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第1話 水槽に落ちた朝

茨木の朝


 背中にスプリングの硬さが刺さって、目が覚めた。

 研究室のくたびれたカウチ。天井の蛍光灯は昨夜から点けっぱなしで、白い光が紙の海を浮かび上がらせている。壁一面には、手書きの式とフローチャート、印刷した論文の抜粋が蜂の巣みたいに貼り付いている。その一角に、子どもの頃から大事にしている宇宙飛行士のポスター。伸びた手袋ごしに地球へ親指を立てている男は、俺にとって「宇宙」への最初の扉だった。


 でも、俺が選んだのは飛ぶ道じゃない。理解する道だ。

 中学から、遊びは切り捨てた。部活も切った。目の前の式だけが、俺を遠くへ連れて行った。気づけば二十七歳で、東京・茨木の大学の一室に、俺が張った世界の地図が広がっていた。地図の端は、まだ白紙のままだ。


「先生! もうすぐ一限ですよ!」


 肩を揺すられ、上体を起こす。ゼミ生だ。プリントの束で両腕がふさがっているくせに、俺の白衣の裾を器用につまんで引っ張ってくる。


「……今、何時だ」

「八時半! 授業の準備してください!」


 時計を見て、ため息を飲み込む。眠気は荒波みたいに押し寄せていたが、頭のどこかは妙に冴えていた。三年前の、あの“さざ波”を考えると、眠っている場合じゃない、という自動スイッチが入る。


 カウチから跳ね起き、机の上の缶コーヒーの残りを口に流し込む。缶は空っぽで、苦い金属の味だけが舌に残った。


授業のあと、研究室にて


 質問攻めの講義をなんとか乗り切って、研究室に戻る。椅子に沈み込み、深呼吸。モニタを立ち上げた瞬間、受信トレイの未読が目についた。差出人はエリーゼ。件名には、彼女らしい過剰なビックリマーク。


≪To: Rio Kuon, Maria Gonzalez, Arif Hasan, Wilhelm Schneider, Li Shaolan

From: Elizabeth Clarke

Subject: Emergency Meeting!!!

あんたら全然メール返さないじゃない。準備できてんの? 出発前に確認したいこと山ほどあるんだから!≫


「……こっちは朝だっつーの」


 ぼやきながらも、口元が緩む。

 リンクをクリックすると、画面にタイル状の顔が五つ並んだ。


リモート会議――五人の顔、三年分の体温


「やっと来たわね、リオ」


 ブロンドを後ろでまとめたエリーゼが、品のいい笑みを浮かべる。語尾がやわらかいのに、言葉は容赦なく核心に来るタイプだ。中流階級的な躾の良さがあるのに、平然とジョークを差し込んでくる。


「そっちは夜だろ。俺は今、朝。人間の時間軸、揃えたいな」

「私、夜更かしは得意なの。ところで、準備はできているの? “できている”の定義があなたと私では違うことを、先に確認しておきたいのだけれど」


 彼女のそういうところが、俺は嫌いじゃない。

 画面の別窓で、マリアが柔らかく手を振った。


「リオ、顔色悪いわよ。私、心配だわ」

「寝なくても死なない」

「だから、そういうとこが駄目なの。私、あなたが倒れたら困るのよ」


 スペインの太陽みたいな人だ。声に温度がある。

 ヴィルヘルムはタブレットの向こうで、鉛筆をテキメンに動かしている。


「……僕はね、あの偏差が再現するなら、統計ではなく現象だと、そう——」

「ヴィル、会議」

「僕は会議をしている。式が議論している」


 画面の右下、スマートグラス越しに覗くシャオランが、半田ごての先を軽く振った。フレームの内側、異様に太いケーブルが覗いているのに俺は気づいた。


「シャオラン、また配線いじってるのか」

「ウチのグラス? ちょっと遊んだだけやん。視野角二倍、遅延半分。便利やろ?」

「便利かどうかより、お前の眼球が心配だ」


 最後に、ハサンが肩を揺らして笑った。

 穏やかな、低い声。場の空気の硬さを自然にほどく。


「僕、日本語わからないからね。明日、合流したらどう動くか、ちゃんと決めよう。……それとリオ、前も豚骨ラーメン屋に入ろうとしたじゃないか。あれは僕の心に深く刻まれてる」

「根に持ってるなあ」

「いや、美味しそうに食べる君を見ているのが辛かっただけだ」


 笑いが走る。笑いは、覚悟の裏返しだ。

 エリーゼが、指先で紙束を整えるような仕草をして、声のトーンを半歩落とした。


「本題に入るわ。三年前の観測値。世界中が“誤差”と切り捨てた、あの小さなさざ波。私たちはそこに“反復性”を見た。だから三年間、誰よりも早く、誰よりも多く、申請書を書いて、装置の稼働枠を取りに走った。予算委員会には十回以上、プレゼンした。私たちの四分の三は拒絶されたけれど、四分の一が通って、今、ここに立っている。違う?」


「自己維持に似たパターンだった」マリアの声が、ゆっくり滑り込んでくる。「ノイズのようでノイズじゃない。私、あのとき、心臓が勝手に早くなったの」

「僕は査読で四回落とされた」ヴィルが淡々と言う。「でも式は折れなかった。折れたのは審査員の根気だ」

「ウチは機材を全部バラして、基板のゆらぎまで洗った。装置のせいじゃないのは確かや」シャオランがグラスを持ち上げる。

「僕は“天の声”と呼んだ。けれど宗教じゃない。宇宙の深層からの信号だ。科学の言葉で答えたい」ハサンの目は優しいまま、芯だけが硬い。

「そういうわけで——」エリーゼが薄く微笑む。「明日、みんな日本に来て。明後日、地下に掘られた巨大な水槽施設に入る。日程、もう一度確認するわ」


 画面に予定表が映る。集合、搬入、校正、記録開始。

 俺はうなずきながら、胸の中で別のリストを数えていた。三年分の、拒絶の数と、書き直しの数と、夜明けの数。


「じゃ、明日よろしく」


 会議が切れる瞬間、画面の暗転に自分の顔が映った。

 目の下に、濃い影が落ちている。悪くない、と俺は思った。


2日目――空港、合流、そして「店」


 成田の到着ロビーは、いつ来ても同じ匂いがする。金属と洗剤と、少しだけ紙の匂い。

 スーツケースの車輪が床の目地を越えるときのコツコツという音が近づき、俺は顔を上げた。


「リオ!」


 ハサンが大きく手を振る。背が高い。人混みの中でもすぐ分かる。

 エリーゼが横で片手を挙げ、マリアが笑顔で会釈する。ヴィルはタブレットの画面に目を落とし、シャオランはスマートグラスの縁を指でトントン叩いている。


「店、決まった?」ハサンが訊く。

「やっべ。忘れてた」

「リオ。前も、適当に豚骨ラーメン屋に入ろうとしたじゃないか」

「根に持ってんのかよ」

「君が美味しそうにしていたからね。僕の方がつらかった」


 シャオランが間に割って入る。「今から探してあげなよ。ウチ、腹ペコ」

「仕方ないか……でも、なかなか無いんだよな、ハラールの店」

「だから前もって調べてほしかった。僕、日本語わからないし」ハサンは肩をすくめる。怒ってはいない。ほんの少し困っているだけだ。だから、俺は走る。


「んー、そう簡単にあるわけ……いや——あったわ」


 スマホの地図に、小さな緑のピン。大学の近く。今まで看板だけ見て素通りしていた店の、細かい説明に小さく HALAL の文字がある。


「この店、ハラール対応だ」

「じゃぁそこで飲み会……いや、コーラ会にしましょうか!」マリアが笑って言った。

「決まり。荷物を置きに行きましょう」エリーゼが軽く頷いて、それから視線だけでヴィルを刺す。「ヴィル、あなたそのままアフタヌーンティーまで空港で過ごすつもりかしら?」

「ああ、すまん! つい計算を見直してて……」ヴィルはタブレットから目を離さない。でも身体は、ちゃんと俺たちの方へ歩き出す。歩幅はぎこちないが、足取りは嬉しそうだ。


アジアン料理店――笑いと、スイッチ


 大学近くのアジアン料理店は、外から見るより広く、香辛料の香りが柔らかい。

 四人席を二つ、押し合わせて座る。店員が水を置いていく音、厨房の鉄鍋が火に触れる音。

 シャオランが、座るなりスマートグラスのフレームのネジを軽く締め直した。


「シャオラン、また配線いじってるのか」

「ウチのグラス、ちょっと発熱がね。冷却ファン仕込んだら、静音が気になって」

「街歩き用のガジェットに冷却ファンは要らない」


 テーブルを揺らした笑いが一巡して、注文が済むと、ハサンが小さく手を合わせる。「僕はこれで十分。ありがとう、リオ」

「いや、俺が前回を忘れられないらしいからな」


 料理が並び始める。湯気の向こうに、三年分の顔がある。

 俺はジンジャーエールを持ち上げた。コーラ組も、ウーロン茶組も、目だけはまっすぐこっちへ向いている。


「三年前の“さざ波”。覚えてるだろ」


 言葉にした瞬間、空気の密度が変わる。

 それまで周囲のテーブルの音に混じっていた俺たちの声が、輪郭を持って立ち上がる。


「僕は——」ヴィルが先に口を開いた。「あれを見た夜、寝なかった。偏差の分布が、どうしても“偶然”に見えなかった。僕が自分の目を疑った。だから、式に聞いた。式は嘘をつかなかった」

「私、あの日、涙が出たの」マリアが指先でグラスをなぞる。「なんでか分からない。でも、ノイズの海から、ひとつだけ呼吸する泡が上がってきたみたいに見えたの。私の専門は生き物だから、余計にね。私の偏見かもしれない。でも、だからここまで来た」

「私、申請書を五度書き直したわ」エリーゼは笑った。「『誤差だ』って言った審査員の顔は忘れない。でも、私たちのどの段落にも嘘はなかった。彼らがうんざりした頃、稼働枠がひとつ空いたの。そこに滑り込んだ。運じゃない。持久戦よ」

「ウチ、装置を全部バラした。ねじ一本まで、ゆらぎを測った。原因が人間側にあるなら、そこで終わり。けど違った。なら、進むだけや」シャオランがグラスをコツンと机に当てる。

「僕は祈ったよ」ハサンが微笑む。「信仰の祈りじゃなくて、研究の成功を。僕の神は寛容だけれど、自然法則の前では沈黙する。だから、僕たちの言葉で話さなきゃいけない」


 俺は、胸の奥の熱が喉まで上がってくるのを感じながら、言った。


「やっと、予算が通った。やっと、装置の時間を取れた。やっと、ここまで来た。……明日、地下の巨大な水槽に潜る。三年かけて積んだ石を、今、踏む」


 乾杯というほど大げさじゃなく、でもそれ以上に静かな合図で、俺たちはそれぞれのグラスを軽く合わせた。

 笑いは戻る。くだらない話も戻る。でも、目の奥の火は消えない。こういう夜が、俺は好きだ。


3日目――地下へ、光へ


 山をくり抜いたトンネルの奥に、工場のようなエレベータ。

 柵の向こうに見える通路は、湿り気を含んだひんやりした空気で満たされている。機械オイルの匂いと、冷えたコンクリートの匂い。耳の奥で、自分の鼓動が少しだけ大きい。


 搬入口から見下ろすと、地下に掘られた巨大な水槽施設の輪郭が暗がりに浮かんでいる。

 円筒の内側一面に、丸い光検出器が蜂の巣状に並ぶ。規則正しい反射面が、微かな照明を柔らかく返す。静かだ。静けさはときどき、音のように響く。


「搬入完了」シャオランの声はいつもより低い。緊張より集中が勝っている声だ。

「校正完了」ヴィルが短く告げる。指は震えているが、口は震えない。

「生体系のセンサー、私の方も準備OK」マリアはケーブルを布で拭き、無意味に見える所作で自分の手を落ち着けている。

「記録系、待機」ハサン。立っている足の位置が、祈りの前のそれに見えて、少し笑いそうになる。


 エリーゼが俺を見る。

 数年分の紙束の重みを肩で支えてきた人間の目。疲労の上に積み上げた自信。


「リオ。始めましょう。私たちの三年を、ここから未来に接続するわ」


 俺はうなずき、スイッチに指を伸ばした。


「記録、開始」


 最初の秒は、何も起きないように見えた。

 次の秒、壁の検出器のひとつが、豆粒みたいに小さく光った。

 次の次の秒、光がふたつ。四つ。八つ。指数関数の階段を駆け上がるように、点の数が増える。


「多すぎる」ヴィルの声が、ひと呼吸遅れて耳に届く。「統計の外だ」

「誤作動の兆候は——」マリアの指がパネルを走る。「——無い」

「装置側、異常無し。ゆらぎも範囲内」シャオランの声が低く平らになる。現象を“見ている”人の声だ。


 水面が——ないはずの水面が、ゆっくりと色を持ち始める。

 厳密には、水槽全体の暗がりに、うっすらと、蜂蜜を溶かしたみたいな金の膜が差している。光は音を持たないのに、耳の奥にふくよかな低音が鳴った。心臓が勝手にテンポを合わせにいく。


「私、異常放射の可能性を否定できない」エリーゼの声がわずかに粗くなる。「でも、これは——」


 言葉の終わりは、轟音に飲まれた。

 床が、ゆっくり沈むように、でも確実に跳ねた。

 壁面の丸い目玉みたいなセンサーが一斉に白く瞬き、次の瞬間、世界が反転する。温度のない白が視界を埋め、空気が柔らかい布のように顔に貼り付き、肺から息が押し出された。俺は咄嗟に手すりを掴んだ——つもりだった。つかんだはずの金属は、手の中で光に変わって、指の間からこぼれた。


「リオ!」


 エリーゼの声が、遠い。近いのに遠い。

 俺は、落ちていく。上か下か、分からないまま。

 重力は方向を失い、音は速度を失い、時間は単位を失う。

 ただ、胸の奥で何かがはっきりと確信している。「来た」と。


夕暮れ――別の空気


 頬に触れたのは、冷たい金属じゃない。柔らかい草の感触だった。

 湿った土の匂いが、肺の奥に届く。少し甘い。

 風が吹く。風には、遠くの鐘の音が混じっている。馬の嘶き。人の話し声。知らない言語のリズム。夕日が地平の少し上で、ゆっくり体温を落としている。


 俺は体を起こし、手のひらを見た。

 指は震えていたが、血はついていない。生きている。

 顔を上げると、すぐ隣にエリーゼがいた。砂埃で頬が汚れている。それでも目は澄んで、俺を真っすぐ見た。


「私、いるわ」

「俺もいる」


 背後から、ひとりずつ声が重なる。


「私も」マリア。泣き笑いみたいな声。

「僕も」ハサン。深呼吸の音。

「僕も」ヴィル。まだどこかで式を追っている。

「ウチも!」シャオラン。グラスが片目にずれている。


 視線を遠くに投げる。丘の向こうに、石造りの城壁の線。塔の先に、尖った屋根。煙がまっすぐ立ち上る。世界の輪郭が、俺の地図の外側をはっきり塗りつぶしていく。


 喉が乾いていた。

 どうしてこんなに懐かしいのか、わからない。

 でも、懐かしさは恐怖を殺す。恐怖が退くと、次に来るのは——計算だ。観察だ。生き延びるための手順だ。


(……どうする)


 声にならない問いが、夕暮れの空気に溶けた。

 俺たちは、三年かけて“入口”に触れた。気づけば、入口の向こうにいた。

 なら、次にやることは変わらない。観測する。記述する。再現する。

 俺は、息を吸った。風の温度を覚えた。

 ここから、もう一度、始める。

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