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第35話 信頼の熱


「順当に行ったって跡取りは弟になるはずなんでねぇ、おれにはどうして弟がそんなことを言うのか解らなかったんですわぁ。おれとは性格も全然違って、親には可愛がられていて。でも使用人につらく当たる親は使用人からは嫌われてるようだったから、怖くなったんでしょうなぁ。弟、言ってたんですわぁ。『使用人が裏切らない毒味役が欲しかった』って」


「……」


 私は伏せた目を更に伏せた。トマの声はずっと穏やかなままだ。イヴォンヌやテレーズと同じで、通り過ぎたことならそんな風に話せるのだろうか。私は今でも怖いと思うのに。


 人々から向けられた目を思い出すだけで。


「おれなら使用人に好かれてると思ったんですかねぇ。まさか。使用人にしてみたら同じなのに。だから裏切らないと言うよりは、自分だけは助かりたい、っていう一心だったんでしょうなぁ」


 それは酷く乾いて聞こえた。自分のためなら双子の兄さえ踏み付けていけるものなのだろうか。私には判らない。兄弟もいなければ、そんな家でもなかった。


「おれは使用人より下の立場になって弟の皿の毒味係になったんですわぁ。最初のうちはおれが可哀想に見えたんでしょうなぁ。普通の皿でしたよぉ。でもね、段々と弟が横柄になって。同じ顔したおれが憎くなったんでしょうねぇ。遅効性の毒を仕込んで、家から逃げ出す使用人が増えたんですわぁ。おれも弟も吐いて吐いて、でもおれは床に転がってる(ほか)なくて。弟は甲斐甲斐しく世話をされて」


 私は息を詰めた。そうでもしないと体が震え出してしまいそうな気がしたせいだ。トマのそれは誰も助けてくれないと諦め、受け入れているように聞こえた。吐瀉物に塗れても自分で何とかするしかなかったのではないだろうか。それはどれほど、つらいことだろう。


「体が頑丈なことだけが取り柄だったんですけどねぇ。吐いてしまうものだから弱ってく一方で、でも畑仕事もあって。売り物にならない大きさの生の野菜をこっそり齧ったこともありましたなぁ。剪定したカボチャの蔓を噛み切ったことも」


 あぁ、このまま死ぬんだなって思ってたんですよぉ、とトマは言う。でもそんな時に逃げた使用人から話を聞いた先代がおれを貰い受けたいって訪れたんですよぉ、と笑った。


「『どれだけ毒を喰らっても死なないと聞いた』なんて、話を大盛りにして先代は言ってくださってねぇ。その頃はもうおれは毒味役として機能してなくて、納屋でボロ雑巾のようになりながら座ってたんですよぉ。そんな大層なものじゃないが使い道があると思うなら連れて帰って構わない、この家にはもう要らないって言いながら父親が納屋のドアを開けたのを今でも覚えてますなぁ。恥ずかしい話ですけどねぇ、未だに時々夢に見るんですわぁ」


 トマは苦笑した。私は俯いて首を横に振る。顔は上げられなかった。


 恥ずかしいことなんてない。そう言いたかったのに、声を出せなかった。声と一緒に堪えたいものまで出てしまう気がしたから。


「飛び起きる度に、自分が何処にいるか確かめてホッとするんですよぉ。あぁ、もうあんなところにはいない、伯爵のお屋敷だって確認して、言い聞かせて、安心するんですわぁ。先代が昔そうしてくれたように、今度は自分で。それから地下の子どもたちにも。

 子どもたちの中には大人を全く信用してない子もいますからなぁ。あの新しく来た子なんて特にそうでしょうねぇ。夜も眠れてるのかどうか。安心すれば眠れるんでしょうけどねぇ。早く此処は安心で、安全だって、解ってもらいたいですなぁ」


 トマが自分もそうだったと話すから、私は思わず顔を上げて目を合わせてしまった。トマはいつものように穏やかに笑っている。今でも夢に見るくらいなのに、どうしてそんな風に笑えるのだろうか。


「どうしたら」


 声が震えた。


「どうしたら、安心で安全だって、解ってもらえるのかしら。あなたはどうやって解ったの?」


 トマは優しく目を細めた。先代が、と答えてくれる。


「変わらない関心を向け続けてくれたから、ですかねぇ」


 関心、と私は繰り返す。トマは頷いた。


「勿論、面倒見てたのはおれだけじゃなかったから向けられる量に差があるのは解ってましたよぉ。でも先代が向けてくれる関心と信頼は、いつだって同じでしたからねぇ。量に差はあっても熱に差はなかったんですわぁ。そんなもの向けられたら応えるしかないんでねぇ。

 ジゼル奥様がおれたち使用人に向けてるのは同じ熱の信頼ですわぁ」


「え」


 驚く私にトマは朗らかに笑った。ずっと笑顔の、日溜まりのような人だという印象は変わらない。どんな過去を抱えていたとしても、それを越えて彼は今此処にいる。


「おれたちのことを信じるから、毒味係なんて要らないって言ってくれると思ったんですけどねぇ」


 違いましたかなぁ、とトマが眉を下げて不安そうにするから、そう、と私は頷いていた。信頼してるの、と。


「皆が良くしてくれるの、分かってるわ。立場上そうせざるを得ないことも勿論。でも皆、笑ってくれるから。私は此処で上手くやれたらって思ってるのよ。テレーズに色々習いながら」


 私の話にトマは、あぁ、道理で、と微笑んだ。


「テレーズは周りと上手くやるの、上手ですからなぁ。はっは、良い先生でしょうねぇ」


 トマが同意してくれたのが嬉しくて、私は頷いた。丁度其処へ、話題に出たテレーズが私たちを見つけたようで、あー! と言いながら走って来る。私たちは顔を見合わせ、二人同時に笑ったのだった。


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