第51話 偽り、されど心からの
「オーブ!」
オーブが全速力で駆けながらこちらへ向かってくる。その後ろをビルが追っているのが見えた。いつか見たような光景に私が目を瞬いているうちに、オーブが私の懐に飛び込んで来る。固く握り締めた拳から、見覚えのある布袋が覗いていた。
オーブの両目から、またぽろぽろと涙が零れている。私は幼い体を受け止めながら一体どうしたことかと驚いた。
「おーおー、こりゃどういうことだ、ビル。お前また脱走を許したのか?」
「オーブが速すぎる」
やや遅れて到着したビルをマックスが呆れたように詰り、ビルは反論した。ビルがどれだけ速く走れるのか知らないけれど、先日見た身体能力の高さや競走馬のような印象を受ける体付きから私が思うよりずっと動ける人な気がする。そのビルよりも速いとなると、脚を引き摺らずに歩けるようになればオーブはどれほど速く走れるのだろう。
私は二人を見てからオーブに視線を移す。私をぎゅうと抱き締めるオーブの腕は私の腰に巻き付いていた。くしゃり、とドレスと一緒に巻き込まれた掌の中ではポプリが握られているのだろう。
マックスは私に母親の姿を見たと言っていた。オーブももし、そうなら。
ポプリの香りが母親を連想させるものだったなら。離れたくなかったと、オーブが思っていたなら。私に母親の姿を、重ねているなら。
その蓋を開けたのは私だ。
「オーブ」
私は再びオーブの髪の毛をそっと撫でた。びくり、と細い体が震えて私に抱き付く力が強まる。どんな想いでそうしているのだろう。訊いてもオーブは言葉で答えない。けれど目から零れる雫は、想いの欠片だ。
「大丈夫。何処にも行かないわ。ちょっとお花をトマから貰って来ようって思って出ただけよ。すぐに戻るわ」
マックスに言われたことを意識して、私は笑って話しかける。そうすると何だか優しくて明るい声が出た気がした。オーブは体を震わせ、ぐす、と鼻を鳴らした。う、と小さな声が聞こえて私はオーブの頭を撫でながら再度、屈み込んでその背をさする。何処にも行かないわ、ともう一度言えば、うぅと嗚咽が漏れ聞こえた。
「う、うぅ……ひっく……」
喉が引き攣れるような泣き声だった。大丈夫、と私は繰り返す。相変わらず骨と皮だけのようなのに物凄い力で、何処にそんな力があるのだろうと思うほどだ。それだけオーブの母を求める気持ちが強いのかと思って胸が痛んだ。
「まるで聖母サマってやつだな、こりゃ」
マックスが目を眇めて息と共に言葉を零す。それから、ハァ⁉︎ と大声を出すから私は飛び上がった。
「おいおい傷口開いてんじゃねぇか! 全速力で走りやがって! すぐに塞ぐぞ!」
マックスが見ている先を、私も身を捩って視界に入れた。オーブの脚から血がどくどくと流れ出て服の裾まで濡らしている。思ったよりも流れ出ている赤が多くて驚いた。
離れたがらないオーブをマックスが無理矢理に私から剥がす。怪力のマックスには造作もないことなのだろう。でも私から離れる時のオーブが浮かべた表情を見て、私は思わずマックスを止めた。
「悠長なこと言ってる時間は──」
「オーブ」
私は内心で謝りながらマックスを無視し、少し屈んでオーブの顔を両手で包む。覗き込んで目を合わせれば、ひっく、とオーブはしゃくりあげながら私を真っ直ぐに見た。
私の左右で色の違う目を、此処では誰も気味悪がらない。だから私は此処では前髪を上げるようになった。毎日テレーズに結ってもらって、少しずつ、少しずつ慣らしたのだ。殊更に誰かが何かを言うことはない──テレーズは毎日褒めてくれた──けれど、それこそが私の求めていたものだったと今なら解る。私だって皆の両目とも同じ色に何かを言うことはない。私も何も言われない体験が出来て、少しずつ気にならなくなっている。
まだじっと見られたりこんなに真っ直ぐ見られたりすると緊張はするけれど、逸らさないようにしようと思える。もう隠さなくても良いんじゃないかと私自身が思い始めたから。
頬の傷は、とっくに塞がっていた。
「オーブ、あなたの脚、治療しなくちゃ。マックスはお医者様よ。お医者様の言うことはちゃんと聞いて。治療を受けたらまた会えるわ。大丈夫。約束するから」
ね、と私は笑いかけた。まだ上手には笑えなくて、安心させるような笑顔がどんなものか判らないでいる。でも相手から貰えるのを待っているだけではきっと変わらない。オーブの方が今は、求めているのだろうから。
オーブは話さないけれど言葉は理解している。私を信じて欲しい。そう願いながら微笑みかければ、オーブがこくりと頷いて抵抗を止めた。よしよし、と今度はマックスがオーブを褒め、抱き上げた。
「嬢ちゃん、悪いけど其処の役立たず頼むわ。木陰で休ませときゃそのうち回復する。
あぁ、そうそう、休ませる時は膝を貸してやってくれ。地面は固いからな」
マックスに視線だけで示された方を見て私はまた仰天した。ビルが青褪めて蹲っている。そういえば血が苦手だと聞いた気がすることを思い出した。オーブの脚から流れる血を見てこうなってしまったのかもしれない。
「膝は、別に良い……」
「嬢ちゃんも言ってたろ、医者の言うことは聞いとけ。じゃ、嬢ちゃん頼んだぜ!」
言うや否やマックスはオーブを抱き上げたまま地下へ戻って行く。またあの場所で縫合するのだろう。おとなしくしているオーブがマックスを信頼してくれることを私は願った。マックスに任せておけば大事はないだろうけれど。
高い陽射しの下で取り残された私は、けれどビルをこのままにしておくわけにもいかずに勇気を振り絞って近付いた。




