第60話 来訪者
ノックの音に私は飛び上がった。テレーズならノックの後にすぐ名乗る。けれど今回はそれがない。とするならテレーズではないのだ。今夜此処を訪れる予定があるのは伯爵だけだ。遂に来てしまった。
私は後ずさる。そんなことをしてもどうにもならないのは解っているのに、扉から距離を取りたくて仕方がなかった。バルコニーの手摺りに腰が当たって、行き止まったことを知る。咄嗟に階下を振り向いて、此処が三階であることを思い出し絶望した。行き場所がない。逃げ場所がない。
でもすぐ下の部屋が同じようにバルコニーになっていることを私は思い出した。ビルが脅威的な技で地面から辿り着いたその場所、マックスを引き上げたその場所。私がガウンも羽織らずに身を乗り出して二人に首元の素肌を晒したことまで思い出してしまったけれど、背に腹はかえられない。
手摺りの先に続いている柵を掴んで足を降ろせば、下の手摺りに足くらい届かないだろうかと思ったのだ。私の覚悟は全然決まっていなかった。伯爵は決まっても、私は、全然。だから私が次に取った行動は、逃げることだった。
ノックは続く。控えめに、けれどいつまでも私が開けないことを疑問に思ったのか何度も。承諾したくせに土壇場になって逃げ出す私を伯爵はどう思うだろうか。ビルは、がっかりするだろうか。折角勇気を出したのにと悲しむだろうか。
私はバルコニーを乗り越え、手摺りと柵の向こうに足をかけながら降りるのを躊躇した。伯爵が折角出した勇気を私が無碍にして良いのか。私が出した勇気を此処の人たちは受け止めてくれた。同じようになりたいと思ったのに、勇気を出した伯爵を受け止めず、私は逃げ出すのか。受け止めてもらえて私は少しでも変われたのに、変わろうとしているかもしれない伯爵を、私は拒むのだろうか。
戻ろう、と手摺りに力を込めたのと、扉が遠慮がちに開いたのは同時だった。廊下の灯りが薄暗い部屋に差し込んで、長い影が伸びた。覗き込んで来たのは結婚式に見た以来の冷たい美しさをたたえた──。
「伯爵……」
痺れを切らして扉を開けたのだろう。伯爵は開いた扉の向こう、あまつさえバルコニーの柵の向こう側に足を下ろした私を見てどう思ったのだろうか。一瞬、立ち尽くしたように見えた。それから次いで、薄い唇が開く。焦ったように目も見開かれていた。
「ジゼル……!」
名前を呼ばれ、私は目を見開いた。知ってたんだ、とか、覚えてたんだ、という驚きが胸に広がる。彼が声と同じく慌てた様子で駆け込んで来るのを、私は目を丸くしたまま見つめていた。競走馬のような伯爵の長い脚は広い部屋を突っ切ってバルコニーへ辿り着き、手摺りについている私の腕を掴む。
「何をしてるんだ!」
伯爵がこんな風に焦ることも、大声を出すことも、予想もしていなかった。驚いているうちに片腕をひょいと伸ばし、彼は私の腰に触れる。そのまま抱え込まれ、私は手摺りを越えてバルコニーへ戻った。数歩下がる伯爵に引っ張られて部屋の方へ戻り、けれど辿り着く前にそのままその場に腰を下ろした。
バルコニーの固い床に腰が抜けたように座り込む伯爵が掴んだ腕と抱えた腰を放さないから、私も彼の上に倒れ込むようにして膝を着いた。彼の膝の間に私の両膝が入り、そのままぎゅうと体の骨が折れそうなほど強く抱き締められた。彼のシャツに顔を押し付け、私は息が出来なくなる。
「……はくしゃ……ウィリアム様……?」
彼が私の名前を呼んだから、私も名前で呼びかけた。私に回る腕が少し震えた気がする。
「はぁ……」
震えた声が上から降ってきて私は視線を上げようとした。けれど彼の力が強くて上げられない。その腕も震えていることに気が付いて私は内心で首を傾げた。
「教えてくれ、何をしてた……」
声も震えている。あの、と私は口を開く。逃げようとしてなんて言ったらどう思われるか判らない。咄嗟に嘘を吐くことにした。
「う、運動、を……?」
「あなたは夜な夜なバルコニーの向こう側で運動をするのか?」
「わ、我が家に代々伝わる運動で……」
「あなたの実家にバルコニーはなかったと記憶しているが」
言い当てられて私は言葉に詰まった。確かに私の生家にバルコニーはない。でも。
「どうして知って……?」
今度は伯爵が言葉に詰まった。はぁ、とまた息を吐いてから彼は息を吸う。腕の力が緩まないから彼の胸に顔を押し付けている私のくっつけた耳には、彼の速い鼓動も聞こえている。
「ヴリュメールと同じく悪評がある家が気になって見に行ったことがある」
「え、知りませんでした」
「様子を窺いに行っただけだ。あなたのご両親にも報せなかった」
お忍びで来るような場所でもないのだけど、大したおもてなしも出来ないから来られても困っただろう。
「いずれにせよ其処は俺でも届かない高さだ。もし手を滑らせたらどうする。運良く地面に落ちればまだ良い方だ。途中で下の手摺りに体を打ち付けるかもしれないのに。あなたに何かあったら……」
「……」
伯爵がまるで私の身を案じるかのようなことを言うから驚いて私は何も言えなくなってしまった。伯爵も言葉を連ねた自分に気付いたかのように突然黙ってしまう。いや、と絞り出すような声がすぐ近くで聞こえた。
「何でもない。兎に角、危険なことに変わりはない。もうするな」
「……はい、ご、ごめんなさい……」
大人しく謝れば伯爵は小さく息を吐いた。彼の体に入っていた力が抜けるのを感じる。怒りを落ち着けるように間を空けて、伯爵は口を開いた。
「どうして自分が選ばれたのか、知りたがっていたな」
問われて私は頷いた。ビルから聞いたのだろう。でも伯爵はその後言い淀むように言葉を切り、言いづらそうに声を出した。




