パンケーキとザッハトルテ
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──パンケーキとザッハトルテ
「おはようございます、博士。昨日は眠れましたか?」
「……ああ」
私は正直あまり眠れなかったが、それは言わないでおいた。
「では、朝食の準備をしますね」
シャーロットはそう言って着替えるとキッチンに向かっていった。
私はシャーロットが去ってから大きく欠伸をしたのちに、窓際に向かった。カーテンを開けて、窓を開けるとそこには1羽のカラスが庭の木に止まっているのが見えた。
だが、それが見た通りのカラスではないことは私にはわかる。
「そこのインプ。覗きとは趣味が悪いな」
私がそう言って指を鳴らすとカラスは私の方をじっと見て窓に向けて飛んできた。
「へへへっ。こいつは失礼を。あっしはクルザゼスといいやす。覗きではないですよ。あの偉大なるラルヴァンダード様のご友人とぜひお見知りおきになりたくてですぜ」
カラスは低い声でそう喋り始めた。
そう、カラスではなく、こいつは悪魔の一種だ。高位悪魔とは正反対の低位悪魔。
低位悪魔も契約がなければこの世界に留まれないのは同様だが、彼らの場合は人間と契約する必要はない。動物でも十分に彼らをこの世界に留めてくれる媒介になる。
今、このクルザゼスという悪魔は、カラスに取り憑いているのだ。
「ほう。では、クルザゼス。私の頼みごとを聞いてくれたら、お前をラルに紹介してやってもいい。どうする?」
「もちろんです、ご婦人! お任せくだせえ!」
こういう低位悪魔を使役している魔術師は一定数存在する。あまり表に出ないタイプの魔術師たちで、かつては魔女として迫害されてきたものたちだ。
彼らは低位悪魔に呪いをかけて隷属させるか、取引をして彼らを従わせる。
「ウェスターフィールド侯爵家についての情報を集めてほしい。できるか?」
「調べ物ですかい? それだけ?」
「ああ」
「分かりやした。すぐに始めます!」
カラスに取り憑いたクルザゼスはそう言うと飛び去っていった。
まあ、低位悪魔が言われた通りに行動するのは、あまり期待できない。依頼のことを忘れてしまうのがせいぜいだろう。
それでも私がウェスターフィールド侯爵家に興味を示したのは、パーティでアーミテイジ博士が言っていたことが気になったからだ。
以前に似たような事例が存在したという彼の言葉。そして、何故高位悪魔であるベルグリオスが契約をしないという強硬策を使ってでもシャーロットを呪っていたのか。それを知っておきたかった。
物事には理由があって、それを把握しなければ過ちは繰り返される。だからだ。
「博士! 朝食ができましたよ!」
「ありがとう、シャーロット」
シャーロットが私を呼びに来るのに私はダイニングに向かった。
今日の朝食はパンケーキであった。パンケーキにバターと蜂蜜が添えられていて、瑞々しい果物も添えられている。もちろんアヴァロニアの朝食に欠かせない目玉焼きもセットで、私好みのベースドエッグである。
「朝からここまで準備してもらって申し訳ない……」
「お気になさらず。さあ、いただきましょう」
しかし、アヴァロニアの朝食でパンケーキというのは珍しい。前に学会で出会った新大陸の研究者は、朝からパンケーキを食べることもあると言っていたが。
「ふむ」
そもそも私はパンケーキを人生で数えられる程度しか食べおらず、味というものをよく覚えていない。私は出来立てで温かいパンケーキの上にバターを溶かし、はちみつを塗って口に運んだ。
甘くて、温かくて、溶けるような食感。とても美味しい……!
「美味しいね、このパンケーキ」
「気に入っていただけて嬉しいですわ」
いつもの朝食と言えば紅茶を飲むか、それにクラッカーを添える程度だったが、シャーロットが来てからその状況は劇的に変わりつつある。
ちゃんとした朝食が毎朝出て、私はそれを味わっていることに気づいた。朝食がある生活というものがこれほどよかったとは思いもしなかった。
朝食を終えるといつものように私は書斎で研究にふける。
本を読み、メモもをし、別の本と参照する。私の仕事は本との格闘だ。本に記されていることから事実を見つけ出す。
それから手紙のやり取り。悪魔学は一地方の現象だけを調べていても明らかになるものではない。海外の研究者とやり取りする必要がある。
悪魔の契約のパターンは地方によって特色があるとされているが、私は根っこにあるものは共通してると思っている。住む場所を変えたからと言って炎が水を冷やすことなく、リンゴは常に地面に向かって落ちる。
そういった土台が同じだからこそ、悪魔がこの世界に留まるための方法も共通しているはずなのだ。
「博士? お茶にしませんか?」
と、私が研究に没頭していたためか、シャーロットが小声でそう尋ねてきていたのに遅れて気づいた。
「ああ。そうしよう」
以前よりも今の私には余裕があると言えば、余裕がある。
今においても研究が私の全てであるのは変わらないが、その研究のための寿命を削らなくてよくなったことが影響しているのかもしれない。
これは言うまでもなく、シャーロットのおかげで生まれた余裕だ。人はやはり衣食住が満たされていてこそ、余裕が生まれるものなのだろう。今の私は空腹に悩まされることもないし、没頭しすぎて深夜遅くまで起きていることもない。
「シャーロット」
「はい、博士?」
「いつもありがとう」
私がそう告げるとシャーロットの表情がぱあっと明るくなった。
「いえ! わたくしは博士のパトロンですから」
シャーロットはそう言って私の手を握った。
「博士も最近ではお世話を受け入れてくれているようで嬉しいですよ」
「うん。君はどういっても私を放ってはおかなそうだと分かったからね」
「ふふ。もちろんその通りです。博士のことを放っておいたりしません」
シャーロットは笑顔でそう言い、私をダイニングまで連れていった。
「今日はザッハトルテですよ」
「ざっはとるて?」
「ケーキの一種です。美味しいですよ」
そう言われて私が椅子に座ると香ばしい香りを放ったケーキが運ばれてきた。見たことのないブラウンのケーキだが、この匂いは知っている。
「チョコレートだね」
「ええ。チョコレートケーキの一種です。召し上がってください」
勧められるがままに私はザッハトルテなるケーキをフォークで一口サイズに切って、口に運ぶ。
「美味しい……」
ほのかな苦みがあるが、それは甘さを引き立てている。朝食べたふわふわのパンケーキとは異なり食感はしっかりしていて、これはこれで美味しい。
「気に入ってくださいましたか?」
「ああ。チョコレートを含んだものを食べるのは人生で二度目だ」
「に、二度目ですか?」
「とても小さかったときに病気をしてね。それから暫くの間は体が弱かったんだ。そこで母が元気が出るからと言ってチョコレートをくれて……」
思い出して私は思わず笑ってしまった。
「そうしたら元気が出すぎたのか鼻血が出て、父も母もおろおろしていたよ」
「まあ、そんなことが……。あの、博士のご両親は今は?」
「父は亡くなった。母はとても遠いところにいる」
「そうでしたか。すみません」
「いや。気にしないでくれ」
私だって馬鹿ではない。どうしてまだこんなに幼いシャーロットが侯爵位を持っているのかは理解できている。
彼女の両親もまた既にこの世にいないのだと。
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