第58話 人を好きになる土壌
「……これは、他言無用だ。先代の奥方の話はマックスも知らない」
マックスでさえ。私は驚いて目を丸くしたけれど、ビルは私の返事を待っている様子だった。理由を訊いてみたかったけれど、ビルは答えないだろうと思う。だから私は受け入れた。
「分かったわ。誰にも言わない」
他の誰にも秘密にする。私に話してくれた理由もビルは説明が出来ないと言っていたから、約束を守ることを私は伝えた。
私は抱えたシーツの洗濯を頼むため、ビルと別れてイヴォンヌのところへ戻った。その後、顔を洗って目を冷やす。冷たい水で目元を冷やして泣いていた痕跡を消そうとしたけれど、上手くいったか判らなかった。
子どもたちのところへ向かったけれど、子どもたちからの指摘はなかった。マックスは何となく気付いているような気がする。何も言わないから気付いているかどうかも本当には判らないのだけど。ビルも私が来たのをちらりと確認したくらいで話しかけて来ることはない。
今日はトマがポプリ作りに必要な、乾燥済みの花を持って来てくれていた。全員でポプリ作りだ。先生はテレーズ。私は上手く作業が進まない子の助言をするために先生役は辞退していた。
今日もべったりのオーブは私と一緒にポプリ作りをしてくれた。今まで部屋の隅で様子を窺っているだけだったのに、ポプリを持ってきたあの日から私にべったりで離れない。私はオーブが安心するよう努めた。安心すれば自然と離れる。その時は私の方が寂しくなっているとマックスに言われたけれど、今のところはまだ全然離れる気配がなかった。まだまだ安心していない、ということなのだろうと思う。
「また来るわ、オーブ。明日、また」
皆が思い思いのポプリを作って後片付けも済ませた後、私はオーブに言い聞かせていた。帰る時に毎日恒例になっている、オーブが私に抱き付いて離れない時間。私はゆっくりとオーブの頭を撫でて優しい声を出すことを意識していた。
初めのうちは私たちのやりとりを見て真似したがった子もいたけれど、日が経ち一週間もすれば満足したのか数は減った。オーブだけがずっとこうだ。根気強く関われとマックスには言われているから、私は決めた時間が来るまでオーブの好きにさせる。
「さぁ、オーブ。時間だから私、帰らなくちゃ。また明日来るわ」
いつもはそう言っても離れないオーブが、今日は寂しそうな表情は浮かべたままにそれでも物分かり良く離れた。少し意外に感じたし予想外のことに驚いたけれど、私は微笑んでまた明日ね、と部屋を後にした。
「動き出したな。まだ何度かべったりも繰り返すだろうけどな、嬢ちゃんが約束通りに来てくれるからあいつも約束を信じられるようになってきたってことだ。そうすると次に来るのは、自分も約束を守ろうって気持ちだ。日々成長してるんだな、あいつも。
もうべったりしてこなくなっても寂しくなるなよ、嬢ちゃん」
マックスやビルと部屋を出て少し進んだところで、マックスが私に話しかけた。私は自分の両手を見る。先ほどまでオーブの頭を撫でていた両手だ。まだその感触が残っている。
「……自信ないわ。これが寂しいってことなの?」
オーブが素直に離れたことを意外に思った。驚きに覆われてしまったけれど、その中には寂しさも紛れているのかもしれないと気付いて私はマックスを見上げる。マックスは優しい目を私に向けた。
「あいつ、可愛いもんな。嬢ちゃんには元から懐いてる方だったし今じゃべったりだ。
でもな嬢ちゃん、あいつにはあいつの人生がある。可愛いから、ずっと可愛がりたいからで手元には置いておけねぇ。解るな?」
自分の気持ちだけでそうは出来ないことは解るから、私は頷いた。まぁ、とマックスは視線を進行方向に戻して言葉を続ける。
「オーブの方も嬢ちゃんを気に入ったまま、っつう可能性はあるわけだが。これから成長して立派な青年になっても嬢ちゃんを好きなままってことも有り得る」
「え?」
きょとんとする私に、母親を重ねてるから有り得ないって思うか、とマックスは視線をまた私に寄越し、口角を上げて問うた。私は意味がよく判らなくて首を傾げる。
「母親を重ねてても嬢ちゃんとオーブなら精々が姉弟って歳の差だろ。憧れのお姉さんってのは男の心の中に残り続けるもんなんだよ、嬢ちゃん。オレが親しみやすいマックス先生で、おしゃまな少女の初恋を奪ってるのと同じでな」
「え? え?」
意味が理解できなくて困惑する私に、マックスはにっかと笑った。説明する気はなさそうだ。その目が一瞬だけ私から離れて後ろを歩くビルに向けられたような気がしたけれど、また怒られない境界線を探っているのだろうと思う。
「成就するしないは関係ない。大事なのは、誰かを好きになることができる自分に気づくことだ。そういう意味でチビどもに憧れを向けられて初恋を奪っていくのは悪いことじゃねぇからな。
此処で誰かを好きになれるなら、外に出たって誰かを好きになれる。別に此処で好きになれる人がいなくたって外は広い。いずれ出会うだろうさ。大切なのは誰かを好きになる土壌を育てておくってことだからな。固い土に種を植えようと思っても難しいの、嬢ちゃんなら解るだろ?」
「ま、まずは土を掘り返してふかふかにしておく、ってこと?」
そーいうこと、とマックスは笑って答えた。この答えが合っているのか、合っていたとして何を指しているのか私にはよく解らなかったけれど、大切なことだとマックスが言うならそうなのだろうと思った。マックスもまた、私の先生だ。
「もう植える種は決まってんだ。耕すのにどれだけの時間がかかっても良い。芽吹きさえすりゃ育てるだけだ。その育つ花の名前も決まってんだからな」
でもまぁ、とマックスは悪巧みを考えている時の顔で笑った。ニヤリと笑った目はまた、ビルに一瞬向いた。
「どれが芽吹くかは種次第だからな。どの芽が先に出るかは早い者勝ちだ」
種の? と私は益々首を傾げたけれど、マックスは楽しそうに笑うだけだった。




