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第29話 歪な道のり


「酷い……」


 思わず零れた声に、テレーズは微笑んだ。痛みを覚えるような笑い方で私は胸が苦しくなる。もう痛くないなんて、そんなことはない。通り過ぎたとしたってそれは実際にあったことだ。受けた痛みだ。思い出して痛くないはずがない。


「テレーズは働けなくなって、捨てられることになりました。別のところの奴隷になるって言われて、兄弟がいるところですかって訊いたんです。そんなものいると思っていたのか、って、大旦那様は笑いました」


「……」


 私は息を詰めた。そうでもしないと泣いてしまいそうだったからだ。泣くなんて、そんなことできない。テレーズが泣いていないのに私が泣くなんて。彼女の過ごしてきた時間を憐れむなんて、そんなこと。


「こんな動けないテレーズを買いたいと言う人がいるなんて、って大旦那様は言いました。テレーズもそう思いました。だって元気一杯で、誰よりも頑張って働いていたのに。テレーズを知っている人が見たら驚くくらい何もできなかったんです。大旦那様の言葉が嘘だって判った時から、お腹だって空かなくなりました。どれだけ鞭で打たれても平気だと思いました。

 次に行くのは伯爵様のお家だって、奴隷は全員切り刻まれる、子どもの奴隷ばかりだって大旦那様は言っていて。テレーズはもう、それでも良かったんです」


 頑張っていた目標を失って、体は満足に動かなくて。その時のテレーズはどれだけ打ちのめされていただろう。


「だって大旦那様、テレーズはまだ役に立てるって、言ってました。病気のテレーズでも、働けなくても、動けなくても、バラバラになれば役に立てるんだって思って、それならって──」


 私は耐えきれずに立ち上がり、振り返るとテレーズに手を伸ばした。テレーズの驚いた声が耳元でする。私は彼女の体を抱き締め、震える息を吸って、吐いた。何か言おうと思うのに声にならない。


「ジゼル奥様? 泣いてるんですか?」


 テレーズの困惑した声がする。私は首を振った。我慢できずに泣いているのに、嘘を吐いている。彼女が吐かれてつらかった、嘘を。


「ごめんなさい……ごめんなさい、テレーズ」


 後悔と共に謝罪が口を衝いて出た。けれどテレーズは、え、と驚くばかりだ。


「ジゼル奥様は何も悪くありません! テレーズこそこんな、楽しくもない話を……」


 私はまた首を振る。テレーズこそ何も悪くない。ただ、頑張っていただけだ。大人の言うことを信じて純粋に頑張っていただけなのに、与えられた目標がどれだけ頑張っても到達できないものだったなんて。


「ううん。ううん、良いの。テレーズがつらくないなら教えて欲しいわ。私は奴隷じゃないしあなたの体験したことのほんの少しだって本当には理解できないかもしれないけど、でも、知りたいの。テレーズ、あなたのこと」


 まずは知ること。マックスが指し示してくれた道はつまり、日々私のお世話をしてくれる使用人を知ることにも繋がっている。イヴォンヌも、テレーズも、そうだ。


「ごめんなさい。泣くなんて失礼だわ。でも止まらないの、ごめんなさい、テレーズ」


 此処に来て最初に私に笑顔をくれた人。臆病な私にも話しかけてくれた人。魔女は怖くないと笑った人。遥かに怖いことがあることを既に知っている人。


 そんな彼女のことを、私はどれだけ知っているだろう。この二ヶ月、ずっと近くにいてくれたテレーズのことを。


「……テレーズ、此処に来てまた元気になれました。旦那様がマックス先生を呼んで、治してくれたんです。五年前のことですけど、テレーズ、覚えてます。『切り刻むのは事実だ。怖い思いをすると思う。すまない』って、謝ってくれたんです。でもテレーズ、その意味が分からなくて、お役に立てますかって訊きました。元気になったら役に立ってもらうって旦那様は答えて、マックス先生は笑ってました」


 マックスの様子は伯爵の前でも変わらないようだ。伯爵がテレーズにそう話したのは意外で、結婚式の夜に見た姿とは違う気がした。地下にいる子どもたちの前には来ていないのに、テレーズの前には現れたというのもよく分からない。何か条件があるのだろうか。


「テレーズ、外に出るか訊かれてももう行きたい場所もないし、お役に立ちたいって言ったんです。そうしたら奥様を迎えることになるから、その侍女をやってみるかって言われて! 勉強しました。字も、ドレスの選び方も、髪の毛の結い方も。イヴォンヌの髪の毛を触らせてもらったんですけど、全然違うんです。ジゼル奥様の髪は触りたいくらい綺麗で、綺麗すぎてテレーズが触って良いかも分からないくらい」


「良いのよ」


 私が答えると、テレーズは嬉しそうにはいと返した。ジゼル奥様の髪を毎日結えるのが嬉しいですと。


「テレーズ、ジゼル奥様のお役に立ちたいです」


「……」


 私は彼女のその願いに胸が苦しくなる。役に立つようにと言われて生きてきた彼女には、それが名前よりも大切なものなのだろうと思うから。


 そんなところで教え込まれた基準なんて、捨てて欲しいと思ってしまう。きっとこれはビルの言う“気持ち悪い”と同じものなんじゃないかと分かるのに、でも、ビルの話を聞いてしまったからそんな身勝手なことは願えない。


 その時間も含めて、テレーズの人生だ。その過去を否定するようなことはしたくない。ジゼル“奥様”である私が彼女にできることは。


「……充分に役に立ってくれているわ。私、本当にあなたが侍女で良かったって思ってるの。だからこれからもよろしくね、テレーズ」


 きっと今は、これしかないのだと思うから。


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