第54話 伯爵の功績
「それは、伯爵にしか判らない。俺が何か言えることじゃない」
一息吐いてビルが言葉を続ける。そうね、と私は苦笑した。でも、とビルは言う。伯爵は臆病な人だと。あの夜に見た姿しか知らないから私こそ何も言えないけれど、意外な気がした。冷たくて、美しくて、何者も寄せ付けない雰囲気は臆病とは無縁に感じたのだ。
「留守が多いのは子どもたちと向き合う勇気がないからだ。先代のように子どもたちのためになっているか判らないからだ。先代はがむしゃらだった。罪悪感に突き動かされるようにして、それでも一生懸命だった。子どもたちのためになると信じて行動した。今の伯爵にはそれがない。先代の行動をなぞるだけで、志はない」
私は返す言葉を持たず、ただビルをじっと見つめた。ビルが何を思ってそんなことを言うのか私には判らない。
「あなたとも向き合えないだけだ。逃げて、不在にしている。先代の功績で素晴らしいものに見えているだけだ。皆、誤解している。持ち上げるほどの人物じゃない」
自分の主人に対してそんなことを言って大丈夫なのかと思ったけれど、それがビルの本音なのかもしれない。伯爵に救けられたと思っている人には言えないことだろう。私に言うのは、伯爵の意図はそうではないという返答なのかもしれない。
思えば伯爵がいる夜は誰もが静かだった。早朝に出かけた後から使用人の皆が打って変わって明るくなったのは、ビルと同じように思っているからだろうか。
ちょっと複雑な思いはしたけれど、そうなの、と私は尋ねる。そうだ、とビルは答えた。嫌悪さえ滲んでいるような声に複雑さは増したけれど、肯定も否定もするには私は伯爵のことを何も知らない。伯爵と関わる勇気がないのは、私も同じだ。
「こんなことを言ったらあなたは私のことも伯爵と同じように思うかもしれないけど、私も、あの人と向き合う勇気はないわ。誰かと向き合うなんて怖いもの。皆が優しくしてくれるから少しずつ関われるようにはなったけど、自分の考えていることを言う時はドキドキするし、緊張するし、怖い。私と伯爵、どっちも臆病なのね。向き合う勇気を持つのはどっちが先かしら」
自嘲的に私は返す。向き合う勇気は途方もなく大きくて、私にはとても持てそうにない。けれど。
「……あなただろう。あなたは、強い人だ。たった二ヶ月で変わったなら」
そんなに時間はかからない、とビルは言う。それは子どもたちの経過を皆で共有する時の感覚に何だか近い気がしたけれど、構わなかった。ビルが私のことを見ていてくれた証拠なのだと思うから。子どもたちに与える影響面で私のことを注視するのは当然だろうけど、私の普段の動向から“出来ること”を、肯定的な部分を口にしてくれたことが嬉しかったから。
「偽装結婚した相手でも気になる?」
「そりゃ、気になるわ。どうして私の両親を助けてくれたのかとか、訊いてみたいことはあるもの。マックスがね、心配事は直接訊いてみるのも手だって言ってたから──」
ビルの目元はよく見えない。見えないのに、物凄く視線を感じた気がして私は口を閉じた。なに、と訊いてみたいのに緊張が強くなって声が出ない。あの、と私は思わずビルから目を逸らして言葉を続けた。
「やってみたの。ビルとこんなにお話できると思ってなかった。その、嬉しかった、から。伯爵とも話せるようになるかも、とか」
思って、と言葉が尻すぼみになっていく。伯爵と話してどうするつもりなのか自分でも分からない。でも両親のことへのお礼は言いたい。こういうのはきっと、直接言った方が良いものだとも思う。でも偽装結婚相手なのに。立場を弁えず厚かましかっただろうかと段々と不安になった。
「……俺と……?」
ビルが呟き、私はまたビルへ視線を戻す。私からビルの目は見えないけれど、ビルは私と目が合ったと思ったのかもしれない。ぐっと顔を向こうへ向けてしまった。
ビルのすっと伸びた首やくるくるの髪の毛から覗く耳が赤くなっているように見えた。血の気が戻ったのだろうか。木陰で風が吹けば涼しいとはいえ気温は高いし、私が風避けになっていてビルは別に涼しくないのかもしれない。血の気が戻る前に暑くなっていないだろうかと心配になって、あの、大丈夫……? と問い掛ければ、大丈夫だと返された。
そのまま私の膝から転がり落ちて起き上がるから、私は座ったまま視線を上げる。
「顔を洗って来る。あなたは子どもたちのところへ戻ってあげて欲しい。テレーズひとりできっと手一杯だ。トマのところには俺が寄って行く。別にトマに訊けばポプリと喧嘩しない香りくらい判るはずだし心配要らない」
マックスに言われたことを気にかけているのだろうか。私はきょとんとして、それから小さく笑ってしまった。むす、とビルは唇をいつものように真一文字に引き結んでしまったけれど、空気は変わらない。
「……オーブも目が覚めたらまたあなたを探すだろう。いてあげて欲しい」
私が頷くのを見届けてからビルは踵を返した。風が吹いてビルの髪を揺らす。そういえば彼はどうして目元を隠すように髪の毛を伸ばすのだろう。私とは違う理由だろうけれど。
ビルの背中を少しだけ見送って、私はまた地下へ戻って行った。




