愛人の嫁入り
人生をやり直したいなんて思わない。
きっと何回やり直しても、私は流刑島の貧しい孤児で、奴隷として金持ちの老人に売られる運命だもの。
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私の住む小さな田舎町は、先の戦で勝利をおさめた騎士団の来訪に沸いていた。
国境での戦いを終えた彼らは、しばらくこの街に逗留して傷を癒したのち王都へ帰るらしい。
街の人々は領主の城に向かう英雄たちを取り囲み歓声をあげ、さながら凱旋パレードのようである。
人混みの後方から何気なく覗き見をしていた私は、笑顔を振りまく騎士たちの中に無愛想な顔をしている1人の青年をみつけた。
ーーひと目でいいから会いたかった人。
あの最果ての島で、海風に吹かれ太陽の下で笑っていた金の髪の少年。
まさかこんな形で願いが叶うなんて。
無事に生きていてくれたことの喜びと、逞しい大人の青年になった彼へのときめきに私の心は浮き立って、けれどたった1つの小さな夢が思いがけず叶ってしまったことに落胆していた。
これでもう、生きる希望は何も無くなってしまった。
私は踵を返して帰路についた。
声なんてかけられる状況でも立場でもない。
もしも会えたところで、どのツラ下げて会うんだって話。
ーー汚れた愛人に成り果てたこの私が。
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「愛人、お前に嫁に行ってもらいたいのよ」
騎士団の来訪の翌々日。
大旦那様の遺品整理の報告をしに本邸を訪れた私に、大奥様がそんなことを言う。
お気に入りの使用人(という名の愛人)の美青年をはべらしてご機嫌な大奥様は、亡くなった大旦那様と同じ62歳になられるが、似た者夫婦というかなんというか、なんともお元気でいらっしゃる。
「嫁…ですか?妾ではなく?」
私の問いに大奥様は頷く。
「そう。フィオナの代わりにね」
フィオナというのは大奥様の大事な大事なお孫サマ。
歳は私と同じ21歳。
当商家ご自慢の華やかなお嬢様であり、地味な日陰者である私とは見た目も中身もずいぶん違う。
代わりとはこれいかに。
「フィオナお嬢様は王都の商家とのご縁談が進んでいましたよね?」
「そうなんだけど…ほら、騎士団の皆様がウチの街に来たでしょう?フィオナったら『商人なんかより身分が高い貴族がいい』ってはり切っちゃって、今日も城に行ってるのよ。ああなってしまうともう無理ね。ーーとはいえ、その商家にはいろいろ世話になってるから断ることも出来なくて」
「はあ…けれど、私にお嬢様の代わりが務まるとは到底思えませんが」
「結婚なんて家と家のものなんだから、お前をフィオナの従姉妹ってことにしておけば問題ないわ。傍流の娘としてなら最低限の教養と礼儀作法さえあれば誤魔化せる」
大奥様は隣の青年の胸板をウットリと撫でた。
「大丈夫。お前はそこはかとなく品がある顔をしているし、我が家の内情にも詳しいからなんとかなるでしょう。王都とこの街は離れているからお前を知る者もいない。ーーああでも、名前くらいは変えなきゃね。……そうねぇ、シンシアってことにしましょう」
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数日後、私は再び本邸を訪れた。
今日は大奥様に用はない。
大切な友人を見舞うために来たのだ。
「ーーということで、私はシンシアになったのよ」
本邸の端にある日の当たらない小さな部屋。
ベッドに横たわる黒髪の青年相手に私は新しい名を告げた。
彼の名はアレン。
病に冒されるまで大奥様の1番のお気に入りだった彼は、私の愛人仲間で数少ない友人だ。
その顔色は悪く、頬は痩け、日を重ねるごとに若さと生気が薄れていっている。
アレンはまだ24歳だというのに……
「……いいの?君は自由になれるはずだったんじゃないの?」
アレンの疑問に私は苦笑いをした。
「大旦那様が亡くなる前に私の功を労って借金清算してくださったはずだったんだけどね……この話を断ったらそれを無効にするって大奥様に言われたの」
「はあ〜…どこまでも身勝手だなあ……金持ちってやつは」
大旦那様の葬儀のドタバタでしばらく会えないでいたけれど、久しぶりに会ったアレンは以前よりさらに弱々しく息苦しそうになっていた。
聞いた話によると、腹に出来た病が肺にまで広がってきているらしい。
私がアレンの浮腫んだ脚を揉みほぐし始めると、小さな声で「ありがとう」と言ってくれた。
「急な話なんだけど、ひと月後に私は王都に行かなければならないんですって。だからこうして会えるのもあと僅かなの。できるだけアナタの看病をしたかったけれど……」
私が申し訳なさそうに目を伏せると、アレンは弱々しく笑った。
「じゃあ、ちょうどいいかもね。こないだ医師に言われたんだ。僕の体は1ヶ月もたないだろうって。大切な友人に見送られながら僕は旅立てるわけだ」
「アレン……」
「僕も王都について行こうかな?君の守護霊か何かになってさ」
笑えない冗談だけれど、私は無理やり笑った。
「いいわね、それ。私が向こうで意地悪されたら助けてよね」
「ははっ…とっておきの怒りの鉄槌をくだしてあげるよ。……でもいいのかい?自由になったら好きだった人を探したかったんじゃないの?」
ーー私の好きな人。
私の大切な夫で大切な初恋。
自由の身になったらその人を探し出してせめて一目会いたいのだと、アレンには話していた。
私は、願いが叶ってしまったことを今のアレンに言うべきかしばし迷う。
「……いいのよ。綺麗な思い出は思い出のままにしておいた方がいい……今の私はこんなんだしね」
ハハハと笑う私をアレンは労わるように見た。
「じゃあ僕が探してあげる。この体から自由になったら、僕がその人を探しだして君に会わせてあげるよ」
ーー会ったところできっと迷惑になってしまうわ。
と思ったけれど、私はそこは素直に頷いた。
そう言ってくれるアレンの気持ちが嬉しかったから。
「同じ島で育った幼馴染なんでしょ?どんな人なの?」
アレンの問いに、私は島にいたあの頃に思いを馳せた。
最果てのあの島に…あの人に…私の初恋に……
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その島は王国の流刑地だった。
海を臨む崖の上に”ウミネコの家”と呼ばれる孤児たちが住まう家があって、私は物心つく前からそこに居た。
たいていの孤児は流刑者が島の女に手を出して生まれた子どもで、私も多分そうなんだろう。
真っ黒に焼けた肌に短く刈った髪。ボロ布を纏った私はいつもお腹を空かせてフラフラしていた。
そんな私の前に”ロイ”が現れたのは8歳の時。
彼の父親は『たいそうなご身分』の流刑者で、島の領主に預けられ大切に育てられてきたものの、父親が死んで『たいそうなお家』の援助が打ち切られたのを機にウミネコの家へやってきた。
ロイが言うには『お払い箱』になったらしい。
無愛想な金の髪の少年と仲良くなったきっかけは、彼が私に食べ物を分けてくれたことにある。
食べるのが遅い私は、育ち盛りの孤児たちがひしめく競争社会の中で常に食いっぱぐれていた。
ロイはそんな私を見かねてパンを分けてくれた。
「……おまえ、食えてないだろ?これやる」
崖の下の窪みでコッソリとパンを差し出してきたロイに、私は「いいの!?」と大喜びをした。
「見張っててやるから食えよ。ゆっくりでいいから」
必死で口を動かさなくていいなんて!
急いで食べなくていいなんて!
初めてゆっくり味わった硬いパンは、とてもおいしかった。
ふとロイを見ると、頬を赤らめてパンを食べる私を見ていた。
喜びのあまり鼻をフゴフゴさせながらパンを食べている私を。
後々本人から聞いた話によると、あの時に私を好きになったらしい。
私は(アレのどこに好きになる要素があったんだろう?)と思った。
人の好みっていうのは不思議なものだ。
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「初恋というより”目覚め”って感じだね」
アレンがニヤニヤしながら言った。
「ロイは君が食べる姿を見て目覚めたわけだ」
「………そうなのかな?とにかくロイは、私が何かを食べてる姿が好きだったの。そうしていつの間にか一緒にいることが当たり前になっていったのよ」
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私はロイに食べ物を分けて貰い、この島においてとても珍しい『まともな教育』を受けてきたロイから勉強を教えてもらい、常にロイの後をくっついて回っていた。
私にとってロイは兄のような存在だった。
そんな私の心が大きく変化したのは13歳の時。
その日、私は4人組の男に追いかけられて山側の薮の中を逃げ回っていた。
子どもだろうと、男だろうと、女だろうと、頭のおかしな奴に孤児たちが狙われることはよくある話だった。
流刑者の遺児である島の孤児に傷をつけたところで、誰も文句など言いやしないのだ。
私は投石が得意で逃げ足が早かったため被害を逃れてきたけれど、その日はどうにも体が重く、思うように走ることができなかった。
4人の大人の男相手に石を投げたくらいでは太刀打ちできない。
いっそのこと木に登ってしまおうか?
いやでも、逆に逃げ場がなくなってしまうかも……
必死に逃げていた私は前方に2人の男の姿を認め、慌てて後ろを見れば残りの男たちがすぐそこまで迫ってきている。
男たちは二手に別れ私を挟み撃ちにしようとしていた。
万事休すだ。
命を獲られるよりは大人しく従った方がいいのだろうか?
でも、でも……
(ーー嫌だ!!誰か助けて……)
その時、鈍い音とともに前方の男たちが誰かに殴り倒されたのが見えた。
薮の中で蠢く影は、拳を振り上げ男たちを滅多打ちにしている。
私は追いついてきた後方の男たちに捕らえられながら、その影の名を叫んだ。
「ロイッ!!!」
ロイは薮の中から身を起こすと、瞬く間にこちらへやって来て、私の服を剥ごうとしていた男たちの顔面を太い木の棒で力強く殴った。
そして、そのまま拳で残りの男たちを地面へ沈めると、私の手を取り間髪入れず駆け出す。
2人で崖の下の窪みに逃げ込むと、ロイは私の乱れた服を直しながら「大丈夫か?」と聞いてくる。
私は頷くと腰にぶら下げていた布でロイの顔の返り血を拭う。
「ロイが来てくれたから助かったよ。ありがとう、ロイ」
「………うん」
照れたように引き結ばれた唇。
私より高くなった背丈。
私と同じく棒のようだった腕は、いつの間にか薄らと筋肉が付いて筋張った男の腕になっていた。
「ありがとう、ロイ……」
私はもう一度お礼を言うと、背中に回されたロイの手の熱に気づいて顔を伏せた。
恥ずかしかったのだ。
自分の心が疼いているのがわかる。
ドキドキというよりは、ムズムズとした何か。
この気持ちはなんだろう?
ーーその夜、私は初潮を迎えた。
心も体も大人になりつつあった私にロイがプロポーズをしてくれたのは、その1ヶ月後のことだった。
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「摘んできたお花を『んッ!』って言って差し出してきてね、すごく緊張しながら『15歳になったら結婚しよう』って言ってくれたの」
私は濡らした布でアレンの足の裏を拭きながら、あの時のロイの顔を思い出す。
「あの時のこと、私は鮮明に覚えてるんだけどロイはよく覚えてなかったみたい。緊張で頭が真っ白になって、自分でも何が何だか分からなくなっちゃったんですって」
「あはは。可愛いなあ」
「そうでしょう?可愛らしくも美しい初恋の思い出よ」
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15歳になった私は髪も背も伸びて、それなりに女性らしい丸みを帯びた体つきになっていた。
そんな私とロイは夜の防風林に身を潜めて、海岸に打ち捨てられている何隻もの小舟を遠くから観察していた。
小舟は島の恋人たちが睦み合う場所として使われていた。
15になったばかりの私たちはとりあえずそこに行ってはみたものの、恋人たちとソレを覗き見る者たちの異様な熱気に気圧され立ちすくんでいた。
「……舟はぜんぶ使用中みたいだね。誰かが終わるの待つ?」
隣のロイを見上げると、ロイは「いや、ここはやめよう」と言って私の手を握り歩き出す。
「覗かれるの嫌だろ?俺もお前の……そういう姿を他の奴に見られるのは嫌だ」
「………うん」
私は胸いっぱいに『好き』を溢れさせながら、ロイの背中と星空をみつめた。
結局その当時寝床にしていた崖下の窪みにかき集めたボロ布を敷いて、幼い私たちはぎこちないながらも『夫婦』になった。
ロイは私を抱きしめながら夢を語ってくれた。
「一緒に島を出よう」
「うん」
「俺、がんばって金稼ぐから」
「うん。私も稼ぐ!」
「ちゃんとした屋根と壁がある家で穏やかに暮らそう」
「わあ〜そんな家に住めるなんて夢みたいだよ」
ーーその言葉通り、それは夢に終わる。
島を勝手に脱け出すのは重罪になるため許可を得ようと領主の元へ赴いたロイは、暗い顔をして帰ってきた。
ロイの祖父から孫を引き取りたいと連絡が来ており、それを受け入れるなら許可しようと領主に言われたらしい。
「そのうえ、支度金の催促をしろだとさ」
苦虫を噛み潰したような顔をするロイに、私は何も言えなかった。
だって分かりきってるもの。
この流刑島で貧しく暮らすより『たいそうなお家』へ行った方がロイは幸せに暮らせるってこと。
けれど私が「行かないで」と言えば、ロイはこのまま私とこの島で暮らそうとするってこと。
「……勝手なこと言う奴らには腹が立つけど、これは島を抜け出すチャンスかもしれない。向こうの家族に頼めば大手を振ってお前を迎えに来れる。2人で堂々と島を出ていけるんだ」
「………うん」
「支度金を催促する条件として島の領主にお前の身の安全を保証することを提案したんだ。アイツはいけすかない奴だが金には従順だし、あの屋敷はこの島の中じゃ安全な場所だ。定期的な仕送りもできるように家に頼んでやると言ったら二つ返事で受け入れたよ」
「………うん」
ロイはしばし押し黙った後、私を抱き寄せて顔を紅潮させた。
「あのさ……あ…あ…ア……」
「あ???」
「……あ、愛してる。かならず迎えにくるから待っててくれ」
私の中には、そうなったらいいなという気持ちと、そうはならないんじゃないかという気持ちが半分ずつ。
それでも信じることしかできない私は「うん」と頷いた。
「私も愛してる。ずっと待ってるから」
ーーロイが島を去った後、私は領主の家に身を寄せた。
ロイの口ききによって定期的に仕送りを貰えることになり上機嫌で私を迎えてくれた領主は、それから半年も経たない内に私を女衒に売ったのだった。
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「そこからはご存知の通り、あれよあれよという間に私は大旦那様の愛人になったワケ」
アレンの脚を揉みほぐしながら、私は戯けてため息をついた。
アレンは弱々しい声で「わかるよ」と相槌を打ってくれる。
「境遇は違うけど、僕も気づいたらこんな愛人になってたよ。人生、転落する時ってあっという間だよね」
「世知辛いわあ……」
「僕が死んだらさ、その島の領主にも鉄槌をくだしてあげるよ」
「いいわねソレ。よろしく頼むわ」
「ーーロイがすでに鉄槌をくだしてるかもしれないけどね」
アレンの言葉に私はしばし固まり、やがてフルフルと首を横に振った。
「……どうかな?それは、考えないようにしているの」
ロイは、私を迎えに来たかもしれない。迎えに来なかったかもしれない。
私を探しているかもしれないし、私のことなんかとうに忘れているかもしれない。
真実を知る術もないし、真実を知ることが恐い。
「美しい思い出は、美しいままであってほしいじゃない?」
汚れてしまった私は、光り輝くそれを遠くからそっと眺めるだけで十分だ。
アレンはそんな私の後ろ向きな言葉を「そうだね」と肯定してくれた。
私はそれが嬉しくて、少し泣きそうになってしまう。
ーーその時、使用人が私を呼ぶ声が聞こえた。
私はアレンの脚から手を離すと「また来るわね」と立ち上がった。
アレンはそんな私に力なく手を振る。
手を少し持ち上げることさえ辛そうだ。
せめて痛みを和らげる薬を貰えたら……
私は手を振りかえすと部屋を出ていった。
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「ああ…そうなのね。では医師に薬を処方するよう指示をしましょう」
大奥様は新しく買ったらしい大きなエメラルドの指輪を眺めながら事もなげに言った。
私の要望はアッサリ受け入れてもらえた。
こんなことなら、もっと早く言えばよかったと悔やまれる。
「ええ〜!おばあちゃまったら、あんなのにお金使ったらもったいないわよ。役に立たなくなったのに屋敷においてあげてるんだから、それで十分でしょ?」
異を唱えるフィオナお嬢様を、大奥様は眉尻を下げながら優しく諭す。
「今はあんなんだけど、あの子は可愛い子だったのよ。下の者の働きに報いてあげるのも上に立つ者の役目なのよ、フィオナ」
祖母と孫のやりとりを冷たい目で見ていた私に、大奥様が「そうそう!それでね」と話しかけてくる。
「先方の都合で嫁入りの日が早まったのよ。一刻も早く働き手が欲しいんですって」
「ヤダあ〜おばあちゃまってば、そんな家に私を嫁がせるつもりでいたの!?」
頬を膨らまして拗ねるフィオナお嬢様を大奥様がなだめる。
「商家なんてどこもそんなものよ。若い頃に多少苦労しても、歳をとって家の中の地位を確実なものにしたら私みたいに好きなようにできるわ」
「それでも嫌よ。そんな家に嫁がなくてホントに良かった!私ぜったい地位の高い裕福なお家にお嫁にいくんだから!」
騎士団の中の誰それが素敵だと話し始めたフィオナお嬢様を横目に、私は執事長に手招きをされて嫁入りの打ち合わせをしに部屋を出た。
嫁入りが早まるとなれば、アレンを見送ることが出来ないかもしれない。
心を込めてお見送りをしたかったのに……
暗い顔をしながら廊下を歩いていると、前にいた執事長が突然足を止めた。
「ーーあの方の事ならご心配なく。手厚い看護とまではいきませんが、決して無下に扱うことのないように私が目を光らせておきますから」
「………ありがとうございます」
ーーああ、そうだった。
この家の使用人たちはみんな優しい人たちだった。
絶望を抱え15歳で売られてきた私に同情し、影で支えてくれた優しい人たち。
良かったね、私。
失ったものはたくさんあるけれど、そんな中でも良い人たちとの出会いがあった。
アレンという友人にも出会えた。
『愛人』というオモチャではなくて『人』として見てくれる人がいた。
生きる希望が無くなったと思ったけれど、希望がなくても人のあたたかさがあれば生きていける気がする。
……嫁ぎ先でもそんな人たちに出会えたらいいな。
そう思った私は、ふと気がつく。
あら?もしかして、それって希望っていうんじゃないかしら?
後日アレンにその話をすると、彼は嬉しそうに笑った。
「そうだよ。それはまぎれもなく希望だ。君にはまだ希望があるんだ」
「僕にとっても君は希望だったよ。絶望の中で出会えたかけがえのない友達…どうか生きて……生きてて良かったと思う時がきっとくるから」
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ーーやがて、私が”シンシア”として嫁ぐ日がやってきた。
アレンはそれに合わせるように前日の夜に亡くなった。
小さな声で「僕にまかせて……」と呟いて、眠るように目を閉じ、そのまま事切れてしまった。
一晩中泣いていた私は、赤く腫れた目のまま嫁入り用の小綺麗なドレスを纏い質素な馬車に乗り込む。
そうして数人の使用人に見送られながら、私は愛人として6年間過ごした別邸を後にした。
窓の外を流れる街並みに特別な感慨はないけれど、この街にロイが居ると思うと離れ難い気持ちになってくる。
そして私は大旦那様に買われ初めてこの街に来た時のことを思い出した。
今の私もあの時と大して変わらない境遇だけど、あの時のように泣くことはない。
諦めと希望を知った私は、あの時よりずいぶん大人になったのだ。
「生きてて良かったと思う時、か……」
そう呟いた時、突然馬車が止まった。
「???」
不思議に思っていると、御者が慌てた様子でこちらを覗き込んできた。
「すみません!車輪の調子が悪いようでして……しばらくお待ち頂けますか?」
外に出てみれば御者が「おかしいな〜今朝見た時は問題無かったのに……」とブツブツ言いながら車輪の確認をしている。
「直せそうですか?」
「う〜ん…やってはみますが原因がよく分からないから難しいかもしれません。幸いまだ街を出ていませんし、いったん本邸に戻って修理した方がいいかも……」
出立して早々に出戻りとは、なかなか幸先不安である。
ーーまいっか。なんとかなるでしょう。
空を見上げて一息つくと、黒い何かがヒラヒラと舞っているのが見える。
目を凝らしてみると、それは大きな黒いアゲハ蝶だった。
黒い蝶は真っ青な空を自由気ままに舞っている。
その姿に私はアレンのことを思った。
彼の魂は肉体の苦痛から解き放たれて自由になれただろうか?
この蝶のように自由気ままに羽ばたいていたらいいな。
心の赴くままに行きたいところに行って、会いたい人に会いに行ってほしい。
「さようなら…ありがとう……」
私の言葉はひらめく蝶とともに青い空に吸い込まれていった。
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その頃、本邸に金の髪の騎士が訪れていた。
とある貴族の末子であるという見目の良い騎士の来訪に、フィオナは浮かれ舞い上がっている。
しかし、彼はそれに見向きもせず『大奥様』と呼ばれる先代当主夫人に話を切り出した。
「この屋敷にハルという名の若い女がいると耳にしました。一度会わせて頂きたいのですが……」
何かを追い求めるような真っ直ぐな瞳は期待と不安で揺れている。
町外れで車輪の修理を手伝っている”ハル”をその瞳がとらえるのは、それから数十分後のお話。
ハッピーエンドです!
読んでくださってありがとうございます。