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第65話 同じ夜に溶けて


「あなたはもう、悩んでいないか」


 思ったより近くで聞こえた声に私は驚いたけれど、手を離しはしなかった。彼の腕も離れない。此処まで近付いてしまったら顔を見るのは気恥ずかしくて、私は彼の肩口に額を当てたまま、そうですね、と答えた。


「子どもたちがどう育ってくれるかとか、そういう心配はありますけど。皆との関わりで悩んではいないです。あ、もしかして、此処でテレーズのことに悩んでたの、聞いてくれたからですか?」


 彼とマックスが下のバルコニーに来てくれて、私の話を聞いてくれて。あの夜のことを思い出して問い掛ければ、少し身動ぎして彼が肯定した。胸に温かい想いが広がる。その感覚がくすぐったくて少し笑ったら私を窺うように彼が顔を動かしたのが伝わって来た。


「此処があなたにとって過ごしやすい場所になったなら、良かった」


 安心したような声に聞こえて、はい、と私は小さく頷く。此処に来て良かった。そう思っているのは本当だから。


「此処で話を聞いてもらって、知らないことだらけだって思ったんです。狭い世界で生きていたから、色んな人生を歩んで来た子たちがいるって思い至らなくて沢山どうしようって思って。でも、あなたが、私はもう知ってるって言ってくれたから。知ってることが結びついてないだけだって、言ってくれたから。あの時は判らなかったけど、今なら解ります。私、それが嬉しかった」


 無言で促してくるようで、私は続ける。


「“私”を見て、信じてくれたってことだと思うんです。木陰の下で話した時も同じ。嬉しくて」


 そうしてどんどん、彼を怖い、苦手だ、と思う気持ちは薄れていったのだと思う。残りはしたけれど、前ほど怖がらなくなった。


「ビルの話してくれるウィリアム様が、気になって。皆に聞いて、想像して、それが届いて、知ることが出来た。ふふ、嬉しいです。嬉しいですよ、ウィリアム様」


 マックスのおかげです、と私は笑った。


「知らないことを、知ること。直接訊いてみること。凄いです。マックスは本当に先生、ですね。こうしてウィリアム様とお話出来るなんて思ってませんでした。私のこと、忘れてるとさえ思ってたので──」


「──そんなわけないだろう」


 否定された声は少し硬い。そうですよね、と私は苦笑した。ビルとして私と話していた時も伯爵としての自覚もあったのだから当然だ。ごめんなさい、と言う前に回された腕にぎゅうと力がこもる。背筋が少し伸びて息を呑んだ。


「確かにあいつのおかげと言えないこともないが、気に入らない。あなたがあいつを慕っているのは解るが、こうしている時に他の男の名前は出さない方が良い」


「え、あ、ご、ごめんなさい」


 急に不機嫌な声になるから私は慌てて謝った。はぁ、と溜息が聞こえる。折角好きだと言ってくれたのに失望されただろうかと思うと震えそうになった。


「……すまない。つまらない嫉妬だ。聞き流して欲しい」


「……嫉妬……?」


 予想外の単語が聞こえて私は繰り返す。思わず漏れた声だったのに、そうだ、と肯定される。


「あぁ、いけないな。身勝手にもほどがある。あなたが此処にいるだけで満足しなくてはならないのに」


 再び、溜息。彼は溜息を吐いてばかりだ。けれどぎゅうと抱き締められて近付いた顔の、その鼻腔をくすぐるものがあったらしい。


「……あなたからは花の匂いがするんだな」


「え、そ、それはあの、お風呂にポプリ作りに使わなかった花を浮かべたせい……」


 は、と思い出して私は体温が上がるのを感じた。こんな大胆な。はしたない。初夜。色んな気持ちと単語が頭の中でぐるぐると回ってどうすれば良いか分からない。すん、と首元の匂いを嗅がれてひゃあ、と変な声が出た。


「あぁ、今日のポプリ作りに使った花か。良い匂いだ」


「り、リラックスする効果があのその……ある、ので……」


 彼がポプリを作っていたか私は思い出せなかった。オーブに付きっきりだったのもあるし、子どもたちの様子ばかり見ていたせいだ。眠れないのだろうか。それならポプリを、と思ったところで彼が体を離す。自分の格好を思い出して頬に熱が集まるのを感じた。ナイトドレス姿だ。テレーズが選んだ、あの。


「あまり外にいても冷えるだろう。中に……」


「あわわわわ」


 手を、彼の背に回したままだったから。体を離されても手を戻せない。前を合わせられなかったガウンのその下に着ているナイトドレスはこの月明かりによく見えたことだろう。言葉を失ってしまった彼に私は真っ赤になって目をぎゅっと閉じた。どうしよう、どうしよう。違うの。テレーズが、これはテレーズが! 花の香りを移したお風呂も、テレーズが!


「……それは、わざとか?」


「て、てててテレーズがあの、は、張り切って」


「張り切って……」


 彼が顔を逸らす微かな音がした。私は目を閉じたまま羞恥に震える。


「今日は何もしない。このまま、あなたを抱き締めて寝ても?」


「う、うぅ……? あの、ええと、はい……?」


 くす、と笑う音が零れる。今日は、ってどういう意味だろう。そのまま抱き上げられて部屋に戻る間も頭の中がぐるぐるしていて自分が何と答えたのか分からなかった。


「……起きたら、どうか真っ先に思い浮かんだ方の名前で呼んでほしい。ジゼル、あなたが呼んだ名前で一日過ごそう」


 それにも何と答えたか分からないまま、ベッドに下ろされてガウンごと優しく包まれる。心臓が胸を突き破って出てきそうだったけれど、しばらくしたら安心したような寝息が聞こえてきてからは私もそれにつられて微睡んだ。起きた後のことは明日の私に任せよう。


 そう思って私も同じ寝息に呼吸を合わせ、同じ夢に溶けていったのだった。



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