ、頭が小さい、お顔が小さい!)


 推しに触れられる喜びに浸りながら、私は前世の記憶を思い出していた。

 ロザリア様は雨の日になると極端に機嫌が悪くなる。これはファンブックで得た情報だった。

 さらにスピンオフ小説「ロザリア・ヴァレンティーノの憂鬱」では雨模様の空を眺めて、頭痛に悩まされるロザリア様が描かれていた。


 そこから着想を得た私は、気圧の変化によって起きる「気象病」について調べ始めた。

「気象病」とは気圧や気温、湿度などの急激な変化によって引き起こされる体調不良のことである。ロザリア様の憂鬱も「気象病」が原因かもしれない、何か解決方法は──そう考えて見つけたのがミントだった。

 ミントには鎮痛効果やリラックス効果があるとされ、昔からハーブ療法として親しまれてきた。

 そのことを知った私は、ロザリア様のために完璧なミントティーを作ることに奮闘した。一時期はベランダでミントを栽培したこともあったほどだ。


(練習しといてよかった……!)


 どうやらロザリア様にもミントティーは喜んでもらえたようだ。

 賃貸アパートのベランダをミントだらけにし、大家にこっぴどく怒られた経験も無駄ではなかったのだ。


「もういいわ」


 十五分ほどマッサージしたところで、ロザリア様が制止の声をあげた。

 ロザリア様は顔だけ振り向いて尋ねる。


「あなた、名前は?」

「そ、ソレイユです!!」

「そう。あなた、明日から私の専属侍女になりなさい」

「へ」

「不満なの?」

「いえ! 光栄です!!」


 私は慌てて否定する。


「言っておくけど、私の専属侍女はあなただけだから。大変よ?」


 ロザリア様は意地悪そうな顔で笑う。他のメイドが見たら恐怖で震えてしまうかもしれないが、ロザリア様が最推しの私にとってはご褒美でしかない。


「ありがとうございます! 頑張ります!!」


 全力の笑顔で答えたら、彼女は一瞬だけ拍子抜けした顔を浮かべた。


「……変わり者ね」


 そして、ふいっと窓の外へと視線を移してしまった。

 ロザリア様の横顔が尊すぎて眩しい。


(でも……私は知っている)


 ソレイユの記憶によると、現在ロザリア様は学園に通う二年生だ。

 原作通りなら一年後、ロザリア様が「悪女」と呼ばれながら婚約破棄される。そしてヒロインを殺害しようとした罪で、牢獄に繋がれ、処刑されてしまう。

 前世で彼女の最期を見て何百回も泣いた。何度も何度も「救いたい」と願った。その願いを同人誌にぶつけ続けた。

 私は拳を握りしめる。

 ──この世界でなら、私は運命を書き換えられる。


(一年以内に推しを救う……必ず!)


 私はロザリア様の横顔を見つめながら、決意した。



 *


 翌朝──


「美しすぎます!」

「うるさいわね」


 生きててよかった。いや、死んで転生してよかった。

 馬車に乗って共に「エルフェリア王立学園」へ登園する私とロザリア様。

 再び怒られないように、ロザリア様の制服姿をそっと盗み見る。

 黒を基調にしたブレザー。裾や袖には赤いラインが施され、上品な華やかさを放っている。そしてスカートから伸びる美しい脚は透け感のあるニーハイソックスに包まれていた。


(ああ、美しいですロザリア様! 踏まれたい!)


 一人感動していると、ロザリア様は「馬鹿ね」と小さく呟いて、馬車の外へと視線を移してしまう。


「……でもアンタが来てくれてよかった」

「?」


 何のことか分からず首を傾げる。

 ロザリア様のセリフの意味が分かったのは、学園に到着してからだった。


「わぁ……!」


 馬車から降りた瞬間、思わず声をあげた。

 目に飛び込んできたのは赤褐色のレンガで築かれた荘厳な校舎だった。作品でしか見たことがなかった学園が、今目の前にある。私は感激で立ち尽くし、言葉を失っていた。


「楽しい風景ってもんでもないでしょ」

「そんなことありません!」


 否定すると、ロザリア様は「ふ」と少しだけ口角をあげた。

 しかしその穏やかな表情が石のように固まってしまう。

 彼女の視線を辿った先には、純白の豪華な馬車が停まっていた。車体に描かれていた紋章を見て、ある人物の存在が頭に浮かんだ。


(あれは……)


 馬車の扉が開き、一人の美しい男が降りてきた。

 陽光のような金色の髪に、深い森を思わせるエメラルドグリーンの瞳。洗練された所作と全身から醸し出る高貴なオーラ。


(アラン・グランセール!)


 紛れもない「花キミ」のヒーロー。

 そしてロザリア様の婚約者にして、彼女を断罪する張本人だった。

 漫画やアニメで何度も見てきたが、やはり実物の破壊力は違う。あまりの眩さに目が潰れそうだ。

 彼はロザリア様に気づくことはなく、馬車の中にいる誰かに向けて手を伸ばしている。「足下に気をつけて」という甘い声が風に乗って聞こえてきた。

 そして馬車から降りてきた人物を見て、私の全身から血の気が引いた。


(まさか……!)


 私の悪い予感は的中してしまった。

 馬車から降りてきたのは、淡い桃色の髪を持つかわいらしい美少女だった。

 彼女が石畳に降り立った瞬間、足元が少しふらついた。


「あ……!」

「大丈夫か?」


 アランは素早く美少女の体を受け止め、優しく抱き支えた。

 その瞬間、隣にいるロザリア様が纏う温度が急激に下がった。ひいっ!と悲鳴を必死に呑み込む。


(ラブコメでよくあるシーンを婚約者の前でやるなああああああ!!)


 私の絶叫もむなしく、アランと美少女は二人だけの世界に入ってしまっているのか、抱き合ったまま見つめ合っている。

 そんな二人の元にロザリア様はヒール音を鳴らしながら、コツコツコツとまっすぐ歩いて行く。

 アランがロザリア様に気づくと、最初は目を見開いて驚き、居心地の悪そうな顔を浮かべた。彼の腕の中にいる美少女は明らかに怯えの色を浮かべ、小動物のように震えている。


「ごきげんよう、アラン様」

「……あぁ」

「フィローレ・ランシェ、いつまで人の婚約者にくっついているのですか?」

「あ、す、すみません……!」


 やはり、美少女の正体は「花キミ」のヒロイン、フィローレ・ランシェだったのだ。

 ロザリア様は冷え切った声でアランを糾弾する。


「婚約者がいる身でありながら、別の女性と同じ馬車に乗るとはどういうことですか?」


 ロザリア様が至極真っ当な意見をぶつけた。

 私はその通りだと内心首がとれそうなほど頷いて同意する。

 アランは眉を寄せ、明らかに不機嫌な表情を浮かべた。そして反論するように口を開く。


「貴重な光の魔法使いをもてなすのは王家の役目だ」

「他にも方法があるはずです」


 ぴしゃりと言い放つと、アランの額に青筋が浮かんだ。

 フィローレはおろおろとアランの顔を見上げる。すると彼は一転して、彼女に向けて優しい微笑みを浮かべた。ロザリア様の雰囲気がさらに殺気だつ。

 学園に向かう貴族たちも、三人の異変に気づいて視線を向け始めた。好奇心に満ちたざわめきが波のように広がり、遠目から様子をうかがっている。

 注目が集まっている中、アランは鋭くロザリア様を睨んだ。


「君がそんな偏屈な女だとは知らなかった。フィローレの淑やかさを少しは見習え」


 隣で息を呑む音が聞こえた。

 そっと視線を向けると、ロザリア様は完全に凍りついていた。当然の反応だ。アランの婚約者として血の滲むような努力を重ねてきたのに、ぽっと出の女を見習えと言われているのだから。

 彼女は拳を握り、わなわなと体を震わせた。彼女を纏う空気が困惑から怒りへと一変する。生徒たちが集まってくると、私の脳内で警報が鳴った。


(これは原作でもあった展開……!)


 原作では、ロザリア様が嫉妬に狂ってフィローレを一方的に罵倒し、アランが騎士のように彼女を庇うという展開だったはずだ。一部始終を見ていた私には、アランが百億パーセント悪いと分かる。しかし周りの貴族からは、ロザリア様が一方的に暴れているようにしか見えないだろう。

 ここで口論になったら、ロザリア様が「悪女」認定されて断罪ルートに入ってしまう。


(それだけは絶対に駄目!!)


 気づけば私は一歩踏み出し、声を張り上げていた。


「ロザリア様!」


 ロザリア様が私の大声に驚いたように見つめる。

 私はまっすぐに彼女を見据えて、声が震えないように意識しながら静かに告げた。


「約束のお時間が迫っております」

「……約束?」

「はい」


 堂々と頷いたが、私の背中には一筋の汗が流れていた。緊張で手のひらが汗ばんでいく。

 もちろん約束などしていない。この状況から抜け出すための、苦し紛れの嘘だ。


(お願いロザリア様、ここで怒ってはダメ!)


 祈るようにロザリア様を見つめていると、彼女は視線を周囲に巡らし、ふっと肩の力を抜いた。


「……えぇ、そうね」

「おい、メイドの分際で口に出すな!」


 アランが声を荒げて叫んだ。私はメイドではなく侍女なのだが。彼にとっては些末なことなのだろう。

 ロザリア様は沈黙を保ったまま、二人の脇を通り過ぎた。私も素早く会釈をして、彼女の後に続く。

 その場から十分に離れたところで、ロザリア様の唇がかすかに動いた。耳を澄まさなければ聞こえないほどの、消え入りそうな声だった。


「……感謝するわ、ソレイユ」



 *


 ロザリア様が案内してくれたのは、静かな談話室だった。

 朝の時間帯は利用者が少ないのか、今いるのはロザリア様と自分だけだった。

 部屋の隅に設置された簡易キッチンでカモミールティーを淹れ、ロザリア様の前にそっと置く。「どうぞ」と小さく声をかけると、彼女はカップを手に取った。

 一口飲んだ後、ロザリア様は窓から登校してくる生徒たちを眺めながら口を開いた。


「頭に血が上っていたわ。貴族たちの前で言い争いなど見せてはいけないのに」


 そしてロザリア様は独り言のようにぽつりと言った。


「……アラン様を責めたのは、間違っていたのかしら」

「そんなことありません!」


 どう見ても悪いのはアランだった。婚約者を裏切り、公衆の面前で辱めようとした。それなのにロザリア様は自責の念に駆られている。

 その姿があまりにも痛ましくて、思わず否定の言葉が飛び出した。一歩踏み出した拍子に、膝を椅子の脚へぶつけてしまう。

 ガタン、と音を立てて椅子が揺れ、上に置いてあった鞄が床へ転がり落ちた。留め具が外れ、中身が床一面に散乱してしまう。


「す、すみません!」


 慌てて謝り、散らばったものを拾い集めたその時、一冊のノートに目が留まった。

 落ちた際に開いてしまったページには、貝殻のデザイン画が描かれていた。

 デザインを見る限り、どうやら化粧品のようだ。扇状の貝殻のコンパクトが開き、パウダーが収まっている。留め金には小さな真珠が一粒埋め込まれて、上品なアクセントになっていた。

 丁寧に描かれたスケッチに、思わず呟いてしまう。


「……きれい」

「何してるの?」


 ロザリア様の呼びかけに我に返り、落ちたものを素早く鞄にしまい、ノートだけはテーブルに置いた。ロザリア様のノートを勝手に見てしまったのは事実なので、バツの悪さを感じながらも正直に答える。


「すみません、目に入ってしまって……」

「あぁ、これね」

「どなたが描いたのですか?」

「私よ」

「え!?」


 私が驚くと、ロザリア様は懐かしそうに貝殻の絵に触れた。


「亡くなった母は絵が上手でね。私も時々描いていたの。気晴らしにね」

「素晴らしいです……!」


 美貌と知性と品格も兼ね備えた上に、芸術的才能まで持ち合わせているなんて。ロザリア様の多才ぶりに、私は改めて感嘆の声を漏らす。

 もう一度スケッチを目に焼き付けようと視線を落とせば、絵の脇に字が隙間なく書き込まれていることに気づく。複数の薬草名や「白粉」「ローズエキス」など素材の名前が細かく記載されていた。


「これ……もしかして、化粧品の素材ですか?」

「えぇ。薬草学の授業で興味が出て、色んな素材を調合して試してみたの」

「調合まで!?」


(推しが天才過ぎる……!)


 戦慄しながら、手で口元を押さえる。

 ロザリア様は皮肉めいた笑みで自嘲した。


「美しくなれば、アラン様の心も離れないと思っていたのよ。馬鹿よね」


 その言葉を聞いた瞬間、胸に鋭い痛みが走り、泣きたくなるほどの苦しさが襲った。

 たった一人の男性に振り向いてもらうために努力を重ねるロザリア様の姿が、切なくて、痛ましくて、見ているだけで辛い。

 私は耐えきれず話題を変えようと、ノートの絵を指さして尋ねた。


「これはファンデーションですか?」

「違うわ、化粧の仕上げ用のパウダーよ。肌に自然な艶を与えてくれるの」

「へぇ……!」


 そういえば前世で似たような商品があったなと思い出す。

 この世界ではそんな化粧品はなかったので、ロザリア様の発想でつくられたことになる。流石ロザリア様……と、そこまで考えて私は閃いた。


(これ、断罪ルートを回避できる道になるんじゃない!?)


 私はノートを指差して勢いよく提案した。


「こちらを商品化するのはいかがでしょう!」

「無理ね」


 一蹴されてしまった。

 私が肩を落としていると、ロザリア様が理由を説明してくれた。


「一番の問題は素材ね」

「素材?」

「えぇ、このパウダーには真珠が必要不可欠なの。でもエルファリア国では真珠が採れない。輸入は高いし、不安定。商品化するには現実的じゃないわ」

「真珠……」


 そう呟き、私の頭の中では原作の展開が蘇ってきた。記憶の断片が繋がり、一つの場面が浮かび上がる。一年後に「幸運の女神」の逸話が生まれるエピソードだ。


(……間に合う、今なら原作より先に動ける!)


 活路が開いた気がして、私は大興奮の中、叫んだ。


「ロザリア様っ、一緒に行っていただきたい場所があるんです!」


 *


 一週間後。


「……本当にこんな場所に来たかったの?」


 ロザリア様がそういうのも無理はない。

 ここはエルファリア国の南端にある港町ポルーノ。港町と聞けば賑やかな街並みを思い浮かべるが、目の前に広がっているのは想像とは正反対の景色だった。

 家は古びて朽ちかけ、木造部分は海風で腐食し始めている。通りを歩いているのは老人が数人だけで、若者の姿は見当たらない。明らかに寂れた町だった。

 ここに到着するまでの一時間も過酷だった。道の整備もされておらず、馬車がものすごく揺れた。おかげでロザリア様がとても不機嫌である。


「はい! ある人と約束を取り付けましたので、会っていただきたいのです」

「その人に気に入られるように行動すれば、私にメリットがあると言ってたわね?」

「はい、お約束します! もしロザリア様が不利益をかぶることがあれば、私は首でも心臓でも何でも捧げます!」

「……そこまでしなくていいわよ」


「まぁアンタには借りがあるしね」とぶっきらぼうに言う。

 学園での一件から、ロザリア様の態度が確実に変化した。口調は冷たいままだが、奥底に彼女の優しさを感じる。ツンデレロザリア様って最高だなと感じる毎日である。


 もちろん、ロザリア様が不利益をかぶることなど私は提案しない。

 現在は寂れた港町ポルーノだが、一年後には良質な真珠の産地として生まれ変わるのだ。

 原作ではアランとフィローレが旅行帰りにこの港に立ち寄り、荒廃した街並みを見たフィローレが心を痛める。それがきっかけでアランはポルーノの商業ギルドと契約を交わす。その後、真珠が発見され、フィローレは「幸運の女神」と呼ばれるようになる……というエピソードだ。

 だったらその前に行動を起こせばいい。


(名付けて「ロザリア様と商業ギルドの長を引き合わせてしまえばいいじゃない」作戦!)


「それにしても大丈夫? 屋敷を出たときからいつもより挙動不審だけど」

「へへ……はは」


 笑って誤魔化す。

 実はこれから会う人物のことを考えると、昨夜は大興奮で眠れなかったのだ。

 すると屋敷の中から一人の男性が歩いてきた。私の興奮が最高潮になる。

 彼は私たちの前で止まり、優雅に腰を曲げた。


「はじめまして、ロザリア様。ダミアン・サンベルクと申します」


 短く整えられた淡い栗色の髪。目元は涼しげなグレーで、奥に優しい光を宿していた。

 ロザリア様よりも二十センチほど高い身長と均整のとれた体つき。シンプルだが上質な仕立ての服で身を包んでおり、物腰のやわらかさが全身からにじみ出ていた。


(お、推しカプが、目の前に……! 公式で……!!)


 私は興奮のあまり倒れないように気をつけながら、まばたきすることも忘れて二人を凝視した。この瞬間を一瞬たりとも見逃すまいと網膜に焼き付ける。


 ダミアン×ロザリア


 略して「ダミロザ」、私が五年間推し続けたカップリングである。

 ダミロザは「花キミ」のマイナー中のマイナーのカップリングだった。

 どれくらいマイナーかというと、ピクチブという大手小説投稿サイトの投稿数が分かりやすいだろう。メジャーカプであるアラン×フィローレの小説は一万件ほど。それに対して、ダミロザは五十件だ。

 そのうち四十八件は、私の小説である。


 マイナーカプである最大の要因は「原作で二人の接点が皆無なこと」。接点どころか、ダミアンとロザリア様が同じ空間に登場することさえもない。

 しかし私は推した。五年間推した。新刊も毎年出し続け、「え、何でダミロザ?」「絡みあったっけ?」と囁かれながら売り続けた。

 私がダミロザを推し始めたのは「ロザリア様を幸せにできる男は誰か」という観点から、ひたすら妄想しまくった結果だった。


「ロザリア様は孤高で気高い人で、人に甘えることを知らない子なんだ……! 包容力がある男が大きな愛で抱きしめてくれないとロザリア様は幸せになれない……!」


 そう考えて辿り着いたのが、サブキャラの一人、ダミアン・サンベルクだった。二十八歳。バツイチ。

 ちなみに彼の離婚理由は、前妻が散財と不倫を繰り返すとんでもない人だったからで、ダミアンには何の落ち度はない(※ファンブック情報)


「突然、申し訳ございません」

「いえ、こんな辺鄙な港町に興味を持っていただけて嬉しいです」


(しゃ、喋った!! 二人が同じ空気を吸って喋ってる!!!)


 出会うことのない二人の邂逅を、妄想だけで乗り超えた拗らせオタクには刺激が強すぎる。供給過多でどうにかなってしまいそうだ。


 ダミアンはふわりと笑い、私たちを屋敷の中へと案内した。所作の一つ一つが丁寧で、相手を気遣う優しさに満ちている。

 原作ではあまり出番がなかったが、実際に会ってみると包容力の塊のような人だ。先日のアランの横暴さを見ていたからか余計にそう感じてしまう。

 貴賓室に案内され、ロザリア様がソファーに腰を下ろした。ダミアンも向かいの席に座り、口を開く。


「ポルーノはご覧になりましたか?」

「えぇ」

「寂れた町でしょう?」

「……」


 ロザリア様は気まずそうにカップに口つけた。その様子を見てダミアンはからからと笑う。


「サンベルク家でも正直、扱いに困っている町なんです。魚は捕れますが、どれも小さくて王都に卸すには向いていないんです。すぐそばにはグラン港という国内屈指の港もありますし。自分としては思い入れがある土地なので、できれば栄えて欲しいと思っているんですが」


 ダミアンは苦笑を浮かべながら、手にしたカップに口づける。

 そこでじっと考え込んでいたロザリア様が、顔を上げた。何か閃いたような表情で提案する。


「その魚たち、ヴァレンティーノ家で買い取れるかもしれません」


 彼女の言葉に私だけではなく、ダミアンも目を丸くしている。


「し、しかしヴァレンティーノ家に卸すにはあまりにも小ぶりなのですが……」

「いえ、私の家に卸すのではなく、『カゼッタ』に卸すのです」

「! あぁ、なるほど! ヴァレンティーノ家の運営でしたね」

「よくご存じで」


 ロザリア様がダミアンに微笑んでいる!

 私の心臓が破裂しそうだ!!


(「カゼッタ」って確か……)


 私は原作の内容を思い出す。

「カゼッタ」とは酒場の名前だ。庶民向けの酒場だが、実はヴァレンティーノ家が「情報収集」のために運営している。

 酒場のスタッフは客たちの噂話に聞き耳を立て、王家に関する噂、貴族間の対立、反乱の兆しなどを拾い上げて、ヴァレンティーノ家の主人に報告しているのだ。

 ロザリア様は再び紅茶を口に含む。


「最近、父がぼやいていましたの。グラン港のギルドから仕入れる魚の価格が高くなっていると……。私たちとしては魚の大きさはそこまでこだわりがありませんの。どうせ加工してしまいますから」

「値段が安い方が重要と言うことですね」

「えぇ」

「少しお待ちいただけますか? 魚の種類と値段をリスト化したものが確か……あぁ、あった」


 足下に置いた革鞄から書類を取り出し、テーブルの上を滑らせるようにしてロザリア様の前に差し出す。彼女は書類を受け取り、記載内容に目を通し始めた。

 その後、具体的な取引条件について交渉がはじまった。扱う魚の種類や、キロあたりの単位設定、まとめ買いによる値引率などいくつか質問を投げかけていく。

 そして窓から差し込む光が夕焼け色に変わりはじめた頃、ロザリア様は立ち上がった。


「では、今の条件で父に聞いてみますわ」

「はい。お待ちしております」


 貴賓室を後にして玄関ホールに到着すると、ダミアンは先回りして扉を開けた。潮風の空気が室内に流れ込んでくる。

 彼は石段を降りてから振り返り、ロザリア様に手を差し出した。


「段差があるので」


 ロザリア様は一瞬だけ迷い、そっと手を重ねた。エスコートされながらゆっくりと段差を降りていく。

 待機していた馬車の前に辿り着くと、ダミアンは満足そうに笑った。


「本日はありがとうございました。ロザリア様のお話がどれも興味深くて、つい時間を忘れてしまいました」

「……お世辞を言っても、得るものはありませんよ。『カゼッタ』の管轄は父ですから」

「ふふ、お世辞ではありませんよ」

「……そうですか」


 ロザリア様の冷たい反応を気にすることなく、ダミアンは優しく目を細めた。ロザリア様が馬車に乗り込んだのを確認して、私も後に続く。

 馬車が走り出したあとも、彼は屋敷前から動かなかった。だんだん小さくなっていく馬車を、最後まで見送り続けてくれている。どこまでも誠実な人だ。


 それにしても今日は供給過多でどうにかなりそうだ。五年も脳内で妄想し続けたカップリングが目の前で話していたのだから。どうか私の脳みそを取り出して、ブルーレイに焼き付けることができないだろうか。

 私は多大なる感謝を伝えるため、口を開いた。


「ロザリア様、本日はありがとうございました!」

「……えぇ」

「ダミアン様の印象はいかがでしたか?」


 軽い気持ちで聞いた質問だった。

 先ほどまでのロザリア様は、徹底して事務的だった。公爵令嬢として完璧に立ち振る舞い、淡々と対応していた。だから彼の印象を聞いても、「特に何も」と素っ気なく返されるだろうと予想していた。


 だけどロザリア様の顔が──真っ赤に染まった。


「……」

「……」

「……」


(え?????????????????)


 長い長い沈黙が流れたが、私の脳内は大混乱に陥っていた。


(ろ、ろ、ロザリア様が? ダミアンを? え? 私の妄想が具現化した? 私がおかしくなった?)


 ロザリア様は私とは決して視線は合わせないが、顔は真っ赤に染めたままだ。怒ったように窓の外を見つめている。


「……初めてだったの。あんな風に褒めてもらえたの」


 沈黙を破ったのはロザリア様だった。その告白に、心臓がきゅっと縮む。

 どんなに優秀な成績をおさめても、どれほど完璧なマナーで社交界に臨んでも、「次期王妃だから当然」と言われてしまう。努力は認められず、成果は当たり前のもとして扱われる。

 誰よりも努力をしてきたのに、褒め言葉一つさえももらえない。その事実が悲しくて仕方なかった。


「ダミアン様の役に立てればいいなと、ちょっとだけ、思っただけよ」


 そう言って私のことを睨むように見つめてくる。真っ赤にした反応を隠すような言動に胸がときめいてしまう。ロザリア様、そろそろkawaiiの致死量を超えて死んでしまいそうです!


 ロザリア様はむすっとしたまま、再び馬車の窓の外に視線を移した。

 私はそんな彼女の横顔をずっと見ていた。

 どうかこの出会いがロザリア様にとって、よりよいものになりますように。そう願いながら。


 *


 その後、ロザリア様の父であるセルドア様からポルーノの魚を卸す正式な許可が下りた。

 それをきっかけに、ロザリア様とダミアンが顔を合わせる機会も増えていった。ダミロザ推しの私にとって夢のような日々。二人が並んで書類を見ている姿、時折交わす微笑み、さりげなく触れ合う指先……すべてが尊く、最高の日々を過ごしていた。

 しかしある日、穏やかな朝の雰囲気が、突然の来訪者によって一変した。メイドから人物の名前を告げられた瞬間、ロザリア様の表情が目に見えて曇る。


「今すぐ準備して」


 命じられた通りに、私は急いで準備に取りかかった。紺色のドレスに着替え、髪を整えたロザリア様は、早足で貴賓室へと向かった。

 扉を開けると、不機嫌そうな顔で足を組むアランがいた。


「アラン様、ご機嫌よう……何か急ぎの用でしたか?」

「婚約者に会いに来るのに理由がいるのか?」


 その言葉で私の額に青筋が浮かび上がった。腹立たしさで拳を握りしめる。

 学園で言い争いをして以来、ロザリア様とアランは一度も顔を合わせていなかった。彼から手紙が来ることもなく、てっきりフィローレと仲良くやっているのだろうと思っていたのに。


(いきなり来ておいて、その態度は何なのよ!)


 私が内心煮えたぎっているのと裏腹に、ロザリア様は涼しい顔をしていた。アランの向かいに腰を下ろし、姿勢を正す。そしてまっすぐに彼を見つめた。

 アランは表情一つ変えないロザリア様に苛立ちを募らせ、不満を滲ませながら口を開いた。


「一通も僕に手紙を出さなかったな」

「え?」

「長期休暇のたびに『会いたい』と手紙を送りつけてきただろう。会えば毎回、『アラン様と会う日だけが唯一の楽しみです』『もっと私に会ってください』と言っていたじゃないか」


 その瞬間、ロザリア様の耳の先が真っ赤に染まっていく。

 照れているのではない。侍女やメイドの前で「男に縋っていた哀れな女」のように語られた屈辱に怒っているのだ。

 アランの失礼な発言は続く。


「どうせお前は級友にも会わず、家庭教師と閉じこもっているのだろう? たまには息抜きが必要かと思って、わざわざ来てやったんだ」


(は、はぁ~~~~~~~~!??!!!?)


 私は脳内で鉄パイプを振り回し、アランをボコボコにする妄想をして必死に怒りを押し殺した。

「花キミ」で絶大な人気を誇っていたアラン・グランセール。眩いほどの美貌と優雅な立ち振る舞い、そして知的で優しい完璧なヒーロー。まさか正体がこんな自己中心的な男だったとは。騙されていたという怒りが全身を駆け巡る。

 すると、ロザリア様は嘲笑を浮かべた。軽蔑と皮肉を交えた、冷ややかな笑みだった。


「いえ、今は別件のおかげで、毎日楽しく過ごしていますの」

「別件?」

「お手紙を出さなかったのも、そちらの件に夢中で、アラン様の存在を忘れていたからです」


 今度はアランの顔が真っ赤に染まる番だった。プライドを傷つけられた悔しさからか、憎々しげにロザリア様を睨む。そして我慢できずに問い詰めた。


「その件とは何なんだ!?」


 ロザリア様は唇に微笑を象って、人差し指をそっと添えた。見ているだけで立ちくらみしそうなほど妖艶な笑みだった。


「秘密です」


 アランの顔から血の気が引き、真っ白になった。赤くなったり白くなったり忙しい人だ。

 彼は勢いよく立ち上がると「失礼する!」と叫んで退出しようとする。しかし扉の前で立ち止まり、彼女の方を振り向くことなく吐き捨てた。


「僕の知らないところで君が好き勝手やってるなら、僕もそうさせてもらう」


 アランはそのまま扉を乱暴に開けて退出した。怒りに任せて歩く靴音が廊下に響き渡り、やがて遠くへ消えていく。音が消えたのを確認すると、ロザリア様はようやく体の力を抜いた。

 ソファーの背もたれに深く身を預け、天井を仰いで大きく息を吐き出す。


「疲れたわ」

「……温かいお茶をお持ちします」


 ロザリア様に心底同情しながら声をかけた。


 それからロザリア様の事業は着実に進んでいたが、表情が曇る日も明らかに増えていた。

 アランが押しかけてくる前は、生き生きと働いていたロザリア様。あの男の心ない言葉が、ロザリア様の心に影を落としているかと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになる。


(なーにーがー! 「僕の知らないところで君が好き勝手やってるなら、僕もそうさせてもらう」よ!? ロザリア様がやっているのは立派な事業よ! アンタがやっているのは浮気! 天と地の差があるでしょーが!!)


 海に向かって叫び散らしてやりたいが、万が一聞かれたら王家への反逆罪で打ち首になってしまう。怒りを発散することもできず、もやもやとしたわだかまりを抱えながら毎日を過ごしていた。

 侍女である私でさえ、これほどの怒りを抱いているのだ。

 ロザリア様は私の何倍もの怒りと悲しみを心の奥底に押し込めているに違いない。その苦しみを想像すると、胸が押しつぶされそうになる。


(いっそアランへの想いを捨てれば……)


 そこまで考えて、私は首を横に振った。

 幼少期から婚約者だった二人だ。幼い頃から将来を約束され、共に時を重ねてきた。そんな長い絆を完全に断ち切るのは難しいだろう。

 思案に耽りながらも、手は動かし続ける。ティーポットを持ち上げ、空のカップに紅茶を注いでいると、ダミアンの声が響いた。


「ロザリア様? どこか気分でも悪いのですか?」

「……いえ、大丈夫ですわ」


 時々上の空になるロザリア様に、ダミアンが不安そうな眼差しを向ける。ロザリア様は誤魔化すようにカップに口づけた。

 今日はポルーノからカゼッタへの魚を仕入れてから、はじめての報告会だ。

 報告によれば、魚の品質は上々で、味も申し分ないとのことだった。客からの反応もよく、リピーターも増えているらしい。


「何かありましたか?」

「いえ……」

「そうですか……」


 ダミアンは何も言えずに押し黙ってしまう。ロザリア様は人に頼ることが極端に苦手な人だと彼も分かっているのだろう。

 ダミアンはあくまでビジネスパートナーだ。公爵令嬢というプライドもある中で、ロザリア様が彼に弱みを見せることはないだろう。そう分かっていても、もどかしい気持ちになる。

 しばしの沈黙のあと、ダミアンは再び口を開いた。先ほどとは打って変わって、明るく弾んだ声で提案する。


「もしよろしければこの後『カゼッタ』へ行ってみませんか?」

「カゼッタへ?」

「えぇ。客の反応を肌で感じられますし、『カゼッタ』がさらに発展するヒントが得られるかもしれませんよ」


(ダ、ダミアン……!)


 彼の気遣いに目頭が熱くなる。

 無理にロザリア様から悩みを聞き出すのではなく、さりげなく励ます方法を選ぶなんて。さらに仕事の一環として誘うことで、ロザリア様が受け入れやすいようにしたのだろう。

 あの浮気野郎(注:アラン)とは包容力がまるで違う。人としての器の差が歴然としている。

 彼女は少し悩む素振りを見せたが、ダミアンの思いやりが、ロザリア様の心に届いたのかもしれない。最終的には「分かりました」と頷く。

 その時、私は気づいた。


(もしかしてこの展開、私が百億回は妄想した「平民服デート」では!?!!!?)


 そして現在、カゼッタの前には三人の姿があった。

 ロザリア様は髪を三つ編みにし、胸元で黒い紐を編み上げる濃い藍色のワンピースを着ていた。ダミアンは薄茶色の麻のシャツに、濃い茶色のベストを羽織り、まるで町人のような格好をしている。平民服に着替えたロザリア様とダミアンの姿を見て、私は手を合わせながら天地万物すべてに感謝を捧げていた。

 ダミアンは慣れた手つきで「カゼッタ」の扉を押し開けると、薪の燃える香りと共に、香ばしいエールの匂いが迎えてくれた。

 店員がこちらに気づき、すぐに店の奥のテーブルへと案内してくれた。席に着くなり、ロザリア様はきょろきょろと興味深そうに店内を見回す。その様子を見て、ダミアンがくすりと笑った。


「こういう場所は初めてですか?」

「えぇ、まぁ」


 バツの悪そうな顔で答えるロザリア様。一方で私はだらしなく緩んでしまう顔を必死に取り繕っていた。

 ロザリア様が手書きのメニュー表をまじまじと見て、「これがオススメですよ」とダミアンが指さして笑顔を見せる。あぁその場面も妄想しました、五十回は妄想しました。

「ロザリ……ロズは何か好きなものありますか?」とダミアンが尋ねる。貴族だとバレないように愛称で呼ぶ展開ですね。その場面も妄想しました、七十回は妄想しました。

 私は微笑みながら、至福の時間を噛みしめる。すると顔がニヤついていることに気づかれてロザリア様に睨まれてしまったため、慌てて店内を見回して誤魔化した。

 メニューを頼んで五分ほど経った後、くすんだ茶色のエプロンを身につけた店員がやってきた。頬にそばかすが散り、人なつっこい笑みを浮かべてジョッキと皿を置く。


「小魚のフリッターです! あとエールとぶどうジュースね!」

「どうも」


 ダミアンが皿を受け取り、揚げたてのフリッターをテーブルの中央に置いた。油の香ばしい匂いが食欲を刺激する。


「ソレイユはエールじゃなくていいのかい?」

「お酒が飲めないので」


 気遣ってくれたダミアンに嘘をつく。前世でも現世でもアルコール大好き人間であるが、侍女という手前、酔うわけにはいかない。まぁ目の前で広がるダミロザのお陰でぶどうジュースでも十分酔える自信があるが。


「では、乾杯!」

「……乾杯」


 ジョッキを合わせると鈍い音が鳴り、ダミアンは美味しそうに黄金色のエールを一気に飲み干した。

 その飲みっぷりを見て、呆気にとられていたロザリア様は意を決したようにジョッキを両手で持った。そして勢いよくエールを流し込む。私は慌てて声をかけた。


「ろ、ロザ……ロズ様、無理はせず……!」

「おいしいわね」


 ロザリア様はジョッキに残ったエールを見ながら呟く。全く酔った様子もなく、けろりとしており、飲んべえの片鱗が見えたような気がした。

 ダミアンは熱々のフリッターを一つつまんで、楽しそうに笑っている。カリッとした衣の音が聞こえ、中から湯気が立ち上がる。彼は美味しそうに囓りながら、悪戯めいた笑みを浮かべた。


「これをエールで流し込んだら最高ですよ」

「……わかりました。フォークは」

「ロズ、平民たちはつまんで食べるんです」

「え!?」


 戸惑いを隠せない様子で、フリッターを見つめる。普段、食卓に出てくる魚料理をフォークとナイフを使い、一口大に切り分けながら上品に食事をしているロザリア様。手づかみの料理など未知の領域だろう。

 呆然としている彼女の前で、ダミアンは再びフリッターをひょいとつまみあげた。そして口に放り込んだあと、エールで流し込み「うまい!」と叫ぶ。その様子を見て、ロザリア様の喉がごくりと上下に揺れた。

 覚悟を決めたロザリア様は、恐る恐るフリッターを手に取った。口の中に放り込んだ瞬間、目を白黒させる。


「あ、熱い……!」

「ロズ様! 大丈夫ですか!?」

「ふ、ふふ……」


 ロザリア様がようやく飲み込むと、ダミアンが手で口元を押さえてくつくつと笑う。

 その表情を見て彼女は怒ったように睨んだが、涙目なのでまるで迫力がない。ひとしきり笑い終えたダミアンは、「すみません」と笑いすぎて目に浮かんだ涙を拭いながら口を開いた。


「あまりにかわいらしくて……って失礼でしたね」

「……!」


 ロザリア様は口をぱくぱくと開閉させ、何か言い返そうとしたが、むっつりと黙ってしまう。私はダミアンの微笑みとセリフの破壊力に十秒ほど昇天した。

 その後も料理は次々と運ばれてきた。魚の酢漬けや燻製、ハーブで味付けされた焼き魚。ロザリア様は酔いが回ってきたのか、少しずつ表情が和らいでいく。

 賑やかな店内に負けないよう、ダミアンは身を乗り出した。そしてロザリア様の耳元に顔を近づけ、何か囁いている。私の位置からは断片的にしか聞こえなかったが、その内容がよほど面白かったのだろう。その瞬間、ロザリア様が堪えきれず噴き出した。

 手で口元を隠しながらも、肩が小刻みに震えている。その反応を見て、ダミアンも愉快そうに笑い始めた。

 普段なら絶対に見せない、飾らない素の表情。そんなロザリア様の様子を見ているだけで、私の胸は幸福感でいっぱいになっていた。


 *


 三ヶ月後──

 ポルーノで真珠が発見されたことをきっかけに、ダミアンとロザリア様は本格的に取引を始めることになった。ロザリア様は「ロズ商会」を立ち上げ、日々目が回るほど忙しく働いている。

 大粒の真珠は高級アクセサリーとして、小粒のものは砕いて化粧品として商品化されていった。

 その斬新な発想と品質の高さは瞬く間に話題となり、上流貴族の間で評判を呼んだ。注文は次々と舞い込み、まさに引く手あまたの状態だった──さすがロザリア様である。


 そして今日、ロザリア様は自室で書類の整理に追われていた。机の上には山のような手紙が積まれ、今はそれを振り分けている最中だった。

 手紙を整理している途中、ロザリア様の手がぴたりと止まった。一通の封筒を見つめ、表情が変わる。


「ロザリア様……?」


 雰囲気が急に変わったことに気づき、声をかけようとした。その時、ロザリア様が手に持っていた封筒の紋章が目に入り、思わず息を呑んだ。

 そこに刻印されていたのは、金色に輝く王家の紋章だった。

 ロザリア様は慎重にペーパーナイフで封を切り、中の手紙を取り出した。文字を追いかける彼女の顔が、次第に険しくなっていく。


「何と書いてあったのですか……?」

「アラン様からのパーティの招待状ね」

「アラン様から……!?」


 今までロザリア様をパーティに誘うことなどなかったのに。悪い予感を抱いていると、ロザリア様は手紙をすっと差し出した。


「よろしいのですか?」

「あからさますぎて、誰かに愚痴らないとやっていけないわ」


 呆れ果てたようなため息と共に渡される。恐る恐る文面に目を落とすと、驚愕の内容が書いてあった。

 まずは「自分が主催のパーティを開くため、ロザリアに参加して欲しい」という一見普通の招待文が並んでいる。問題なのは、同封された招待客のリストだ。


「ほぼ全員、メントリア家派閥の貴族じゃないですか!」

「そうね、あからさまな嫌がらせだわ」


 メントリア家とは、国内五大貴族の一つでありながら、最も危険な家系だ。

 王家派と教会派という二大勢力の中で、彼らは狂信的なまでの教会派である。さらに過激な左翼思想を掲げ、話し合いより実力行使を好む。その攻撃的な思想は多くの貴族から避けられる一方で、同じ思想を持つ者からは絶大な支持を受けていた。

 ヴァレンティーノ家は基本的に中立を保ち、表立って対立する家門はいない。しかしメントリア家は例外だ。あそこは「味方でなければ敵」という極端な思考を持ち、中立すら許さない。

 そんなメントリア家を支持する貴族ばかりを集めたパーティに、ロザリア様一人を放り込む。嫌がらせを通り越して、公開処刑に等しい。私は思わず叫んだ。


「断るべきです!」

「無理よ。アラン様の独断でしょうが、形式上は王家の命なんだから」

「そ、そうだ。ダミアン様にエスコートを依頼するのは……!」

「それも無理ね」


 私は藁にも縋る思いで提案したが、ロザリア様は一蹴した。そして手紙の末尾に書かれた一文をトントンと指さす。

「招待客リスト以外の人物の同伴・参加は固く禁じる」

 つまりダミアンは参加できない。メントリア派閥の貴族がヴァレンティーノ家の令嬢をエスコートするわけがない。つまり彼女は敵陣に一人で乗り込むことになる。

 ロザリア様は苛立ちを隠さず、乱暴に髪をかき上げた。ふう、と疲れ切った息を吐く。

 一方で私は、押し潰されそうな恐怖に襲われていた。


(まさか……これって婚約破棄イベントじゃ……!?)


 原作ではロザリア様が一人でパーティに出席したところで、婚約破棄を言い渡されてしまう。当時の彼女はすでに貴族社会で孤立しており、誰一人としてエスコートを申し出る者がいなかったのだ。

 だが、この世界は違う。

 「ロズ商会」を立ち上げて以来、ロザリア様の評価は右肩上がりで、周囲の見る目も変わりつつある。アランとの関わりも最小限に抑え、原作の破滅ルートはもう避けられたとすっかり安心していた──そんな矢先に届いたアランからの手紙。

 婚約破棄されれば、貴族社会の力関係も大きく揺らぐだろう。その影響で、ロザリア様の身に危険が及ぶ可能性すらある。


(ロザリア様を守りたいのに、私は何もできないの……?)


 推しが危険な目に遭うかもしれないのに、無力な自分が情けなくて、悔しくて、私は血が滲むほど強く拳を握りしめた。



 ***


 パーティー当日。

 車輪の音を聞きながら、窓の外に流れる風景をぼんやりと眺めていた。


「ロザリア様、到着しました」


 従者が馬車の扉を開けて声をかけた。気が重くなるのを感じながら、自分に言い聞かせる。


(しっかりしなさい、ロザリア・ヴァレンティーノ)


 黒塗りの馬車から降り立つ。

 その瞬間、悪意のこもった視線が突き刺さった。周りの貴族たちが、エスコートもつけずに現れた公爵令嬢を、まるで見世物のように眺めていた。

 会場の大扉の前に到着した瞬間、従者が声を張り上げる。


「ヴァレンティーノ公爵家ロザリア様のご到着です!」


 私の名前が呼ばれ、会場に入った瞬間、今まで賑やかだった会場が一気に静まり返った。次に起こったのは、明らかな嘲笑だった。


「まさか本当に一人で?」

「まぁ哀れなこと」

「婚約者に捨てられたのかしら」


 わざとらしい同情と侮蔑が入り交じった声が、会場内に響く。

 私は気にする素振りを見せず、会場の中心へと進んでいく。私が歩くと、周りの貴族たちは潮が引くように避けていった。私の周りだけぽっかりと不自然な空間ができたようだ。

 あからさまな悪意に苛立ちを抱く。心を落ち着かせるため、パーティ会場から帰った後のことを想像した。


(まずソレイユにミントティーを淹れてもらいましょう。きっと到着するのは夜中だけど、スコーンも焼いてもらって。リンゴのコンフィチュールもたっぷりつけましょう)


 それから明日はダミアンとの報告会もある。売上げの数字を確認して、今後の戦略を練って──そこまで考えて、ダミアンが穏やかに笑う姿が脳裏に浮かんだ。

 初めて会ったとき、正直言えば頼りなさそうに見えて、「こんな人物に公爵家の仕事が務まるのか」と内心疑っていた。ソレイユがいなければ、きっと関わることもなかっただろう。

 けれど──蓋を開けてみれば、ダミアンは驚くほど有能だった。

 魚の仕入れルートの確立、真珠ビジネスの基盤づくり。あらゆる人脈を駆使して交渉に臨み、すべてを完璧にこなしてくれた。私は幾度となく彼に助けられたのだ。

 それなのに、自分の功績としてひけらかすことは一度もなかった。

 むしろ私のささやかなアイデアにも「流石です」と心から感心してくれた。「公爵令嬢ならできて当然」などと冷たく言い放つことも、決してなかった。


 ──この人になら、頼ってもいい。

 生まれて初めて、心からそう思えた。


 私はずっと、一人で立ち続けなければならないと信じていた。

 どれほど傷つこうとも、心が折れそうになっても、ただ前を向いて歩いていくしかないのだと。


(でも、違う)


 カゼッタでの夜が、まるで昨日のことのように浮かんでいた。

 あの店は、機会がなければ一生踏み入れることはなかっただろう。信じられないくらい狭いし、汚いし、うるさかった。油でべたつくテーブル、煙草の匂い、客たちの大声。揚げ物を手づかみで食べるなんてと、意地汚いと本来なら眉をひそめていただろう。

 だけど、本当に楽しかった。

 三人で肩を寄せ合い、エールのジョッキを掲げながら、私たちは笑い合った。

 あんな日が毎日続いて欲しいと、本気で思った。

 私は一人じゃない。そう思えたのは、生まれて初めてだった。


「アラン・グランセール第一王子の入場です!」


 パーティ会場に声が響き渡る。

 フィローレと腕を組み、仲睦まじげに入場する。寄り添い合い、時折視線を交わしながら会場を進んでいく。

 私の登場時には一切起こらなかった拍手が、盛大に沸き起こった。この露骨な差別も、アランが仕組んだ演出の一部なのだろう。

 そして二人は、なぜか一直線に私の元へ向かってきた。周りの招待客は面白そうな顔で遠巻きに眺めている。まるで見世物小屋だ。

 二人は私の前で立ち止まった。アランはなぜか勝ち誇った顔をしているし、フィローレはまるで哀れな女を見るように私を見つめている。

 私の心は凪いでいた。怒りも悲しみも何も湧かなかった。無表情のまま、ただ静かに見つめ返す。


「ロザリア」

「ごきげんよう、第一王子殿下」


 名前を呼ばずに返せば、彼の口端がぴくりと震えた。

 怒鳴り返してくれれば、パーティを出る口実になるかと思ったが、彼は怒りを抑えて嫌みを口にした。


「エスコート役もおらず、一人での参加とは。さぞかし寂しいことだろう」


 わざとらしい憐れみを込めた言い方だ。周りの貴族からプッと吹き出す音が聞こえる。私は涼しい顔で答えた。


「あいにく、招待客リストの中には私に見合う方がいらっしゃらなかったので」


(アンタを含めてね)という皮肉を、言葉の裏に潜めて言い返す。

 周りの空気が一瞬で殺気立つ。メントリア派の貴族たちの敵意が立ちこめた。

 だが怯む必要はない。こんな敵意など日常茶飯事だ。重要なのは、ヴァレンティーノ公爵家の威厳を保つこと。ここで私が折れれば、明日の社交界は「公爵家の没落」と面白おかしく噂が広まってしまう。私は前だけを向いて、堂々としていればいい。

 アランは私の返事に顔を歪ませたが、はっと馬鹿にしたように息を吐いた。


「商会を立ち上げたそうだな」

「えぇ」


 何を言われるのか身構えていると、とんでもないことを言い出した。


「その運営権を俺に渡せ」

「──はい?」


 何を言われたのか分からなかった。

 呆然としている私に、アランは言葉を続ける。


「汚い手で真珠を独占したのだろう。だが、こんな熱狂は長続きしない。ヴァレンティーノ家の名前が地に落ちる前に、俺に渡すべきだ」


 怒りが体の芯から湧き上がってくるのが分かった。ダミアンと協力し、ソレイユにも手伝ってもらいながら、必死に築き上げた商会。それを婚約者以外の女にうつつを抜かしていた男が今更「よこせ」と?

 成功した途端に横取りするなんて、強盗と何が違うのだろう。

 私はため息を隠さずに言い返す。もう取り繕う気もなかった。


「お言葉ですが、第一王子殿下。婚約者だからといって、私の誇りや居場所までを差し出すつもりはありません」


 これで彼は怒りを露わにしてくれるだろうと思って返したが、予想に反してアランは、顔を伏せてぶつぶつと何かを呟くだけだった。


「お前の……居場所は……俺だったはず……」


 周りのざわめきもあり、うつむいていることもあって、断片的にしか聞こえない。フィローレの顔がひきつっているのが目に入った。血の気が引き、信じられないといった表情でアランを見つめている。


(何と言ったの?)


 疑問が頭がよぎったが、どうでもよくなった。今更この男が何を言おうとも、私は関係ない。もう期待も失望もしない。

 するとアランはぱっと顔をあげた。瞳には狂気じみた何かが燃えており、背筋がぞわりと震える。そして、会場中に響く声で宣言した。


「ロザリア・ヴァレンティーノ! お前とは婚約破棄だ!」


 会場が騒然となった。

 十年以上、婚約者として過ごしてきた相手からの一方的な婚約破棄。しかも敵だらけの会場で、公開処刑のように。本来なら、怒りと悲しみで崩れ落ちる場面だろう。だが私の胸に広がったのは底なしの空虚だけだった。

 アランのために、すべてを捧げてきた。

 完璧な令嬢になるため、歯を食いしばって努力し、涙を飲み込み、微笑んできた。彼に愛されるため、認められるため、必死に生きてきた。その結果が──これか。

 アランは先ほどと打って変わって、優しい笑みを浮かべながら手を差し伸べた。


「まさか、自分の力だけで成功したと思っているのか? 商会がうまくいったのは、王家の繋がりがあってこそだろう?」

「……!」


 その言葉ではっとする。

 脳裏に浮かんだのはダミアンの顔だった。

 サンベルク公爵家は中立派として、長年、貴族社会のバランサーとして機能していた。広い人脈と巧みな外交で、王家派と教会派の均衡を保ってきたのだ。だが現在、メントリア派の急進的な動きにより、教会派が優勢になりつつある。

 そんな中、第一王子の婚約者である私が、サンベルク家に接近したら?

 ヴァレンティーノ家とサンベルク家が手を組めば、王家派の力が増すことになる。


(もしダミアンの狙いがそこだったのなら──)


 仕事で手を差し伸べてくれたのも、カゼッタで笑い合った夜も、すべてダミアンの計算だったら?

 心の奥に大切にしまっていた記憶に、ヒビが入っていく。ぴしり、ぴしりと、まるで氷が割れるような音をたてながら。

 足下が崩れていくような感覚に襲われる。

 婚約破棄された今、私は王家との繋がりを失った。ただの公爵令嬢だ。

 ダミアンにとって私は、利用価値がない?


(もう、私は、用済み──)


 絶望が喉を締め上げるようだ。言葉が出てこない。

 アランの勝ち誇ったような表情が、吐き気を催すほど醜い。周囲の貴族たちの嘲笑が、耳をつんざくように響き渡る。すべてが悪夢のようで、現実味がない。

 叫んで、泣いて、この場から消えてしまいたかった。


(結局、私は、一人……)


 残酷な現実が襲いかかろうとした。

 そのとき──声が聞こえた。


「違います」


 凜とした声が、会場に響き渡った。同時に、温かくて力強い手に肩を抱かれる。その聞き慣れた声に、信じられない思いで顔をあげた。


 ダミアンが、そこにはいた。


 まるで物語の英雄のように、凜々しく立っている。怒りに燃える瞳で周囲を睨みつけながら、私だけは守るというように、しっかりと支えてくれていた。


「私は、私の意思でロザリア様と取引したのです」


 毅然とした声で、まっすぐにアランを見据えて言い放った。その力強い言葉に、目頭が熱くなっていく。

 私がアランの婚約者だからではない。ダミアンは、私自身を選んでくれた──


(私は、捨てられることはない……?)


 安堵が全身を包み込み、張り詰めていた体の力が一気に抜けた。崩れそうになる体を、ダミアンが支えるように引き寄せてくれる。大きな手のひらから伝わる熱が、冷え切った全身を温めていく。まるで凍りついた心が解けていくようだった。

 ダミアンは私に視線を移す。グレーの瞳には優しい光が宿っていた。


「遅くなって申し訳ございません」


 ダミアンは微笑んだ。

 普段はおろしている髪が、オールバックにセットされており、額には汗が滲んでいる。私のために急いで駆けつけてくれたのかと思うと、つんと鼻の奥が痛んだ。

 アランが声を張り上げた。


「貴様、何者だ! 招いた覚えがないぞ!」

「招待状なら、ここに」


 ダミアンは動じることなく、胸元から招待状を差し出した。


「に、偽物だ! おい、そこの者、確認しろ!」


 アランは血相を変えて、パーティ会場の隅にいた執事に命じた。駆け寄ってきた彼は恐る恐るダミアンから招待状を受け取る。

 サンベルク家は招待客リストにいなかったはずだ。どうやって手に入れたのだろう。もし偽造だったら、王家への反逆と捉えられてしまうし、ダミアンの命だって危うくなる。背中に冷や汗が流れ落ちた。

 招待状を確認した執事は、震えた声で口を開く。


「こちら……本物でございます」

「なっ……!」

「満足いただけましたか?」


 ダミアンが淡々と言い放つ。普段の温厚な彼からは想像できない、氷のように冷たい声だった。こんな一面もあったのかと息を呑む。

 ダミアンの圧に呑み込まれて、アランは口をパクパクさせるだけで言葉を詰まらせている。


「第一王子殿下」


 ダミアンが名を呼んだ。

 アランの肩がびくりと跳ね上がる。こちらからもはっきりと分かるほど、体が震えていた。

 ダミアンの声は冷静を装っているが、その底には計り知れない怒りが渦巻いていた。淡々と言い放つ。


「先ほど『汚い手で真珠を独占』とおっしゃっていましたが──王国法のどの条文に触れる行為を『汚い』と?」

「……っ」

「納税台帳や出荷記録などはすべて記録しております。ご指摘が事実なら、具体的な箇所をお示しください」


 容赦なくアランを追い詰めていく。

 周囲の貴族たちも息を呑み、立ち尽くしている。誰一人言葉を発せず、第一王子がダミアンに詰められていく様を、ただ呆然と見守ることしかできない。

 何も答えられないアランに、ダミアンはとどめを刺した。


「もしお出しになれないのなら『汚い手』という言葉は撤回を。ヴァレンティーノ家とサンベルク家の名に関わりますので」


 王家に忠誠を誓ってきた二つの有力貴族を、敵に回す覚悟があるのか──最後の通告だった。その言葉の重みに、会場がざわついた。

 アランはわなわなと体を震わせていたが、黙ったままだった。

 するとダミアンは私の方を見て、ふっと唇に微笑みを浮かべた。そして優しい声色で言う。


「行きましょう、貴方にこんな場所は似合わない」


 まるで周りからの視線から守るように肩を抱き寄せた。毅然とした足取りで、出口へと歩を進める。

 先ほどまで嘲笑していていた貴族たちも、ダミアンに気圧されて、黙って道を空けるしかなかった。まるで海が割れるように、人波が左右に分かれていく。

 私は背中に突き刺さるアランの視線を感じつつ、ダミアンの手から伝わる確かな温もりに包まれながらパーティ会場を後にした。




 ***




 ヴァレンティーノ家の広大な庭には、白い薔薇が咲き誇っていた。

 月光を浴びて、花びらが真珠のように輝いている。ロザリア様も気に入っている庭園だ。そして今夜は満月で、煌々と夜の世界を照らしていた。

 幻想的な光景を見ても、私の心が晴れることはなかった。

 ロザリア様がパーティへ行ってからずっと、私は屋敷の玄関扉の前で待ち続けていた。敵だらけの会場に、エスコートもなく一人で乗り込んだロザリア様。アランの悪意で彼女の心は踏みつけられているだろう、深く傷ついているだろう。想像するだけで胸が痛む。

 せめて帰ってきたときは真っ先に、温かく出迎えてあげたかった。

 すぐに温かいお茶を用意して、抱きしめてあげたかった。


 屋敷の前に馬車が停まった。車輪が砂利を踏む音が止み、従者が恭しく扉を開く。

 そして、ダミアンの手に促されるようにロザリア様が降りてきた。

 その光景を見て、私は頭が真っ白になる。


(嗚呼、なんて美しいの……!!)


 深紅のドレスに身を包んだロザリア様は、夜の女王そのものだった。

 赤いサテンが体に吸い付くように流れ、細いウエストから広がるスカートが、歩くたびに波のように揺れる。紫の髪は高い位置でまとめられ、露出した白い首筋と肩が、月明かりの下で輝いていた。

 耳と首には、ダミアンから贈られた真珠のアクセサリーが光っている。月の光を受けるたびに、まるで星が踊っているかのような輝きを放っていた。

 隣では、ダミアンがロザリア様をエスコートしていた。

 普段はおろしている髪をオールバックにし、深い紺色のスーツを着こなしていた。広い肩幅と引き締まった体格が、フォーマルな装いを一層引き立てている。

 この世のものとは思えない美男美女が、正装を纏い、ゆっくり屋敷へと歩いてくる。

 庭園の真っ白な薔薇が、まるで祝福するかのように二人を出迎える。満月は舞台照明のように、この美しい一幕を照らしていた。


 ロザリア様は私の姿を捉えると、ほっと安堵したような表情を浮かべた。張り詰めていた肩の力が抜け、強ばっていた表情が和らぐ。その表情にパーティで何かあったのだろうと察して、私は涙ぐむ。

 声を震わせないように堪えながら、温かい灯りが点る屋敷を手で促した。


「すぐに紅茶をお淹れします」



 *



「……つまり商会を捨てろと命じた挙げ句、一方的に婚約破棄されたと?」


 ロザリア様のお父様──セルドア様はズキズキと痛みまくっている頭をおさえながら状況を整理した。頭痛が限界まで悪化しているのが、その苦悶の表情から見て取れた。

 屋敷へ帰ってすぐ、私は二人を執務室へと案内した。紅茶を飲んで少し落ち着かれたところに、セルドア様が青白い顔でやってきて「一体何があった」と尋ねた。ロザリア様は感情を殺して、事実だけを淡々とひとつひとつ語った。すべてを話し終えると、部屋の雰囲気が一気に重くなる。

 セルドア様はため息一つついたあと、口を開いた。


「婚約破棄の件はこちらで処理しておく」

「ありがとうございます、お父様」

「君にも世話になったな」


 セルドア様はダミアンに向き直り、頭を下げた。彼は「いえ、当然のことをしたまでです」と目を細めて答える。

 そこでロザリア様はずっと気になっていたであろう質問を口にした。


「ダミアン様はなぜ、パーティ会場にいらっしゃったのですか?」


 するとダミアンではなく、セルドア様が答えた。


「あの侍女に感謝するんだな」


 ロザリア様が驚いたように私を振り返る。私は照れ笑いを浮かべた。


 それは一週間前のことだった。

 ロザリア様が学園に行っている間に、私は執務室で溜まりに溜まった手紙の山と格闘していた。商会の書類、貴族からの手紙、真珠の注文……それらを必死に整理しているとき、執務室の扉が開いた。

 そこにはロザリア様の父であるセルドア様が立っていた。

 慌てて立ち上がり、彼の元へと駆け寄る。個人的に話したことなど一度もなかった。鋭い眼光に、緊張で喉がカラカラになり、手が小刻みに震える。一体何の用だろう。

 言葉を待っていると、驚くべきことを言った。


「ロザリアの欲しいものなど知らないか?」

「欲しい、ものですか?」


 驚いた。セルドア様がロザリア様のことを気にかけたことに。

 原作でのセルドア様は、娘のことを政治の道具としてしか考えていなかった。冷徹な父親として描かれ、ロザリア様の幸せなど一度も考えたことがない人物だった。彼女を第一王子に嫁がせ、ヴァレンティーノ家の地位を盤石にする──それだけが彼の目的だった。

 しかしソレイユに転生して、セルドア様への見方が少し変わった。

 確かに原作同様、見た目の印象は怖い。鋭い眼光と威圧感のある雰囲気は、誰もが恐れる公爵家当主の威厳そのものだ。

 だが、ポルーノの件で忙しくしているロザリア様を見て、家庭教師の訪問を断っていたことを最近知った。「商会も大切な勉強だ」と言い、娘の選択を尊重していたらしい。王妃教育のために絶対に必要と考えていたはずなのに、ロザリア様を責めることもなかった。


(もしかしてロザリア様に歩み寄ろうと……?)


 不器用な父親が、娘との関係を修復しようと模索しているのかもしれないと、一つの可能性に思い当たる。


「そうだ。何でもいい」


 セルドア様の言葉で思い出したのは、アランから届いた手紙だった。

 ロザリア様を救えるかもしれないと、一筋の希望が見えた気がした。


「あの、お耳に入れたい情報があるのです……!」


 私は意を決して切り出した。

 先日届いた、アランからの招待状。パーティの招待客が、ほとんどメントリア派閥の者で固められていること。そして何より、ロザリア様をエスコートする人が誰一人いないこと。

 セルドア様の表情がみるみる険しくなっていく。

 ロザリア様に無断で、手紙の内容を話してしまった。彼女にもお父様には話さないでと止められていたのに。侍女失格だ。


(お許しください……!)


 でも、背に腹は代えられない。ロザリア様があんな地獄に一人で行くなんて、絶対に許せなかった。

 セルドア様は顎に手をあて、しばし考えこんだ。やがて私に一つ命令をした。


「今から手紙を書く。それをある家に届けてもらいたい」


 その手紙をきっかけに、ダミアンはパーティ会場の招待状を手に入れることができたのだ。


「……それでその手紙は誰宛でしたの?」

「グザヴィエ家だ」

「!? グザヴィエ家はメントリア派閥の筆頭です。協力してくれるはずが……」

「あそこには正妻にも隠している非嫡出子の存在がいる」


 セルドア様はさらりと言った。ロザリア様は驚愕して「何故それを」と言いかけた瞬間、はっと何かに思い当たったように呟く。


「カゼッタ……」

「そうだ」


 正妻にも隠している非嫡子の存在まで知ることができる、カゼッタの存在が末恐ろしい。人の口に戸は立てられないというのは本当のことのようだ。酒が入っていればなおさらだろう。


「その存在を脅しに使い、依頼をした」

「依頼?」

「あぁ、『ヴェルモン商会の者を呼びたいから招待状を用意しろ』とな」


「ヴェルモン商会」とは国内でも有数の商会だ。そしてこの商会はサンダルク家が運営している。

 計画は見事に成功した。脅されたグザヴィエ家当主は、慌ててアランに「ヴェルモン商会の要人を招待したい」と申し出た。

 もちろんアランは、ロザリア様とダミアンの繋がりなど知るよしもない。

 グザヴィエ家が懇意にしている商会の重鎮を呼びたいのだろうと、深く考えもせずに許可を出した。

 こうして無事に「ヴェルモン商会」に籍を置くダミアンを、パーティに呼べたというわけだった。

 ロザリア様はぽつりと言う。


「お父様が、救ってくださったのですね」


 頭を下げると、セルドア様は視線を少しだけ泳がせた。気まずそうに視線を逸らし、まるで慣れない感情を持て余しているようだった。

 そして咳払い一つして、ぶっきらぼうに言う。


「もし今度から何かあれば遠慮なく言え。……力になろう」

「ありがとう、ございます」


 頭を下げながら感謝を伝えるロザリア様の声には、じんわりと涙がにじんでいた。

 ロザリア様は指で少しだけ目元をおさえたあと、ダミアンの方に向き合った。さすがロザリア様、涙はもう浮かんでいなかった。凜とした表情で見つめる。


「ダミアン様もありがとうございます」

「いえ、むしろ到着が遅くなって申し訳ありませんでした。慌ててサリヤ国から戻ってきたので」

「サリヤ国から……?」


 ロザリア様の声に動揺が滲んだ。サリヤ国といえば、ここから馬車でも丸一日かかる。

 ダミアンはロザリア様の不安を察してか、ふわりと柔らかく微笑んだ。


「そんな顔しないでください。ロザリア様のお役にたててよかった」


 その言葉を聞いた瞬間、ロザリア様の顔が真っ赤に染まった。首筋まで赤くなっている。口をパクパクさせて、何か言おうとするが言葉が出ない。


(うああああああかわいいいいいいいい!!!)


 その表情に心臓がわしづかみされる。胸が苦しくて息ができない。十秒ほど心臓が止まったんじゃないだろうか。ありがとう世界、ありがとうダミロザ。

 とても良い雰囲気が流れており、二人の瞳が絡み合ったその時──


「ゴホンッ!!」


 セルドア様の盛大な咳払いに、甘い空気は粉砕した。ロザリア様は弾かれたように我に返る。慌てて姿勢を正し、必死に平静を取り戻そうとするが、耳の赤さは隠しきれてなかった。


「ともかく、第一王子に関しては何かあったら知らせる」

「はい」


 セルドア様が話をまとめるように言い、ロザリア様は頷いた。

 こうして集まりは解散になった。


 *


 後日、アランとロザリア様の婚約破棄は、王都中を駆け巡る大ニュースとなった。

 セルドア様の想像通り、パーティーの開催も婚約破棄もアランの独断だったと判明した。この事実を知った国王陛下の怒りはすさまじいものだったという。さらにフィローレに関しても容赦がなかった。


「そんな小娘に王妃が務まるわけないだろう!」


 激怒した国王の怒鳴り声が、城中に響き渡ったとかなんとか。

 考えてみれば当然だった。原作のフィローレは、教会との和解を成功させ、ポルーノの件で「幸運の女神」と崇められ、貴族たちとの絆を深めた後に満を持して王妃となった。

 しかしこの世界では、フィローレはまだ何も成し遂げていない。ただ光の魔法を持つだけの、男爵家の令嬢に過ぎない。怒られるのも当然だろう。

 案の定、焦った国王からセルドア様のもとに「婚約破棄を取り消して欲しい」という旨の手紙が来たそうだ。しかしセルドア様は一蹴した。そりゃそうだ。


 この混乱に乗じて、アランの弟君である第二王子派の勢力が拡大しているという。王位継承争いの構図が、大きく変わりつつあった。


「まぁ私には関係ないけれど」


 ロザリア様は新聞記事に目を通しながら、他人事のように感想を漏らした。私も「そうですね」と同意の頷きを返す。

 記事を読み終えると、ロザリア様は新聞を無造作に机に放り投げた。そして手紙の山を呆れたように見つめる。アランからの婚約破棄が公になってから毎日こんな感じだ。ロザリア様に近づきたいという輩が後を絶たないのだ。


「全て燃やしておいて」

「よろしいのですか?」

「今は結婚とか考えたくないの」

「え……!!」


 想定外の言葉が返ってきて、ショックを受ける。それはつまりダミアンとの結婚も考えていないということだろうか。


(あんなに良い雰囲気なのに、ダミロザが成就しないなんて……! いや、ロザリア様のお気持ちが一番だけど……!!)


 すると私の内心を読み取ったのか、ロザリア様が指をくいくいと動かして手招きした。


「ソレイユ、しゃがみなさい」


 素直に従った瞬間、ロザリア様の指が伸びてきて──


「あうっ!」


 額に強烈なデコピンが炸裂した。思わず呻く。


「アンタが考えていることは手に取るように分かるわ。そのニヤけ顔をやめなさい」

「す、すみませんでした……っ!!」

「……今は、って言ってるでしょう」


 ロザリア様がぼそりと呟いたが、額の痛みに気を取られ、何と言ったのか聞き取れなかった。聞き返そうと顔をあげると、意地悪そうに微笑むロザリア様がいた。

 朝の光が彼女を包み込み、まるで後光が差しているよう。紫の髪が輝き、赤い瞳が優しく細められていている。──ああ、私の愛しの美しい女王様。


「商会を大きくするのが先だからね」

「お供いたします!!」


 私が元気よく答えると、ロザリア様は声をあげて笑った。鈴を転がしたような、美しい笑い声が部屋に響く。

 時計を一瞥したロザリア様は、すっと立ち上がった。朝日を背に、私の方を振り返って微笑む。


「さ、行くわよ。ソレイユ」

「はい!」


 ロザリア様の紫の髪が、歩くたびに優雅に揺れる。その後ろ姿は、もう悲劇の悪女じゃない。自分の人生を切り開いた、強く美しい令嬢の姿だった。


(ロザリア様、一生推し続けます!!)


 美しい女王の後ろ姿を見つめながら、私は決意した。






お読みいただき、本当にありがとうございました!


このお話は長編版を連載中です。

短編では描ききれなかった「ロザリア様とソレイユの物語」を、もっとじっくりお楽しみいただけます。

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― 新着の感想 ―
セルドアに転生して後押ししてたのは私です。 推しが増えまくる。
読ませていただきました、面白かったです!
自分がこういう婚約破棄モノを読む時は、相手がどれだけクズ野郎なのか、「そりゃこんな奴とは結婚したくないわな」と思わせてくれるかを楽しみに読むのですが、短く簡潔にアランのクズっぷりが表現されていて大満足…
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