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魔術と並行して、デルサイ王国の言語、デルサイ語も教わった。まず文字と発音から始め、身近な単語や文法を学ぶ。デルサイ語は、デルサイ王国を初め、大陸西側(地図の向きは地球の北半球と同じでいいらしい)の多くの国で話されている言葉だという。つまり、デルサイ王国は相当に強い力を持った国なのだろう。確かに、地図上でも大きな国土を持っていた気がする。土地は資源、資源は力だ。
デルサイ語の音素は、母音が6、子音が15と、日本語よりは多いが、幸い日本語や英語からかけ離れた音はなかった。音の高さで意味が変わるとかいうこともない。問題は、文法だった。格変化や語順など、日本語との違いが多い。とはいえ、覚えるしかない。宮下も、人並みに勉強は嫌いだったが、勉強は何のためかと問えば、答えは自分のために決まっている。言語を学べば、世界が広がる。その他、一般的な勉強の話をするなら、自分がやりたいことをやる為に、知恵や教養、論理的思考力があった方がいい。それらを身に付けるために、勉強をするのだ。宮下は覚悟を決めた。
科学は、宮下が教師役になる唯一の科目だが、範囲があまりに膨大だ。どこから始めるべきか。教師でもない、しがない技術者の卵には、どう説明して行けばいいか、検討もつかなかった。そもそも、そんなに正確な知識があるわけでもない。
まあ、対話しながら探って行くしかない。
『俺が育った地球では、色々な現象の背後にある原理が、かなりのところまで分かっていました。けど、それはすごく最近のことで、最初は表面的な理解から、的外れな理論もたくさんありながら、少しずつ世界の成り立ちを理解して来たんです。現生人類が世界に誕生してから、少なくとも数万年は経っていますが、理解が一気に進んだのは、精々500年前くらいからです。それには、数学と計測技術の発達が不可欠でした。ですから、まずは数学から始めたいと思います』
そう前置きして、宮下は説明を始めた。
この世界の数学は、案の定というか、惨憺たるものだった。四則演算は流石に問題ないし、小数や分数の概念もあったが、累乗や平方根になると怪しく、微積分や三角関数は存在しなかった。ピタゴラスの定理は流石に知られていたが、
(これじゃ、高度な機械は望めないだろうな)
加速度・速度・変位をどう扱うのか。斜めから加わった力の作用はどう分解するのか。空間に分布した様々な物性の働きをどう見積もるのか。地球に溢れる様々な工業製品の設計は、計算によって成り立っている。如何に魔術があったところで、そうしたことが計算できなければ設計できない。
(まあ、魔術は意識と魔力が相互作用しなきゃいけないってことだから、そもそも魔道具なんてあり得ないんだろうけど。……いや、そうとも限らない、のか?どうだろう?)
ユミルが魔道具らしきものを使っているのは見たことがないが、必要としていないだけかもしれない。研究者だけあって、当たり前のように魔術を扱っている。魔術の使い過ぎでぐったり、などということもない。そういえば、魔術を使い過ぎて倒れるなんてことはあるのだろうか。どうしてもMP的なものを想像してしまうのだが、意識で魔力を動かすというこの世界の魔術の特性に、MPという概念はそぐわない感じがする。集中する分疲れるものの、自身の何かを消費して魔術を発動させている訳ではない。空間の魔力は消費していると言えるが。一方、意識と魔力の相互作用と言うなら、意識の側にも何らかの影響があっておかしくない、とも思う。その影響にどれだけ耐えられるか、という意味でのMPはあるかもしれない。こういうのも、追々聞いてみたいところだ。
話を戻そう。科学を教えるのは大変だった。といっても、生徒ではなく教師の問題だ。ユミルの覚えは早かった。宮下の知識が曖昧過ぎて、思い出すのに苦労することの何と多かったか。ユミルにある程度知識が着いてからは、ふたりで議論しながら思い出した部分もある程だ。
ユミルは世界の成り立ちに興味があるということだったから、数学の基本概念を高校レベルくらいまで浚ってからは、物理学に移った。古典力学、流体力学、電磁気学に波動の概念、量子論、素粒子論や宇宙を支配する4つの力、そしてひも理論に統一理論構築の試み。
それにしても、魔力というのは面白い概念だと思う。ひも理論なんてコンセプトしか知らないが、魔力が統一理論完成の鍵になったりはしないだろうか。地球を要する宇宙とこの世界(同一の世界の可能性は残っているが)で、物理法則はほとんど同じに思える。今のところ、魔術の存在以外に違うと思えることはない。もちろん、原子の存在を確認したわけでもなければ、星の運行を記録したわけでもないが、宮下が生きていけるというだけでも、同じと考えるには十分だろう。ならば、魔力が宇宙を支配する5つ目の力だとしたら。意識と相互作用する力など、地球では知られていなかった。なぜ地球で魔力が発見されないのかは分からないが、もし魔力が重力と電磁気力を結びつけたら、面白いどころの話ではない。
生物学についても話した。細胞や臓器、神経系といった身体の中の話に、進化論や生物系統樹、ヒトはどのようにして誕生したのか。ふたつの世界で同じ姿をした生物が同じように知能を獲得するに至ることが、どれだけあり得ないことであるか、個人的な興味を乗せて語ったりもした。
そうした議論に、ユミルはよく乗って来た。興味を持つポイントがあまりに似ていて、他人と思えない程だ。いや、ユミルの知的好奇心が旺盛過ぎるだけかもしれない。宮下の知識が足りず、ユミルが消化不良に終わることもあった。言葉だけでピンと来ないところは、できる範囲で実験もやってみせた。尤も、できることなどほとんどなかったが。一番頑張ったのは、簡単な顕微鏡を作ったことだろう。レンズを作るのは大変だった。ユミルの伝手で金属加工の工房に型を作ってもらい、ガラス加工工房に渡してガラスを流してもらった。試行錯誤の連続だった。精度が足りず、何度も作り直した。出来上がったものはお世辞にも高品質とは言えなかったが、それでもある種の微生物や細胞を可視化することに成功した。生物に関するユミルの理解に大いに役立ったし、宮下としても改めて地球との類似性が確認できた。欲を言えば、細胞内の構造も見てみたかったが、そこまでは技術が追いつかなかったのは残念だった。