05-2
「ミヤシタさん!ーーーーー!」
聞こえた声がユミルのものだと、遅れて気付いた時には、息もできないほどだった痛みが嘘のように消えていた。魔術による回復だ。いつもならば、複雑な体組織をどう修復したのか、とでも考えるところだろうが、今は思考が形にならない。何だか、やけに寒くないだろうか。暖かな日差しが木々の合間から差し込んでいたはずなのだが。
ユミルの手が両肩に置かれる。
『ミヤシタさん、もう大丈夫です。フレイムベアは倒しました。もう安全です』
半ば無意識に、熊の方へ顔を向ける。熊は血溜まりに倒れて動かない。
もう大丈夫、と繰り返されるうちに、少しずつ思考が戻って来る。
(……生きてる……?)
ユミルが来るのがちょっとでも遅ければ、確実に死んでいた。今更、身体が震え出す。
『すみません、まさかこのタイミングで魔物が現れるとは思いませんでした。間に合…ってはいないですね。すみません』
ユミルの言葉に、返事をする余裕はまだなく。もうしばし、落ち着くための時間を要した。
『…ユミルさんは、どうしてここに…?』
『はい、すみませんが、ミヤシタさんの居場所は時折探っていました。危険が全くないわけではありませんので。大型の獣がミヤシタさんに真っ直ぐ近づいて行く気配を感じたので、急ぎ駆けつけました。いる、というのは少し前から分かっていたのですが。もう少し早く動いていれば、大怪我をさせることはなかったはずです。すみません』
『いえ…来てくれて助かりました。ありがとうございます』
ユミルが謝ることなど何もないと宮下は思う。魔物が出現すること自体想定外だったのだろうし、その動きも想定外だろう。宮下が注意を怠っていたこともある。それでも警戒を緩めず、危険を察知して救ってくれた。感謝しかない。
改めて魔物を見遣る。それにしても大きい。魔術など使わずにその巨体で襲い掛かられたら、あっという間に殺されていただろう。わざわざ魔術で攻撃してくれたから、時間が稼げたと言える。何故だろうか。魔物とて生物なのだから、自然選択により環境に適応しているだろう。わざわざ時間を与えて狩りの成功率を下げる以上に、慎重に行く方が生存に有利となる淘汰圧があるのだろうか。あるいは、熊から進化したのだとしたら、熊の特性を継承している?
『ユミルさん。…この魔物は、強い魔物ですか?』
『…強い、の基準をどこに置くかという話にはなりますが。これはフレイムベアと呼ばれる魔物です。魔物としては割合強力な部類に分類されます。ただ、魔力の感覚と操作がしっかりできていれば、対策はそう難しくありません。フレイムベアは、普通の熊と似て、案外臆病で慎重ですので、追い払うだけであればなおさらですね』
魔物は恐ろしい。魔物がうろつく外を歩くことも恐ろしい。けれど、訓練次第というならば。
『教えてもらえますか?魔物への対処法』
『もちろんです。繰り返しますが、魔物が棲息域の外に現れることはほとんどありません。ですが、自衛の手段は持っている方が安心でしょう。他の危険もあることですし。または、近隣の町に移って暮らす方法もありますが、町中だから絶対に安全とは言い切れません。言葉の壁もあります。それに…私としては、ここに残って頂けると嬉しい気持ちもあります』
町に移るという選択肢はない。町に移るだけでは、魔物の脅威に怯えることに変わりはない。ずっと町に篭って過ごすことになる。それでは息が詰まってしまうし、日本の都心近くに住んでいた宮下にとって、自然に溢れるこの世界は魅力的過ぎた。世界を見て回りたい、そんな思いが今の宮下にはある。それに、ユミルからこの世界の知識を教わり、ユミルに地球の知識を教えるのは、案外楽しい。ユミルの教え方が上手い反面、宮下の知識は甚だ心許なかったが。ユミルも楽しく思ってくれているとしたら、それこそ嬉しいことだった。
『できれば、ユミルさんの家に、これからも住ませて下さい。俺は、ユミルさんから魔術を教わりたい』
『分かりました。これからもよろしくお願いしますね』
『はい、お願いします』
そこですぐさま、『では』とユミルが話を切り替える。何だろうか。
『トラウマは早めに緩和しておくに限ります』
そう言って、ユミルは倒れた魔物へと歩み寄った。
『この通り、もう死んでいますから、触れても大丈夫です。魔物は恐ろしい存在ではありますが、間違いなく生物です。傷つけることはできますし、大きな損傷を受ければ死ぬのです。まずはそれを理解することが大事です。対処の仕方さえ分かればどうにかなる、ということです』
手招きするので、宮下も恐る恐る近づく。
魔物に触れる。動かない。ただ、ゴワゴワとした毛の手触りがある。
『今日は、このフレイムベアを持ち帰って解体することにしましょう』
『はい。……え?』
『フレイムベアとは、その名の通り炎の魔術を行使する熊と思って差し支えありません。あくまで熊、獣なんです。解体することで、それが良く分かるでしょう。それに、熊ですから、食べられます。あくまで生物ということが実感できると思います』
『えー…?』
何というか、なるほどという思いと、だからってこれを?という思いが半々だ。
『相当な損傷を与えましたから、血抜きはできているでしょう。若干の臭みはありますが、美味しいですよ』
ユミルが何やらフォローめいたことを言って来るが、そういうことではない。
『フレイムベアを持ち上げますので、運動補助の魔術を。魔物と遭遇した時は、まずは運動補助を常に行使することです。これは無意識にできるようになっておきましょう』
そうだ、運動補助。それすら頭に浮かばなかった。運動補助の魔術とは、いわばパワーアシストスーツのようなものだ。身体の周りに高密度の魔力を纏っておく。魔力は弱いながら物質と相互作用し、力を及ぼす。急激な魔力勾配を作ることで、魔力密度の高い方から低い方へ、運動を補助できる。原理的には、外から飛来する物を弾いたり、押し返すことも可能だ。そこまでするには、非常に高密度な魔力が必要になるから、拓真にはまだ無理だが。一般には、これは身体能力強化と呼ばれる魔術だが、実際は身体を強化している訳ではない。あくまで、魔力勾配で物質に力を及ぼす魔術だ。便利な魔術ではあるが、注意しなければならないのは、物質が魔力から力を受けるならば、当然魔力も反作用を受けて動くということだ。その時に魔力が散逸しないように魔力操作で繋ぎ止めるか、散逸してしまったら再び魔力操作で集めることになる。それを無意識にできるように、というわけだ。意識の働きなのに無意識に、というのは不思議に思えるが、意識にもいくつかのレベルがある。多くの動物は自分というものを認識できないが、だからといって意識が存在しないとも言えなそうだ。自意識を伴わない無意識の働きも含めて意識だということなのだろう。確かに、そうでなければ多くの魔物は魔術を扱えなそうだ。
ユミルがフレイムベアの足側に回ったので、宮下は恐る恐る首の下に手を回す。いや、回そうとして躊躇う。死んでいると分かっていても、怖いものは怖い。散々躊躇った末にどうにか持ち上げたが、その間ユミルは何も言わずに待っていてくれた。
しばらくは緊張の中歩いたが、次第に慣れて来る。それを見て取ったか、ユミルが解説を始めた。
『魔物は、魔術を扱うから魔物に分類されるわけですが、魔物が行使できる魔術は通常ひとつかふたつだけ、使い方も単純です。その理由は良く分かっていませんでしたが、恐らく低次の意識しか持たないためでしょう。本能的に魔術を行使していて、使い方の工夫はないように見えます。フレイムベアの場合、対象の周囲を燃やすという魔術ですね。運動補助を使えば、逃れることは難しくありません。後は、こちらも魔術で攻撃するか、または逃げても良いでしょう。逃げるのは、これも運動補助を使えば難しくありません。あちらは運動補助を使えないわけですから』
『なるほど、魔術を自在に扱うには、意識の進化が必要だった、ってことですね。…神経系の発達と魔術の高度さはイコールなんでしょうか』
『私見にはなりますが、魔力操作の質と量は、神経系の発達とはあまり関連がないように思います。ただ、決まった魔術、決まった使い方ではなく、魔術を応用するためには、神経系の発達が必要なようです』
『うーん、大脳皮質、特に前頭前野のプランニング能力が必要ってことか…?魔力操作の能力自体は神経系とは別、もしくは比較的簡単な神経系で既に完成されている?確かに、神経活動が魔力を操作できるとも思えないし、魔力操作と神経系は別という方が理に適ってるか?』
『ミヤシタさん、前頭前野とは何でしょうか?詳しく教えて下さい』
『あー、まだ脳の構造はそこまでやってませんでしたね。前頭前野っていうのは、名前の通り、脳の最も前方の領域です。ヒトで特に発達した部位で、各種の感覚・感情・記憶を総合してどういう行動を取るか判断してます』
『行動のプランニング、そういうことですか。確かに、的を射ている感じがしますね。それでは、魔力操作を行う主体は一体ーー』
議論しながらユミルの家に帰り、解体して調理して食す(熊鍋は思いの外美味しかった)。その間に、魔物への恐怖は薄れたように思えた。