07
デルサイ語にもとうの昔に慣れ、町に出ていた拓真は(一番近くのレイナード町まで、普通に歩くと1日かかる!)、物騒な噂を聞いた。何やら、魔王が現れたとか現れそうだとか。魔王とは何か。魔物と関係があるのだろうか。顔見知りとなった町の住人に聞いてみると、魔族の王だと言う。魔族に王がいるとは知らなかった。というか、あまり興味がなく、魔族について調べたことはなかった。帰って早速、ユミルに聞いてみる。
「ただいま。ユミルさん、魔王が出たとかって聞いたんだけど、魔王って何者?」
「ああ、タクマ、お帰りなさい。魔王、ですか。そう呼ばれる者は、過去にも何度か出現しています」
ユミルの口調は、出会った頃から変わらない。せいぜい、呼び名が苗字から名前になったくらいだ。癖のようなものだと言っていた。変わらないと言えば、外見もほとんど変わっていない。いわゆる長命種というやつらしい。尤も、長命種というものの存在は聞いたことがなかったが。
「魔族を束ねる王のような存在なので魔王と呼ばれます。魔族というのは、魔術を操る生物のうち、自意識や行動の計画性、抽象的思考といった、人間に特有かまたは人間で著しく発達した行動特性を持つ、人間以外の者を指します。人間と同等の高次の意識を持つ、と言い換えてもいいでしょう。それらを持たないものは、前にお話した魔物ですね。魔物や魔族は魔力の濃い土地に住み、その地を離れることは少ないです。恐らく、魔力の濃い環境に適応して変異した生物が、魔物であり魔族なのでしょう。とすれば、魔族とは、元は人間であったかもしれませんね。あるいは、居住域から離れた魔族の末裔が人間という可能性もありますか。魔族の居住地域は世界に点在しており、それぞれかなり特徴の異なる者達ですので、魔族として一括りにしていい存在なのかは疑問がありますが。一般に人間よりも魔術に長けていて、人間が襲われることもあるので、恐れられています。魔王となると、大抵集団で人間の町や国を侵略するようですので、なおさらですね」
「そういう感じか。うーん…侵略の目的は?」
「そこで即座に魔王は悪、と言わないのは流石ですね。目的ははっきりしませんが、というか調べられていないのですが、恐らく豊かな土地を求めて来たのでしょう。魔力の濃い土地は、例外なく土地が痩せていますから」
魔力が濃い土地は痩せている…つまり。
「「エネルギーが魔力として存在している分、物質的なエネルギーは貧しい」」
見事にハモり、笑ってしまう。
「つまりは生存競争ってことか。絶対悪みたいなやつではないんだな。…それだったら、話し合いの余地があるんじゃないか?」
「どうでしょう。基本的に、魔族は個の力で人間に相当優っていますから、話し合うよりも奪う方が早いと思うかもしれません。あるいは、人間側が恐れから先に手を出して戦いに発展した場合もありそうです。魔族は力を重視するようですし、いずれにせよ、話し合うには、その価値を認めさせるだけの力を示す必要があるでしょう。その上で、話し合いで解決するとしたら、人間が一方的に魔族を支援するしかありません。魔王が出現する時は、魔物や魔族の数が棲息域の中で大幅に増えた時です。結果、魔物は棲息域の外へと溢れて魔物被害が急増するようです。魔族も、相対的に資源が不足して相当生活に困窮するのだと思います。自分達の生活すらままならない魔族に対価を差し出せと言っても仕方ないわけですが、人間が支援するという決定はなかなか下せないでしょうね」
「…ユミルさんは、魔族に遭遇したことは?」
「ありますよ。町から町へ、移動の途中で何度か襲撃されました。ただ、故郷を離れて野盗と化した者たちだったのでしょうから、魔族一般がどんな者達かは分かりません」
こういうところ、ユミルこそ流石である。人は、経験則で物事を判断するものだ。けれど、もちろん経験は大事だけれども、経験だけを信じると視野が狭くなる。経験をどこまで一般化していいのか、いけないのか。その見極めは非常に困難だ。だから、新たな経験に触れた時に、自身の考えを修正する柔軟さが必要だと、拓真は思っている。
そもそも、人にはそれぞれの事情と価値観がある。それが他人からはどんなに身勝手に見えたとしても、価値観なんて、いつの間にか身についているものだ。自分でコントロールできる部分など相当限られている、と思う。人は知らず自身の内に形成された価値観に従うしかない。だから、個人の善悪など論じてもあまり意味はないと思う。ただ、身勝手と思える価値観を持つ者は、当然敵を多く作り、攻撃される。それだけのことだ。そんな悪意を持つ者が育たない世の中になればいい。そう思うが、個々人で生まれ持った性質が違うから、あの人には良くても、この人にはダメということが起こる。難しいものだ。
「つまり、もし本当に魔王が現れたのだとしたら、わざわざ集団を組織する必要がある程魔族が増えている、そして魔物も同じく増えているということです。このところ、棲息地から溢れた魔物や魔族との遭遇例は増えているように感じていました。少し調査してみないと噂の真相は分かりませんが、ここが襲撃されないとも限りません。兆候はある以上、備えておいて損はないでしょう。既にタクマは並の魔族よりも魔術に長けていますが、高次の意識を持った存在との戦いは少し訓練しておきましょうか」
そう言われて、拓真は苦い記憶を思い出した。
少し離れた町にユミルと出掛けた時のことだ。途中泊まった村で、魔物の襲撃に遭遇した。敏捷性を活かして暴れ回り、暴れながら魔術を乱発する、そんな魔物だった。
戦うべきだ。そう思った。魔物と戦う術を、ユミルから教わったはずではなかったか。けれど、運動補助を使ったところで、あの動きに反応できるのか?魔術にまで意識を向けられるか?そう思ったら、動けなかった。
多くの人が重傷を負った。死者も出た。目の前で苦しみながら死んでいった者がいた。
ユミルが魔物を倒すまで、拓真は何もできなかった。自分がユミルと共に動けたら、助かる命もあったかもしれない。怪我をせずに済んだ者もいたかもしれない。
自分が何もできないことに、できることがあるかもしれない時に動けないことに、こんなにも絶望する日が来るとは思わなかった。
実戦経験も必要か、そうは思ったが、拓真が通常訪れる範囲に魔物の棲息域はない。拓真の身近で魔物被害が発生する恐れは低かったし、実戦を経験しようにも、その辺に魔物はいないということで。なかなか遠征することはできずにいた。
けれど、今度は状況が変わった。魔物や魔族は増えているというし、魔族の集団が拓真の生活圏にまで侵攻してくることもあり得る。
そうだ、遠征が難しいならば、別の方法を考えればいいのだ。
「少しと言わず、本気で訓練してもらっていいか?死ぬかもって恐怖に負けないくらいに」
ちなみに、意識というのは定義がはっきりしない用語ですが、この07話では、「環境からの刺激を処理して行動を出力するもの」と捉えています。そして、高次/低次というのは、処理系と出力の複雑さを指しています。最も低次の意識は、脊髄反射のような単純な反射ですね。
魔力操作も、魔力という環境からの感覚刺激を分析し、発現させようとする魔術に照らして必要な操作を判断して実行する、という意味で意識の働きと考えられます。
一方、03話で語られている意識は、どちらかというと意識/無意識という括りで捉えた意識をイメージしています。デルサイ王国が存在する世界は、科学が発達していないのでそういう理解になっていますが、拓真の捉え方にも混乱があるようですね。