第61話 沢山の思い遣り
「理由はない、と言ったら、あなたはどう思う」
「理由はない……? ソルシエールの薬が欲しかったのでもなく……?」
そうだ、と伯爵は肯定した。そういうこともあるのか、と私は思う。
だって会ったこともないのに。何故か判らなかった。変だと思ったのだ。ガタガタに傾いた我が家に財産もない。私自身が魅力的なわけでもない。気味悪がられ、忌避されてきた。私を欲しがるわけがない。だから可能性があるとしたらソルシエールの、魔女の薬が欲しかったのかと思ったのに。それも違うと伯爵は言う。
「別に誰でも良かった。この手の話は独身のままだと周りが五月蝿い。噂を気にせず、資産目当てに勝手に縁談を持ち掛けられる。いつまでも断るのも煩わしい。下手に断れない相手も今後出てくるかもしれない。それなら早々に自分で選んでしまうのが良いと思った。誰を迎えても偽装結婚なのだから。地下に行かせるつもりもなかったから愛情深くなくても良かった。でも、そうだな、指示に従順に従ってくれそうな女性であればとは、思った」
借金を抱えていて、肩代わりするから娘を妻にと望めば恩からそうそう反抗的な態度には出まいと思ったから。もしかしたら言わないだけでソルシエールの娘を迎える効果を期待したかもしれない。世間では疎まれる家の娘を迎える伯爵家、という事実は関わり合いになるのを避けられかねないだろう。けれど、干渉を五月蝿がり煩わしがる伯爵には必要だったものだとしたら。
そういう偶然が重なり我が家に白羽の矢が立っただけなのだと知って、私は思わず笑ってしまった。不愉快だったか、と伯爵には言われたけれど、いいえ、と首を振って否定する。
「凄い偶然だと思っただけです。偶然我が家が選ばれて、偶然オーブとマックスに出会って、偶然地下に行ってしまって。ウィリアム様の指示、破ってしまいました。でも不可抗力なんです。だからビルのこと、叱らないであげて下さい」
やや間があって、ああ、と伯爵は頷いた。私はそれだけだと不十分かと思って言葉を続ける。
「ビル、ウィリアム様のこと一生懸命に考えているんです。マックスも、テレーズも、イヴォンヌも、トマも。此処の皆が皆、あなたのことを優しいって言っていました。此処に来て良かったって。私はまだ、ウィリアム様のことを全然知りませんけど、でも皆のことはこの二ヶ月と少しでほんの少しでも知りました。その皆が優しいって言うなら、そうなんだろうって思います」
「……そうは言わない者もいたはずだが」
ビルの名前は出ないけれど、マックスも知っていたことだ。伯爵自身が知っていてもおかしくはない。はい、と私は頷いた。
「でもその人から聞いたから、勇気を出して下さったんでしょう? その人、言っていました。向き合う勇気を少し出したんだろうって。覚悟を決めたんだろうって。だから私に会いたいと仰ってるって」
「来てみたらあなたは運動とやらをしていて肝が冷えた」
すみません、と私は苦笑した。本当に心配してくれたからこそであると感じられて何だかくすぐったい。伯爵は息を吸って、思い切ったように言う。
「あなたの言葉が、嬉しかった。だから会って直接言わなくてはと思った」
「──」
嬉しかった、と言われて私は驚く。言葉が出て来なかった。人を喜ばせられる言葉を私が紡げたとは思えない。誰かと勘違いしていないだろうかと思ってしまうほどには。それともビルが、少し良いように言ってくれたとしか。でもビルはそんなことしないだろう。それなら、伯爵が嬉しかったと感じたのは。
「誰にも言えなかったことを受け止めてもらったように感じた。誰にも言えなかったのに、だ。弱くて、臆病な自分が、赦された気がした。仕方ないと、仕様がないと、誰かに言って欲しかったんだ。肯定して欲しかった」
そうすればまた進める気がした、と伯爵は続ける。
「他の誰かじゃ駄目だった。それは憐憫であり、慰めであり、同情で、赦しではなかった。でもあなたは、辿り着いてくれた。同じ気持ちになり、泣いてくれた」
私がビルにそう、仕方がない、仕様がないと伝えたことが伯爵の耳にも入って、彼がそれを肯定的に捉えてくれたのだとしたら。それが彼の、欲しかった言葉だったなら。
「私ひとりじゃ出来ませんでした。マックスが教えてくれたんです。想像してみろって。あなたの境遇を想像してみると良いって。だからこれは、マックスの思い遣りでもあるんです。マックスも気付いていたんです。あなたの気持ちに。だけどやっぱり、あなたが言ったように彼らじゃ届かなかったんでしょう。だから私に、託してくれたんです」
恐らくは、テレーズも。イヴォンヌやトマも。気付いていた。同じ境遇で育って来た子どもたちだから、けれど違う条件にいる子どもたちだったから、言えなかった。それが益々伯爵を傷付けると解っていたから。
ビルは伯爵へ複雑な感情を向けていたから、掬い上げることが出来なかった。皆が皆、傷付いていることに気付きながら何も出来ずにいたのだ。
「私も、あなたに直接お礼が言いたかったんです。目的は別にあったとしても、私の両親を助けてくれたのはあなたです。それからこれもビルから聞いているかもしれませんけど、庭のひと区画、私に解放して下さってありがとうございます。テレーズを私の侍女にしてくれたことも。テレーズのおかげで私、此処にいられると思ってます。時々ちょっと予想外の方向に張り切っちゃうことがありますけど」
言ってから私は自分の格好を思い出した。ガウンを羽織ってはいるけれど、この下はナイトドレスだ。初夜を意識してますと言わんばかりの。
ひっ、と息を呑んで固まった私をどう思ったのか、伯爵は困惑した声で、まだ気付かないのかと言った。




