第40話 思惑
彼からの反応はない。耳は聞こえているはずなのだけれど。
言ったものの次にどうして良いか判らない私が内心で慌てていると、ビルが助け舟を出してくれた。
「気に入らないなら呼ばれても反応しなければ良い。自分で呼ばれたい名があるなら言えば良い。此処はそれが出来る場所だ。全ての希望が叶う場所ではない。だが、前にいたところよりは過ごしやすい場所のはずだ」
自由を。彼にも、選べることを話してビルはまた私に話を戻す。呼んでやると良い、と私に促して。
「……っ、オーブ」
私は彼に呼びかける。おずおずとしたものだけれど精一杯に伝わって欲しいとは思っていた。その鋭い目を向ける彼が心穏やかに過ごせるように、希望の光が見えますようにと、願って。
「その、沢山食べてね」
反応はない。ビルが扉を開ける音がしたから私も退散することにした。心が折れそうだ。でもそれは扉を閉めるまで我慢した。
「……何か気に触るようなことを……?」
項垂れて振る舞いを振り返る私に、ビルは事もなげに言う。
「いや、上々だ。マックスを見た時はフォークで刺そうとした」
「え」
あなたにはそうじゃないだろう、とビルが言うから私は目を瞬いた。それは、そうだったけど。もごもごと口の中で肯定と、でもそういうことでもないような気がする疑問とを答える私をビルは見下ろした。
「躊躇いなく他人を傷付ける手段を取る子どもだ。だがあなたのことは傷付けようとしない。それだけでも充分だろう。今の様子を見て解った。……怯えているだけだ」
「怯えて……?」
聞こえた単語を繰り返して、私はその意味を自分の中に迎え入れる。怯えている。怖がっている。その感覚は私にもきっと、解るものだから。
無理もない、と思った。鞭で打たれて脚から血が出るような場所にいたのだ。マックスやビルの話からは誰もあの子のことを気にかけなかった様子だから、知らない場所は怖いだろう。躊躇いなく誰かを傷付けようとするのは、躊躇いなく傷付けられて来たからなのかもしれない。そう思うとまた、胸が締め付けられた。
「怖いんだ。あなたのことが」
「え、私が……?」
予想外の言葉に私は目を丸くした。私が怖いなら、私が行かない方が良いのではないか。サッと青褪める私にけれどビルは気付かないのか、考え込むように顔を伏せている。顔も私を向いてはおらず思考に沈んでいる様子だった。
「きっとあなたのような人に会ったことがない」
ビルは説明してくれるつもりはないようだった。自分の考えを纏めている最中で説明できる状態ではなさそうだ。私は何か自分にも解ることはないかとビルの言葉に注意を向ける。
「そうか、あなたは本当に文字通り受け止めたのか」
「え。え?」
私が情報を拾う前にビルは自分で答えに辿り着いてしまったらしい。ビルの中では何かが結び付いているのか、声に納得の色が滲んでいる気がする。けれど私は置いて行かれたままだ。ひとつも判らない。
「あの……?」
説明を求めて良いものかも判らず首を傾げる私に、ビルはまた顔を逸らした。そうか、そういうこともあるか、とまたひとりで答えに辿り着いているようだ。
「あなたはあの子に手を伸ばしていない」
ビルが急に私を向いて話し出すから面食らってしまう。責められているのかと思ったけれど違うらしいのは次の言葉を聞いて解った。
「あの子が伸ばした手を取ったのが最初か」
初めから違う、とビルは言う。目を白黒させている私に、マックスめ、とビルが不愉快そうに呟いた。計算尽くか、と言う声には憎々しげな苛立ちを感じる。
「……利用されたな。俺も、あなたも」
「え、利用?」
どういうこと、と遂に説明を求めればビルは息を吐いた。あいつはいつもそうだ、と。
「いつも子どもたち優先だ。こっちの都合などお構いなしに人を動かすところがある」
言っていただろう、とビルは私に言う。
「あなたがあの子を受け止めようと動いたところを見ていたと。あの子は奪われてばかり来たんだろう。だから平気で奪おうとする。でもあなたは避けなかった。受け止められたと思ったなら、きっとそれは、今までにない体験だったはずだ」
「で、でも、伯爵だってあの子を迎え入れたんでしょう? 初めてじゃないんじゃ……」
此処へ来たのは伯爵が奴隷商人から買ったからだ。けれどビルはかぶりを振る。
「こちらは保護のつもりでも本人にとっては違うことはある。新しい場所へ連れて行かれただけで、されることは同じだと思ったって不思議はない。だから逃げ出したんだろう。あなたに見つかって、また逃げようとしたのに思っていたものとは違うものを向けられたら──困惑もする」
今までと違うこと。私にも覚えがあった。テレーズが私に向けてくれた笑顔。魔女を忌避するものではなく、自分を励ましてくれるものだと捉える人がいたと知った時。私も困惑した。
「あなたはあの子が発する言葉を受け止める。近付くなという警戒心を察知して近付かないし、不用意に手を伸ばしもしない。相手が発したものを受け止めて、それでいて名前を与える……マックスは試したんだ。あの子があなたの伸ばした手を取るかどうか」
其処まで言ってビルはまた溜息を吐く。苛立たしげで、今度こそ不機嫌だった。
「まだ結果は判らない。自分の意思ではないかもしれないが、あなたはもう手を伸ばした。それを翻すことはできない。
だから、呼んでやって欲しい。反応を見せなくても一週間は諦めるな。あの子を、オーブの名前を、呼ぶんだ。名前が馴染むには時間がかかる。そういうものだと思って欲しい」
ビルが私に頼むのが意外で、私は驚いたまま頷いたのだった。




