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第36話 此処から


「ジゼル奥様が何処にいるか判るようにして欲しいです……っ」


 私とトマのいるテラスまで走ってきたテレーズがぜぇぜぇと息を整えて零した言葉に、ごめんね、と私は謝った。テレーズがまた探し回ることは私も想定内だったけれど、テラスにいるとは思わなかったらしい。私を見かけたか屋敷の使用人に片っ端から訊いて回り、ようやく辿り着いたということだった。


「ジゼル奥様はよく話を聞いてくれたからなぁ。テレーズだけ独り占めなんて勿体ないだろぅ」


 はっはとトマは笑った。自分用にと持って来ていたグラスにミント水を注ぎ、テレーズに渡してあげる。テレーズはそれをぐいっと一気に飲んで、ぷは、すーすーする! と嬉しそうに言った。


「走ったから暑くて……トマのミント水はいっつも美味しい! ご馳走様!」


「テレーズはいつも美味しそうに飲んでくれるなぁ」


 トマの言葉に、美味しいもん、とテレーズは笑う。この無邪気に向けられる信頼もきっと、トマには必要なものなのだろうと私は思った。テレーズはどうやら“マックスの患者”のようだし、トマが面倒を見る時間もあったのではないかと考える。魔女は怖くない、とテレーズが向けてくれた私への信頼もきっと、トマの言う“同じ熱”なんじゃないかと思うから。


 同じものに掬い上げられた私にも、解ることはある。


「汗掻きましたけど、ジゼル奥様のコットンは無事です」


 テレーズはガーゼに包んできたコットンをポケットから取り出した。ありがとう、と私は受け取って、トマに断ってから水差しのミント水をコットンに垂らし、浸した。更に二人に断ってからそのコットンで目元を押さえる。ひんやりとして気持ち良かった。ミントの香りも胸一杯に吸い込みたくなる。


 実のところ、トマの話を聞いてテレーズの時のように胸が痛かったからこれで多少は誤魔化せるかと私は安心していた。だってあまりにも、別の世界のような話で。私には思い付きもしない、そんなことがあるなんて考えたこともない、話で。でもトマはそれを体験して来たのだから私が泣くなんて失礼にあたると思ったのだ。


 知らないことが沢山ある。知ろうとすれば胸が痛くなる。きっと、名前を考えているあの子にもあるのだろう。私が考えもしないような体験が。それを知れば私はまた苦しくなるのかもしれない。けれどそれから離れたいとは不思議と思わなかった。それはきっと。


「トマが作ったミント水、地下にも持ってくの。マックス先生に頼まれてて」


「それじゃおれも手伝うぞぅ。沢山作ったから二人でも運ぶのは大変だからなぁ」


 二人のやり取りを聞くともなしに聞いていたら、テレーズがわーい、と嬉しそうな声をあげた。


「子どもたちも喜ぶよ! 大人気だもん。トマの育てたお花も!」


「はっは! ジゼル奥様とテレーズで作ったポプリも使用人の間で人気だぞぅ! ポプリの作り方を教わりたいっておれのところに来た使用人がいたし、どんな花が良いか訊きに来たのもいたなぁ。ジゼル奥様に訊いてくれって言ったんだけどまだ来てないかぁ」


 えー、テレーズ聞いてない、とテレーズの初耳と驚く声がする。私も聞いたことはなかった。


「此処は良い、みんな自由だからなぁ。此処に来られて良かったと思うぞぅ」


「テレーズも!」


 二人が笑う声がする。それを聞いて私は温かさと切なさを同時に覚えた。


 ビルやマックスのように、一生懸命に子どもたちに関わる人が此処にはいる。イヴォンヌやトマやテレーズが貰ったように子どもたちに返そうとする人がいる。子どもたちは此処が安心で安全な場所だと知っていく。そうしてきっと、皆のようになるのだろう。


 お日様のように笑う、皆のように。


「……決めたわ。あっ」


 思わず声に出していて私は押さえていたコットンを外して二人を窺った。二人とも聞こえていたようできょとんとして私を見つめている。何がですか、とテレーズが無邪気に尋ねてくるのが恥ずかしくて私は頬に熱が集まるのが分かった。


「あ、あの、その……」


 名前、と私は蚊の鳴くような声で答えた。トマには話していないから首を傾げていたけれど、テレーズはぱぁっと顔を輝かせた。


「もう決めたんですか! あの子どもの名前!」


 私が微かに頷くと、わー、とテレーズは嬉しそうに飛び跳ねる。首を傾げたままのトマに、私が名付けを任されたことを話してくれた。あぁ、とトマは頬を緩めて私を向く。


「おれはあの家で受けた仕打ちを忘れたくないって思ってるんでねぇ、先代が付けてくれるっていう新しい名前、断ったんですわぁ。でも大体は新しい名前を貰って、新しい人生を始めるんですよぅ。あの子は何も話さないですからなぁ。断らないなら新しい名前、きっと受け入れてくれますよぉ。ジゼル奥様がどんな名前を付けたのか、後で聞かせてくださいねぇ。まずはマックスに打診するんでしょうからなぁ」


 トマも新しい名前はもらってないの? とテレーズが尋ね、そうだぞぅ、とトマは頷く。テレーズも、とにっこり笑う彼女に、知ってるなぁ、とトマは笑って答えた。


 新しい名前を貰わなかった二人。それでもきっと此処に来てからは新しい人生を始められたのだと二人の話を聞いたら思う。


「新しい名前をどんな願いを込めて付けたかって私、聞いたわ。トマの言うように新しい人生を始めて、長い人生に寄り添ってくれるものでありますようにって願いが込められているって思ったの。私の考えた名前をあの子が受け入れてくれるかは判らないけど、元々の名前のままだってきっと」


 私が口を開けば二人とも私を向いた。私は二人を交互に見ながら言葉を選ぶ。偉そうなことを言っていないだろうか。でも、私が感じたことを二人に聞いて欲しいと思った。


「幸せになれると思うの」


 どんな過去にも負けず、此処でまた“生まれ直す”なら。そういう未来を望んでいる人が、此処にはいると思うから。


 私の言葉に、テレーズとトマが同時に微笑んだ。



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