第64話 繋いだ言葉
「……あなたは、どうして……」
微かな声が聞こえる。唇が動いたのは見えたから彼の声なのは間違いない。私はじっと彼を見つめた。
「どうしてそう……」
彼は目を伏せた。はぁ、と吐いた息は深く、私は何か間違えたことを言ったのだろうかと心配になる。けれど彼が次に向けた目は不安に揺れていて、予想外の反応に私は目を丸くした。目が伏せられ薄い唇が開き、遅れて音が紡がれる。
「……マックスに、焚き付けられた。今後あなたを望む者が出る。あなたはその人物に心を動かされるかもしれない。これは偽装結婚だから。自由にして良いと言ったのは、俺だ」
「私を? ソルシエールの私をですか?」
有り得ないと思って確認したら、彼は私を見た。緩慢に、けれど真っ直ぐに向けられた視線は自分の言葉を信じて疑っていない様子で、有り得ないと思った私の思いを揺らがそうとしているようだ。
「此処ではあなたがソルシエールであることを気にする人間はひとりもいない。あなただけだ」
それに、と彼は言葉を続けながらまた目を伏せた。続けた言葉は歯切れ悪く、言い淀んでいる。
「偽装結婚とはいえあなたはもう、ヴリュメールの人間だ。ソルシエールより悪名高いヴリュメールになった。でもそれは本当に形式上のことだ。あなたの心までヴリュメールのものになったわけではない。だがたとえあなたがヴリュメールであろうと、ソルシエールであろうと、あなたの温かさに惹かれる者は自ずと出る」
確信めいた声の力強さに私は首を傾げる。そんなことあるだろうか。私が温かいなんて、そうなりたいとは思うけれど今はまだ、遥か遠い理想だ。
けれど彼は私の様子には気付かなかったのか言葉を続ける。
「いつかあなたに、種が芽吹いた時。育つその花が例えば今面倒を見ている子どもたちの中から、ということは有り得る話だ。俺はそれが、我慢ならない」
我慢ならないとはどういうことか。私がその意味を理解するより先に、彼は目を上げてまた私を真っ直ぐに見た。今夜会ってくれないかとビルに告げられた時の真剣な色が見えて今度は私が息を呑む。
「笑ってくれて構わない。俺はあなたを、手放したくない。元々この手にあるわけじゃないのに何を言っているのかとは思うが、有り体に言えばあなたが欲しい。誰にも渡したくない。あなたが、好きだ」
私はまた目を見開いた。言葉の意味がすぐには理解出来なかった。そんなこと、言われることがあると思っていなかった。両親以外には。
「あなたに想いを伝えるのに何もかもを隠したままではいけないと思った。だから話した……これはビルでもあり、ウィリアムでもある俺の、気持ちだ。
あなたの変わっていく姿、子どもたちと関わる時の柔らかさ、ビルに向けた笑顔、ウィリアムに向けた優しさ。そういうものを俺はずっと見ていた。それらが心に届く度、あなたの温かさに心が解けた。あなたに惹かれた。あなたは強い人だ。もう色の違う目を隠さないし、いずれはソルシエールの血を引くことも乗り越えるだろう。俺も、あなたのようになりたい。あなたと、歩きたい」
「わた、し……」
真っ直ぐに向けられたその想いに私から零れたのは言葉より先に涙だった。慌てて俯いて拭って、私はまた顔を上げる。上を向けば少しは零れるのを堪えられたけれど、止まる気配はなかった。でもすぐに伝えたい。
涙を零した私をどう思ったのか、彼は不安そうだ。真一文字に引き結ばれたそれはビルがする仕草そのもので、本当にビルなんだなぁと私は思う。あの隠された目元ではいつも、こんな風な表情を浮かべていたのかもしれない。自信のなさが目を隠していたのだろうか。私が、そうだったように。
だから私は微笑んでみせる。
「私、私も、此処の皆のようになりたいって思いました。その私を見てあなたが同じように思ってくれたなら、嬉しいです」
そうだ、嬉しい。胸に広がる温かさが嬉しいと呼ぶものだと私は知っている。
「私、伯爵のことも、ビルのことも、最初は怖かったんです。だってあなた、全然笑わないし、ぶっきらぼうだし、仏頂面だし。でも、怖がっていただけだったんですね。私と同じ。
でも、ねぇ、ビル。覚えてるかしら。木陰で休んで一緒に話した時のこと。あなたと初めて子どもたち以外のことで真面に話せたと思った時のこと。あの時、あなた、私のことを見ていてくれるのが判る話しぶりだったわ。私の“出来ること”を、肯定的な部分を口にしてくれたこと、嬉しかったのよ」
離れた手を、私から取りに行く。大きな手だった。子どもたちの面倒を見て、オーブの脱走を二回も許して、その度に心配して追いかけて。誰かを思いやれる、優しい手。マックスたちと同じように育まれた誰かを想う気持ち。
「気付いていないだけであなたももう、できるの。あなたも強い人。弱い部分を抱えながら、それから逃げながら、でも向き合う勇気を持てる人。
ありがとう、ビル。そしておかえりなさい、ウィリアム様」
「──っ」
彼の目が見開かれる。私はまた微笑んで、おかえりなさい、と口にした。
「好きな時に好きなようにビルでもウィリアム様でもなれば良いんです。あなたがあなたであることは変わりません。私がジゼル奥様だったりジゼルお姉さんだったりするのと同じようなものです。
ご挨拶が遅くなりましたね。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「……あぁ」
短い返答は相変わらずだった。けれど伸びてきた腕に包まれて、私もおずおずと彼の背に腕を回す。オーブにしたように。流石に頭に手は届かないからその背をさすった。驚いたように震えた背中から少しずつ力が抜けていくのを感じて私は目を閉じる。
どうか、不安に揺れる夜がこの人から減りますように。どうか、私に降りかかった偶然の繋いだ道が、幸福へ続いていますように。
そう、願って。




