第44話 オーブの選択
オーブは私の声が聞こえたようだった。けれどどうすべきか判らず、後ろを振り返り、私を見、左右をきょろきょろと向く。何処に向かえば良いのか判らない様子だった。
「オーブ」
私はもう一度彼を呼んだ。オーブは私を見た。これを名前と認識してくれているのだろうか。それともこの静まり返った部屋で音を発するのが私だけだから視線を向けているに過ぎないのだろうか。
私もどうすれば良いか判らない。でも助けを求めるにはオーブから視線を外さなくてはならなくて、それはやめた方が良いと何となく思っていた。必死に考えて、けれど私が出来たのはまた一歩、彼に近付くことだけだった。
後ろからビルとマックス、トマが迫ってくる足音が聞こえていて逃げ道はない。オーブの選択肢はほとんどなかった。その彼が選んだのは。
「……っ!」
私の後ろに隠れることだった。
「おーおー、其処に逃げ込んだか。そりゃ手ぇ出せねぇなぁ」
マックスが楽しそうに笑って大部屋へ入って来る。オーブはマックスを睨むように見たけれど、隠れているせいであまり怖くはない。
「マックスせんせー! 遊んで!」
「おー、良いぞ」
他の子に声をかけられ、マックスはこちらに関わるのは止めた様子で手を引かれて歩いて行く。オーブは信じられないものでも見るような目でその様子を見ていた。自分に処置を施したマックスを害なすものと捉えていたのかもしれない。けれど慕われる姿を見て、混乱しているのだろう。私は何となく解ったような気がした。
此処にいることで見えるものが増えるのだ。それは勿論、自分と同じような子どもたちがどう過ごしているかもあるけれど、自分が見ていたものとは違う姿が見えることでもある。自分は好きじゃなくても、他の人は好きかもしれないことを、知ること。
私はきっと今、ひとりの人の世界が広がる瞬間を目撃したのだと思う。
ビルもトマも大部屋に入って来たけれど、他の子に声をかけられてこちらには目もくれない。私たちは同じ部屋にいるのにてんでバラバラな方を向いて、思い思いに過ごしている。誰も入って来たオーブを気にかけない。皆が必死にそうしてくれている無関心さは、オーブにはどう感じられるだろう。
「オーブ、此処はね、あなたと同じような子たちが過ごす場所なの」
私はオーブに話しかける。オーブは私を見上げた。いつも鋭く見てきた目に敵意はない。予想外のことに困惑しているようにしか見えなかった。
「あなたのベッドは此処」
私が歩き出してもオーブは動かなかった。けれど視線は感じた。突き刺さりそうなほど私を追っている。それから逃げ出したい衝動は私が見られることに慣れていないからだ。次に来る、魔女、という言葉に警戒しているから。でもオーブは私が魔女かどうかを断ずることはない。私にも解っている。オーブの関心は今、其処にはないことくらい。
だからこれは、私の記憶だ。私の経験が身構えさせているに過ぎない。オーブには関係がない。これを私は押し込めて、オーブの前に立っていなくてはならないのだ。
オーブの寝台は他の子たちが眠る場所からは少し離れたところに置かれていた。いきなり顔を合わせたばかりの人たちがいる中で眠るには勇気がいることだ。子どもたちの方だって同じだろう。加えてオーブの攻撃性が向いても大変だから、誰かがいる空間でも多少は落ち着けるようにと距離を取った。これは私も賛成した内容だ。
「今日から此処で寝るのよ。最初は眠れないかもしれないけど、きっと大丈夫。誰もあなたを傷付けたりしないもの」
振り返って見たオーブの表情に、私は複雑な想いを抱いた。これは何だろう。この感情の名前は。
オーブは確かに私の言葉の意味が解っているのだろうと思う。長い睫毛の奥にある瞳がじっと寝台を見つめていた。それからゆっくりと私を見上げる。その目に浮かんだそれは、何という名前の感情だろう。
恨みがましいような、それでいて寂しそうな、そんな。
もしもその印象が間違えていないのであれば、私の言葉を理解したからに外ならない。ひとりでいた時よりも安心や安全な感覚というものは一時的に薄れるだろう。私も家を出て此処へ来ることを思うと不安で仕方がなかった。でも、大丈夫だ。此処の子どもたちは皆、明るくて優しい。明るくて優しい人たちと関わりながら日々を過ごしているのだから当然だ。
きっと、この子も。いつか笑う日が来ると私は信じている。
その未来のために私もオーブの大部屋への移動に賛成したのだ。ビルが言ってくれたように私もその責任を一緒に負う。この選択が、正しいと信じて。
「私も毎日此処に来るの。今度はこの部屋であなたに会えるのを楽しみにしているわね」
オーブは私から目を逸らした。それでも良い、と私は思う。最初から上手くいくなんて思っていない。オーブの速度と私の速度はまた、違うから。
なるべく部屋の隅、壁際に警戒しながらも所在なげに立つオーブの近くで私も立って、大部屋で自由に過ごす子どもたちの姿を一緒になって眺めた。距離はあるし何かを話すわけでもないけれど、同じ空間に同じことをしている人がいるその状況を彼が受け入れてくれているのが嬉しい。
トマが話してくれた、変わらない関心を向けること。それがオーブに此処を安心で安全な場所だと解ってもらうために必要なことだと聞いたから、私は彼に関心を向けていたいと思う。けれど関心は何も話すことばかりではないから。
日を変えて、方法を変えて、私がオーブに関心を向けていることが伝わりますようにとただ、願った。




