第47話 亀裂、あるいは傾き
「そうだ、ポプリ……」
私はハッとして口に出す。トマがまた良いお花があるって言ってましたよ、とテレーズが私の言葉に反応して教えてくれた。彼女が喜んでくれるなら新しい物はまた作ってみようかなと思ったけれど、今口にしたのはまだ余っているポプリのことだ。
あの日、オーブに出会ったあの日、私はポプリをいくつか持って歩いていた。結局オーブが飛びかかってきて全部放り投げ、マックスに地下施設へ連れて来られてすっかり忘れていたけれど。トマが拾ってテレーズに届けてくれていたのだ。だからまだ、私の部屋にポプリは置いてある。
私はテレーズに先日二人で作って余ったポプリを子どもたちに持って行ってみようと提案した。
「好き嫌いはあるかもしれないけど、気に入ってくれたらオーブも眠れるかもしれないと思って」
「わぁ、素敵ですね! テレーズもぐっすりですからオーブだって眠れますよ! ぜひやってみましょう! テレーズが持って来ますね! ジゼル奥様は入口で待っていて下さい!」
言うや否やテレーズは屋敷の中へ走って行く。元気一杯な様子に私は呆気に取られてしまった。あのバネのような瞬発力と行動力は本当に凄いと思う。
テレーズの足音も聞こえなくなってから、あ、と私は気が付いた。またひとりで思い付いて言ってしまったけれど、こういうのはビルを通してからの方が良いとマックスに教わっている。呆れられる前に先にビルに相談した方が良いだろう。
ビルは家令の仕事の方も忙しいのか、地下施設には来ない日もあった。その分もしかすると夜に子どもたちの近くにいるのかもしれないけれど。最近はオーブの処置後しばらく地下にいる時間を意識的に延ばしているようでもあった。今日ももういるかもしれない。
私はテレーズとも待ち合わせている場所になった地下施設への階段に向かって進んだ。丁度、階段を降りて行こうとするビルと鉢合わせて思わず呼び止める。
「あ、えっと……」
こんにちは、くらい言えれば良いのだけれど、どうにもビルを前にすると萎縮してしまう。子どもたちの前ならそうでもない時もあるのだけど、外で会うと臆病な私が出て来てしまうのだ。特にビルは不可抗力とはいえ伯爵の言い付けを破っている私を快くは思っていないだろうし、ビルも伯爵から命じられたことを遂行出来ていないことになる。もう子どもたちと関わっているから無理矢理に引き剥がしたり、もう此処へ来るなとは言わないだろうとは思うけれど。
もじもじする私に、ビルは少し首を傾げた。
「今日もオーブへ会いに?」
面倒そうな雰囲気を感じて私は肩を縮める。でもそれはビルのせいではなくて、私のこの過度な緊張のせいだろうことは解っていた。先ほどの使用人の少女と同じだ。不安そうで、怖がっているように見えるだろう。事実、不安だし怖い。私を怖がる理由は解ったけれど、でも、私がビルを怖がる理由はないし、誰のことも怖がる理由はない。皆、優しくしてくれる。ビルだってぶっきらぼうだけれど優しい人だと私はもう、知っているから。
「そう。あの、相談が……オーブがもし眠れたらと思って、ポプリを……」
ポプリ、とビルは繰り返す。前に作ったの、と私は俯き加減で説明した。もしかして、とビルが薄い唇を開く。
「庭の区画で育てている植物で?」
思った以上に関心があるような声だったから私は面食らった。少し遅れて、違うわ、と否定すればビルもハッとした様子で口を噤む。前のめり気味だったことに自分でも気付いたのだろう。私は引き攣る頬を何とか上げてビルに笑んでみせた。
「心配しなくても、毒草なんて育てないって言ったでしょう。誰かを害するつもりは、な、ない、から」
「……」
ビルはまた真一文字に唇を結んでしまった。私がぷるぷると引き攣る頬をいつまで上げていれば良いのか判らなくなった頃、ビルはわずかに私から視線を逸らした、ように見えた。何せ目元が見えない。顔の向きが変わったからそう感じただけだ。
「そういう意図はない……悪かった」
もごもごと、早口にそう言ってビルは階段を降りて行く。その姿が階下に消えて行くのと入れ違うようにして、テレーズがまた駆けて来る。腕一杯にポプリの入った籠を持っていて、私の顔を見ると不思議そうに首を傾げた。
「ジゼル奥様? どうかしました?」
「……ううん、何でもないの。でも、伯爵はどうして私に庭をひと区画、使っても良いって赦してくれたのかと今更ながらに思って」
旦那様がですか、とテレーズはきょとんとし、ジゼル奥様に園芸のご趣味があるからじゃないですか、とにっこり笑った。裏表のない笑顔は私を安心させてくれる。
「テレーズはあまり旦那様から奥様になる方のことを聞きませんでしたけど、園芸がご趣味だというのは聞いてました。先に送って下さった荷物の中身もそうでしたね。後は自分で知るように、と言ってました! テレーズ、誰かと仲良くなるのが上手だからって」
そうね、と私は微笑んだ。この二ヶ月と少し、テレーズの振る舞いを見て私は人との付き合い方を学んだのだ。勿論テレーズのように天真爛漫には振る舞えないから、彼女のように好かれることはない。偽装結婚とはいえ立場上は妻である私を皆が邪険には出来ないことも解っていた。それでも、此処の皆は“私”を見てくれると思う。
「庭仕事もお手伝いするようにって言われてました。ジゼル奥様は手際が良いのでテレーズが手伝えることはありませんけど……」
「そんなことないわ。私のことを気にかけてくれるのは嬉しいし。いつも傍にいてくれるの、安心する」
「テレーズお役に立ててますか! やったー!」
ころころと表情が変わるテレーズに私は驚き、それから笑った。胸に芽吹いた不安の種からそっと目を逸らす。
もし、と思ったのだ。伯爵が偽装結婚とはいえソルシエールに申し込む理由が解らなかった。傾いた我が家に手を貸す理由が解らなかった。ずっと判らなかったのだ。私で良い理由が。それがもし、もしも。
ソルシエールの娘であることが、気を引いたのだとしたら。
魔女の万能薬を、期待したのだとしたら。
その基となる薬草を育てさせるために、ひと区画を解放したのだとしたら。
そんな思いが鎌首をもたげ、食らい付いて離さなくなってしまった気がした。




