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第62話 素顔


 どういう意味だろう、聞き間違えただろうか、と私は内心で首を傾げる。腕の力を緩めて伯爵は私を離した。私はさりげなくガウンの前を合わせながら伯爵と正面から向かい合う。伯爵は眉根を寄せて怪訝そうな表情を浮かべていた。


「別に声は意識して変えてないんだが」


「?」


 見覚えがないかと問われて私は実際にも首を傾げる。自分の格好が気になって正直に言って伯爵が何を言っているのかよく判らない。


 首を傾げていたら、はぁ、と伯爵は息を吐いた。私から離した手で前髪をわしゃわしゃと崩す。結婚式の夜の時と同じく後ろに撫で付けていた彼の髪がほどける。月の光を浴びながら目の前でくるくるの髪の毛がぴょこん、と出て来たのを見て、あ、と私は声をあげた。


「ビル……? え、でも、え……?」


 目の前の伯爵がビルの面影を宿して私は混乱した。固めていたせいか髪の毛は元通りにはならず、ビルにも伯爵にも見える人が目の前に現れている。


「ふ、双子、ですか……?」


「違う」


 私が何とか絞り出した答えをにべもなく否定し、その人は呆れたように何度目とも知れぬ息を吐く。その声や言い方は確かに、ビルのような、伯爵のような、わ、判らない。


「ヴリュメール伯爵の名前は?」


 その人が混乱する私を見兼ねた様子で静かに問いかけた。


「ウィ、ウィリアム様……」


「ウィリアムの愛称は?」


「ウィル、ビル……え、ビル……?」


 え、と混乱し続ける私にそういうことだと目の前の人は言った。何がそういうことなのか私は全く解らず、え、え、と混乱した声を出すことしか出来ない。理解するのが難しい。今合わせた答えは判るのに、結び付けられない。だって、伯爵は伯爵で、ビルはビルだ。


「あなたが普段話していたビルは俺だし、俺は伯爵でもある」


「な、なん……?」


 なんで、と訊きたかったのに言葉が途中で途切れた。騙していたわけではない、と彼は言う。でも黙ってはいたと。


「伯爵として在るには、勇気がなかった。子どもたちの前に伯爵として現れることも出来なかった。ビルとして皆と同じに紛れている方が気が楽だった。皆とはそう過ごして来たせいだろうな。でも、先代が亡くなって伯爵の地位を継いでからはそうもいかなくなった。伯爵としての仕事をしなくてはならない時はウィリアムに戻る」


 あなたの前にも出る勇気がなかった、と彼は言う。その頬が緊張しているように見えて私は気付く。あぁ、怖いんだ。伯爵として在ることも、臆病と称する自分を誰かの前に晒すことも、更にそれを、自分で言葉にすることも。どう思うだろう、と私も思った。自分の弱い部分を誰かに見せることに不安が伴わないわけがない。それならどうして彼は、私に見せてくれたのだろう。


 私に受け止めて欲しいと、願っているのだとしたら。


「……今は、どちらですか?」


 意識して頬を上げ、微笑んで私は尋ねた。彼の表情が泣きそうに歪んだように見えた。判らない、とか細い声が答える。


「ウィリアムとして訪れたつもりだ。でも、ビルとしてあなたと接していた部分が、出て来る」


 まるで悪いことのように言うから、私は少し首を傾げて問いかけた。


「それはいけないことですか?」


「……判らない。こんな風になったことがない」


 彼は目を伏せた。長い睫毛が落とす影が月明かりに伸びる。不安に彩られた表情が幼い子どものように見えた。子どもの頃の自分を置き去りにしたまま大人になってしまったような、そんな印象を受ける。


「いつもは違うんですか?」


 彼が伯爵でありビルであるなら、それを使用人の皆は知っているということだろう。私と地下の子どもたちだけが知らない。同じ歳の頃であるマックスやイヴォンヌ、トマは先代との関わりがあったから彼と一緒に過ごしていて最初から知っているのだろう。でも、伯爵の地位を継いでからはそうではなかったはずだ。


 例えば、テレーズは。自分を買った伯爵と世話をしに来るビルとが最初は結びついていなくても、“外”へ出た時には知ったはずだ。その時彼女はビルが伯爵だったことを知る。打ち明けるのは何も初めてではない。それなのに。


「……あなたは俺を、氷のようだと、思ったのだろう」


「あ」


 ──でも、ふふ、笑ったら怒られるだろうけど私少し安心してるのよ。あの氷みたいに見えたヴリュメール伯爵も人間なんだって、思うもの。


「ご、ごめんなさい、あの……」


 何と言い訳をするつもりでいるのか自分でも判らず、その先を続けられない私は肩を縮めた。まさか本人だとは思わなくて、とか、悪い意味ではなくて、とか、そんなことを並べ立てても意味はない。言ったことは事実で、私がそう思っていたのも事実で、良い意味ではなかったのも事実なのだから。


「いや、良い。ウィリアムの時はそう在ろうとしている。ビルの時も無愛想なのは変わらないが」


 自嘲的な響きを伴わせて彼が言うから、私は益々肩を縮めた。そんな顔をさせたいわけではない。そんな思いをさせたいわけではない。それなのに、どうして良いか判らない。


「それでもあなたは俺を、人間だと思ってくれた。俺はそれも──嬉しかったんだ」


 思わず顔を上げた私とは裏腹に、彼は目を伏せていた。少しだけ穏やかにも見えるその表情は、此処で多くの人が見せたものと同じに見えた。


 痛みを覚えるような、胸が締め付けられるような、穏やかなものに。



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