第37話 願い込めたもの
「へぇ、昨日の今日だっていうのにもう決めたのか」
トマも手伝ってくれてミント水を全て地下へ運び込んだ後、私はマックスに目の腫れが引いたかを見てもらいながら打ち明けた。目の腫れも真っ赤になっていたのもすっかり引いて、これなら子どもたちの前に出て良いと私に許可を出したマックスは楽しそうに笑って答える。
「とはいえな、まずそういうのはビルに言え。あの坊主の担当は嬢ちゃんとビルだ。二人で決めて、オレに言いに来てくれ」
言われてみればそうだった、と思い直して私は頷いた。ビルは飯時に来るからな〜、と私に手を振ってマックスはまた記録を付け始める。此処の子どもたちの治療を一手に担っているマックスはひとりで大変なこともあるだろうに、それを一切見せない。私に手伝えることはないかと思ったけれど私に医療の心得はない。ソルシエールの、魔女の万能薬を求めるようなこともマックスならしないだろうと思った。
万能薬とは言っても万病に効くわけではないし、確固たる医学的根拠があるわけでもない。連綿と受け継いで続けられてきた研究の成果ではあるけれど飛躍的に進歩している医学とは違う。理論立っていない点だってあった。
一応、実家から私が育てた万能薬の元となる種子は持って来てはいたけれど、誰にも教えていない。テレーズでさえ知らないだろう。私もこれをまた表に出すつもりはなかった。出したところで求められない。精々が体の調子を整える効果があるだけで決して、万能薬なんてものではないのだ。
その後、私は大部屋の子どもたちにミント水を配り、季節を感じて顔を輝かせるのを微笑ましい思いで見た。テレーズの絵本の読み聞かせを皆と一緒になって堪能し、どうやったらあんな風に出来るのだろうと考える。けれど考えている時間はなく、子どもたちの食事とお昼寝の時間になった。
「ジゼル奥様、少し休憩して来てください。こっちは大丈夫ですから!」
テレーズに声をかけられて私はお言葉に甘えることにする。トマがミント水運びからずっと手伝ってくれているおかげで人手も充分にあった。皆に比べれば体力がないのは私の課題でもある。
大部屋を出てすぐ、ビルと鉢合わせた。驚いた私の表情はビルにも見えたと思うけれど、ビルが驚いたかどうかは判らない。相変わらず表情が見えなかった。大部屋の扉を閉めて私はビルと向き合う。
「丁度良かった。もう名前を考えたとマックスに聞いて呼びに来たんだ」
悩んでいたと思ったが随分と早かったなと言われ、私は目を伏せた。
「あなたからも、イヴォンヌからも、テレーズからも名前のことを聞いたの。トマからも此処に来る前の話も教えてもらったわ。皆、私が思い付きもしない経験をして来たことを知ったの。マックスもそう。フラヴィもそうで、それならあの子にもきっとあるんだわ。あの子が歩んできた人生が」
そうだな、とビルは肯いた。マックスに記録を読ませてもらったことを伝え、けれど彼が此処へ来た経緯は書かれていなかったことに私は触れる。あぁ、とビルは何でもないことのように言った。
「奴隷商人から逃げ出したところを伯爵が買った。名前も事情も聞いている暇はなかった。子どもの保護を優先したから」
引き摺って歩いていた脚は鞭打たれて出血していたから、とビルが言う。そんなところから逃げ出した勇気を私は凄いと思ったし、伯爵にもお礼を言いたくなった。そうだったの、と震える息を吐いた私をビルがじっと見ているのを感じるけれど、真一文字に引き結ばれた唇だけではどんな表情を浮かべているのか分からない。いつも通り、不機嫌そうに見えた。
「また伯爵に会えたら言わなきゃいけないお礼が増えたわ」
「……礼?」
子どもを保護したことだと言えば、ビルが薄く口を開いた。何かを言おうとしたけれど、結局言葉を呑み込んだようでかぶりを振る。
「伯爵のことは良い。あなたが考えた名前を知りたい」
話を戻すビルに、私は緊張して喉が狭まるのを感じた。さっきはこれで決めたと思ったけれど、大丈夫だろうか。けれど今考えたところで他の名前は出て来なかった。きっと伝えれば、理由を訊かれるだろう。私にはこれしか思い付かない。
「……オーブ、が良いと思って」
「理由を訊いても?」
ビルは感情を見せなかった。良いも悪いもなく、ただ淡々と私に尋ねる。予想していたこととはいえ緊張が続いて私は震えそうになる口を開いた。ただ、自信のなさから視線は外してしまったけれど。
「“地下出身”の皆──勿論全員じゃないけど──、私に教えてくれたの。此処に来る前、どんな生活をしていたか。どんなところにいたか。でも皆、そんなことを感じさせないくらい明るく笑うのよ。私、お日様みたいって思ったの」
笑わないで欲しい、と思ったけれどビルが笑う様子はない。ただじっと私の話に耳を傾けてくれているのが感じられた。
「それに皆、此処に来て良かったって言ってた。此処にはあなたやマックスがいて、子どもたちのことを真剣に考えている人がいて、恩返しをしようとする人がいるんだもの。今いる子たちにも、あの子にも、私、同じように思って欲しい。此処に来て良かったって。そして、皆みたいに明るく笑えるようになって欲しいの」
だから、と私は息を吸う。目を逸らしたまま願いを口にするのは憚られて、思い切って顔を上げる。ビルは唇を真一文字に引き結んだまま私に顔を向けていた。一瞬だけ怯んだけれど、私は口を開く。
「あの子に、夜明けの名前をあげたい」




