第59話 訪問の申し出
「それじゃオレ、街の方に買い出しに行って来るわ」
階段を登って外へ出るとマックスはそう言った。ひらひらと片手を振って、ふらりと街の方へ歩き出す。止めるものでもないから私はその背を見送った。
ビルと一緒に取り残された私はさっきのこともあって少し気まずい。お庭の様子でも見るから此処で、と言おうとして振り返ったら、ビルがじっとこちらを向いていることに気が付いて目を丸くした。
「……さっきの」
ビルが口を開く。さっきの、とはいつのことを指しているのか判らず私は返事をし損ねた。
「伯爵が、今夜、あなたに会いたいと言っていた。向き合う勇気を少し出したのだと思う。その、会ってもらえるだろうか」
シーツを干していた時の、私も思い起こしていた時のことを指していると気付く。伯爵に伝えておくとビルが言ったことを思い出し、私は目を更に丸くした。もう伝えたのか、という驚きと、予想外の申し出に口を開くけれど言葉も声も出て来ない。ぱくぱくと口を開け閉めする私をビルはどう思うだろう。
「今回のことだけじゃない。どうして伯爵があなたを選んだのか、知りたがっていることも前に伝えた。伯爵も、覚悟を決めたのだと思う」
いつになく真に迫った様子のビルに押され、私は分かったと頷いていた。私の覚悟は全然決まっていない。伯爵のことを想像しただけで会うなんて、考えてもいなかった。会いたいと言って来ることも予想していなかった。
でももし、ビルがそんなに真剣に尋ねるのが伯爵のためなら、伯爵とビルの間で何かがあったなら、私の準備が出来ていないからと断って良いとは思えなかったのだ。伯爵の出した勇気も無碍にしてしまうことになる気がした。
良かった、とビルがほっとしたように肩の力を抜くのを見て、ビルも緊張したのだろうかと思う。私が承諾するか判らなかったのかもしれない。もしくは、伯爵の勇気が無駄にならなくて良かったと、ビルも思ったのかもしれない。
「それじゃ今夜。伯爵に伝えておく」
ビルはそう言うと自分の仕事のために私をその場に残して行ってしまった。私はビルの背中を見送り、混乱した頭で今起きたことを整理する。
何度考えても今夜伯爵と会うことの了承をした事実は変わらず、時間までに覚悟を決めなければならないことを示していた。
「て、テレーズ……!」
私は頼りのテレーズを探して泣き付いた。わぁ、とテレーズは嬉しそうに笑うとすぐにお風呂にしましょうと私を浴室へ連れて行く。そのまま頭の天辺から足の爪先まで綺麗に洗ってくれた。ポプリ作りには多いからと余った花をいくつか湯船に浮かべてリラックスする香りに包まれるものの、私は混乱したままだ。されるがまま、全身を清められる。
「ど、どうしてお風呂に入れたの……?」
髪の毛の水分をタオルで取ってくれるテレーズに、やっと我に返った私は尋ねる。温かいお湯は体を解してくれたけれど混乱を取り除いてはくれなかった。夕食前の私が着るドレスを選びながら、テレーズはきょとんとして私を向く。
「え? 旦那様がジゼル奥様にお逢いになりたいって言ったんですよね? それってつまり、そういうことだとテレーズは思います! ドレスアップしましょうね、ジゼル奥様!」
そういうこと? そういうことってなに? まさか、まさか初夜? 初夜とやらが来るの? 急に? ど、どうしよう、どうしたら良いんだろう。結局二ヶ月と少し此処にいても妻としての役割と求められなかったし偽装結婚だと聞いていたから、そんなこと起こるはずがないとたかを括っていた。話すだけじゃなかったらどうしたら良いんだろう。
「あ、あの、でもテレーズ、私、どうしたら……」
泣きそうになりながら尋ねたら、お任せ下さい! とテレーズの力強い返答があった。けれどそれは、私を着飾るための自信に漲っているようだ。
「もしかしたら夕食からご一緒されるかもしれませんから! テレーズに任せて下さい!」
「あ、え、そういうことじゃ……」
テレーズには聞き入れてもらえず、私はテレーズの手で舞踏会にでも出るのかという勢いでおめかしされた。夕食には当然伯爵はおらず、場違いで居た堪れなくなる。張り切って準備した人みたいに見えないだろうか。恥ずかしい。
一応は皆、気を遣ってお綺麗ですねと褒めてくれたけれど。テレーズが張り切ってくれたの、と私もテレーズに責任をちょっと持ってもらったけれど。ビルが何も言わず無言でこちらを向いていたのが心苦しかった。どうしよう、張り切ってましたよと報告されたら。違うのに。これじゃ伯爵と会うのに浮かれているみたいに見えるんじゃないだろうか。違うの。
「旦那様、夕食にはいらっしゃいませんでしたね……テレーズ、残念です」
しょんぼりとしてテレーズは私のドレスを脱がし、ナイトドレスに替えてくれる。元々そういうのじゃないのよ、と言いたかったけれどテレーズのあまりのしょんぼり具合に私は何も言えず、残念ねと同調することしか出来なかった。
「でもこれなら! ジゼル奥様の可憐さを引き立てるドレスですから!
奥様、旦那様のこと、よろしくお願いしますね」
「え、ちょっとテレーズ……」
テレーズはドレスの良さを力説し、私に伯爵を勝手に託し、灯りを絞ると退室してしまった。残された私はひとりどうしたら良いか判らずに部屋の中をうろうろする。こんな薄暗い部屋でこんな格好で出迎えたら、はしたなくないだろうか。破廉恥な人だと思われないだろうか。話をするだけのつもりでいるかもしれないのに、ナイトドレスでいるなんて。
でも私がひとりで着られるようなドレスはない。テレーズの手が必要だ。ビルの忠告を思い出し、せめてガウンを羽織ってみたけれど暑い。焦っているせいかもしれない。
「うぅ……」
私はバルコニーの窓を開けた。夜風が首筋や素足をくすぐっていって涼しい。空には綺麗な満月がぷかりと浮かんでいて、バルコニーを照らしていた。
こんこん、と扉がノックされたのはその時だった。




