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第39話 秘匿と表明


「良くはねぇだろ」


 ビルの言葉にマックスは苦笑した。私は後ろに立っていたビルを振り返る。唇を真一文字に結んで、むすっとしているようにしか見えなかった。


「他の誰でもない、お前が心配してんのは事実だろ。坊主を逃して嬢ちゃんの顔に傷をこさえた。引っ掻き傷で済んだのは運が良かったな。でもその責任はお前にある。そういうものから来る懸念だと思ったが違ったか?」


「……いや、それで良い」


 そうかよ、とマックスは息を吐きながら答えた。というわけでだ、とマックスは私に視線を戻す。私もビルからマックスを向いた。


「嬢ちゃんが怪我しないか心配する奴がいる。テレーズもそうだろ。イヴォンヌやトマも、勿論オレもだ。嬢ちゃんは心配されながら怪我をするような奴じゃねぇよな?」


 是以外の答えは許されず、私は頷いた。否定するつもりもなかった。


 立場はある。偽装結婚とはいえ伯爵の妻が怪我をする事態は避けたいだろう。私も外には出ないけれど、それでも褒められたことではない。伯爵も目的があって私と結婚したのだろうし、私が怪我をすれば誰かに責を求めたり咎を負わせたりするかもしれない。その時、私がやめてくれと言ったって伯爵が聞き入れてくれるとは思えない。あの夜以来、顔も合わせていないのだから。


「だから、怪我するな。それが解ったら、行って良い」


 ひらひらと手を振られ、私はまた頷くとビルを見上げた。ビルは私を向く。私は緊張を抱えながらビルに教えて欲しいと頭を下げた。


「あなたはフラヴィに新しい名前をあげる時、どうしたの? 私はどうすれば良いかしら。教えて欲しいの」


 見習いとして付くなら、私は彼に教えを請わなければならない。ビルのことはまだ苦手だ。怖いし、不機嫌そうで躊躇してしまう。つい話しやすいマックスやイヴォンヌに相談してしまうけれど、それではいけないのだろう。


 それにビルも子どもたちのことを真剣に考えている人だ。それに悪い人ではないのだろうとも思う。かけられた言葉は決して甘いものではないけれど、それでも不器用な優しさには感じられたから。


「──」


 ビルが口を開いた。



* * *



「あ、あの、こんにちは」


 ビルと一緒に入った部屋の片隅、壁際に寄せられた寝台の上で異国の子どもは膝を抱えて座っていた。扉から最も遠い場所で、私たちを睨むように真っ直ぐに見ている。その威圧感に怯みながらも私は挨拶をした。


 返答はない。返答はないけれど、私が持っている食事には目を留めたのが判るから空腹ではあるのだろうと思う。


「私のこと判るかしら。私はジゼル」


 ゆっくりと、私は話しかけた。けれど彼は私を睨むように見るだけだ。


 抱えた膝の、骨と皮ばかりのような細い脚が痛々しい。此処に来てしばらく経ったし食事も残さず食べているというけれどまだ細い。それはこの子が満足に食事を与えられていなかったことに外ならなくて、名前より先に私は食事をあげることにした。


「お腹空いてると思うの。食べましょう」


 時々ひとりで過ごす方が落ち着く子がいる。だからそういう子のための部屋がある。けれど広すぎては不安になるから、寝台と食事のためのテーブルと椅子を充分に置けるだけの広さ。子ども以外に大人が二人いても圧迫感を感じさせないくらいの大きさの部屋だ。


「今日はミント水もあるの。トマが作ってくれたのよ。美味しいから飲んでみて」


 私はそう話しかけながらテーブルに食事を載せたトレーを置いた。そうして扉の方に下がる。ナイフやフォークを使えない子もいるから、食事は最初から切り分けられていた。子どもに合わせて自分で使えるように少しずつ覚えさせていると聞いている。彼の場合はどうだろう。食事をするところを見たことがないから分からなかった。


 けれど子どもは寝台の上から動かない。ビルが後ろで息を吐くのが聞こえた。


「警戒してるんだろう。ひとりにしてやれば食べる。別に取って食べたりはしないんだが解ってもらえないようだ」


 ビルはそういう面でも彼に手を焼いているようだ。私は緊張していてビルの言葉を何度か自分の中で反芻してようやく把握した。


「あ、えっとそれじゃ、どうすれば……」


「あなたが来た理由を話してやれば良い」


 何しに来たのかを忘れていた私は言われて思い出す。そうだ、名前、と思って寝台の上の彼を見た。視線だけで動けなくなりそうなほど鋭い。近寄るなと言われているようで私はテーブルより先へ行くことができそうにないと知る。食事を置く時には行けたのに、一度下がってしまうとダメだった。


「ええと、今日はあなたに贈り物があって。気に入ってもらえるか分からないけど、でも私が、あげたくて」


 誰がそうしたいと思っているかを明確にすること。ビルからの助言はその一言に尽きた。


 子どもの方から求めたものではない。これは世話をする自分たちがしたいこと、引いては自分があげたいと思って考えた名前だと伝えること。受け取るかどうかは相手に任せること。


 あなたはそうしたのかと訊けば、そうだ、とビルは答えた。


「本当はあなたの名前を知りたかったけど、でもあなたがその名前を好きかは判らないし。難しいのね。でも、私、あなたのことを名前で呼びたいの。

 私はジゼル。私はあなたを、オーブ、そう呼びたいの」


 込めた願いは口にしない。自分がそうしたいと願い、込めたことを相手に託さない。相手から訊かれた時に答えるくらいが丁度良い、とビルは言ったから。


 夜明けの意味だと言うのを堪えて、私は微笑んだ。



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