婚約破棄
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──婚約破棄
「残念だが、このまま君と結婚することはできない」
目の前の彼はそう言って、私の方を見た。
一応は婚約者だった男性は本当に冷めた目をして私の方を見ている。
「……何故?」
いろいろと思い当たる節はあるが、私は一応尋ねた。
「はあ。説明しなければならないかね?」
「約束を破棄するならば、その説明はすべき。……違うか?」
少なくともこの婚約破棄話は私が持ち出したものではない。
婚約破棄にせよ、鉄道事故にせよ、世の中のあらゆる物事には理由があり、その理由を理解しなければ同じ過ちが繰り返される。そして私は過ちの理由はちゃんとしっておりきたい。改善できなかったとしても。
「君のその恰好が何よりの答えだよ。一度でも鏡を見たことはあるのか? ぼさぼさの髪によれよれのドレス。身だしなみを少しでも気にすれば、そんな恰好で外出しようとは思わなかったはずだ。そんな恰好でよく外に出ようと思たものだね」
「……今日は忙しかったから。やっと研究に進展があって……」
「研究、研究、研究! 君はいつもそう言い訳をする。その言い訳には、もううんざりだ。そんなに研究が大事なら研究と結婚するといい!」
ガタンと音を立てて、婚約者であった男アダム・ラザフォードは席を立つ。
「私はもっと私のことを考えてくれる女性を結ばれるよ。それでは、さようなら、ルナ・フォーサイス。もう会うことはないだろう」
アダムはそう言い放って出ていった。
「……はあ」
私は深くため息を吐くと、レストランを出る。そう言えばアダムとはレストランで待ち合わせは何度もしたけど、食事をしたことはないなと思った。まあ、未練はないのでどうでもいい話だが。
私は通りでタクシーを拾い、自宅に戻る。
アヴァロニア連合王国の首都ルンデンウィック。その郊外に私の家はある。
「ただいま」
と言っても、その帰宅のあいさつに返事を返してくれる家族がいるわけではない。父が亡くなってからの15年間、私はずっとひとり暮らしだ。
「あ、鏡……」
私はアダムに言われたことを思い出して、放置されていた姿見を覗き込んだ。
そこにはぼさぼさに伸びた髪に加えて目に隈を作った、あまり綺麗とは言えない女性が映っていた。女性はよれた黒いドレスを着ていて、ストッキングは一部伝線して破れたままになっている。
「……酷い恰好だ」
自嘲を込めてそう呟く。
だけど、どうでもいいや。結婚話がなしになったら、より研究に打ち込める。
私の家の4分の3は本に支配されている。本棚に仕舞われた本、机の上に開きっぱなしの本、地面に積み上げてある本。とにかく本と本と本によって家は占領されていた。あとはゴミと埃が同居人だ。
最後に掃除したのは……何年前だっけ?
私はそんな家に帰るとすぐにストッキングを適当に脱ぎ捨て、スリッパを履き、ワンピースの上から着古したカーディガンを羽織る。これでばっちりだ。
「さて、調べ物の続きをしないと……」
私は出かける前に開いていた本を手に取り、椅子に腰かけようとした。やっと研究に大きな進展があって、それを裏付ける情報がこの本に記されているはずなのだ。
チャイムが鳴ったのはそのときだ。
「ううむ……」
せっかくこれから研究に打ち込もうとしていたのに邪魔がきてしまった。本当にもう面倒くさいな……。
私はスリッパをぱたぱたと言わせて、玄関に向かう。
「はい。今忙しいんだけど……」
そして、玄関を開けて一応来客に応じると来客は見知らぬ人だった。
「失礼。ルナ・フォーサイス博士ですか?」
「ええ。そうだが……何か?」
そう尋ねてくるのはスーツ姿の中年男性で、尋ねてきておきながら私の方に訝し気な視線を向けている。
「私はウェスターフィールド侯爵家の使いです。実は当主のシャーロット・アシュリー閣下から博士に内密にお願いしたいことがあるのです」
「侯爵家が、この私に?」
「ええ。博士をこのアヴァロニア連合王国で一番の悪魔の専門家と見込んでです」
侯爵家の使いという男性はそう言った。
* * * *
私はこのアヴァロニアの帝国アカデミーに所属している。
専門は悪魔学。恐らくアヴァロニアにおける同学の研究者は私の他に片手で数えられる程度しかいないだろう実にマイナーなものだ。
そんな私が侯爵家の自動車に乗って、女侯爵閣下の領地であるウェスターフィールドを目指している。変な話だ。
どういう用事があるのかと尋ねても、使いの人は『侯爵閣下から直接お聞きください』の一点張りで、何のために私をはるばるウェスターフィールドまで呼び出したのか分からない。
「早く帰って研究の続きがしたいな……」
アダムが言っていたように私の頭には研究のことしかない。つまりは悪魔学のことばかり考えている。私にとって研究は人生そのもので、何よりも優先すべきことなのだ。
「着きました」
車を運転していた使いの人がそう言い、彼は車を降りるとわざわざドアを開けてくれた。私は開かれたドアから車を降り、前の前に現れた侯爵家のお屋敷を見上げる。
古い大きな洋館だ。19世紀以前からずっと建っているのではないだろうかと思えるぐらいには古めかしかった。今日が夕方で曇っているせいか吸血鬼でも住んでそうな屋敷だ。こういう場所は不便そうで住みたくない。
「こちらへどうぞ。侯爵閣下は中でお待ちです」
使いの人に案内されて私は屋敷の中に。
「おお。あなたがルナ・フォーサイス博士ですか?」
使いの人が案内した先には別のスーツの男性が。この服装は執事かな?
「はい。で、まだ用件を聞いてないのだが、そろそろ聞かせてもらえないか?」
「これは失礼を。私はウェスターフィールド侯爵家家令のスペンサーと申します。この度はフォーサイス博士に来ていただき感謝します」
「用件は?」
「その前にこの件は決して口外せず、内密にしていただきたいのです。ご協力いただけるでしょうか?」
ふむ。やたらと内密にすることにこだわっている。嫌な予感がしてきた。
「分かった。他言しないから、用件を。こっちは忙しい」
「ありがとうございます。しかし、口で説明するより見ていただいた方が確実でしょう。こちらへ来てください」
スペンサーと名乗った家令はそう言い、私を屋敷の2階に連れていった。
そこでドンと凄い物音が響く。何かが壁に思いっきり叩きつけられたような音だ。
「この音も関係が?」
「……ええ」
家令はそう言って屋敷を進む。この騒音の音源の方向へと。
「閣下、失礼します」
そして、扉の前で問う断りを入れると家令が扉を慎重に開いた。
「ああああっ!」
同時に中からこの世のものとは思えない叫び声が。
「こ、これが博士をお呼びした理由です……」
家令が見せたのはベッドに縛り付けられたひとりの若い女性。少女と言っていいほどの年齢の女性は精神病院で使用する革の拘束具で縛り付けられており、その表情は憎しみか、あるいは苦痛に歪んでいる。
そして、何より私が呼ばれた理由ははっきりした。
「人間。またこの俺に手を出そうというつもりか? 坊主の次は誰を呼んだ? 次はこの女の命はないぞ? はははは!」
醜い獣としか表現のしようのない頭部をして、その下は辛うじて人の形をしている存在が、そのベッドに縛り付けられた女性の傍に立っていた。その不気味な存在が重低音の笑い声を上げる。
「なるほど。高位悪魔か」
これは私の専門分野だ。
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