第28話 追憶──テレーズ
翌朝、目覚めた私が真っ先に考えたのはテレーズのことだった。
だからマックスの助言に従って謝ることにした。のだけど、言い出す機会を窺っているうちに、もうテレーズがしてくれる身支度は終わろうとしている。
テレーズがもっと世話をさせて欲しいと泣いた夜から、私はテレーズに髪を結ってもらっていた。私の目のことを気遣いながらテレーズは今日はどうしましょうか、とあれこれ楽しそうに私の髪を触る。黒くて、夜のようと言われた私の髪。魔女に相応しい色だと蔑み笑われた色を、テレーズはいつも綺麗だと眩しそうに目を細めた。
「今日も昨日と同じくらいにしておきますか?」
緑色をした私の右目を隠すための前髪を持ってテレーズはこのくらい、と結う高さを私に確認する。いいえ、と私は勇気を出した。
「今日は少し、上げてもらえる?」
一瞬、きょとんとした表情を浮かべたテレーズが次には嬉しそうに笑って、はいと頷いた。テレーズ、ジゼル奥様の目の色好きです、だからもっと見られて嬉しい、と本当に嬉しそうに話すものだから胸の奥がきゅうと締まった。此処に来るまで、そんなことを言ってもらえるとは思っていなかった。そう言われる度に、傷付いていた私の心が沁みて痛む。けれどそれは、傷口が塞がっていく時の痛みに似ていた。
「テレーズ、聞いて欲しいの」
思い切って切り出せば、はい、とテレーズは手を止めて鏡越しに私を見る。いつもと何も変わらない様子に見えた。傷付けたかもしれないと思うことこそが傲慢かもしれない。私が勝手に思っただけで。罪悪感を覚えているのも私だけだ。それも勝手に。
でも、これは私が望むものだと解りながら、頼みたいのだ。彼女に赦して欲しいと願うから。
「私、あなたに謝りたくて」
「謝る……?」
案の定テレーズは首を傾げた。覚えがないらしい。だから私は昨日のことを説明する。親のことに触れるのには勇気がいったけれど、私が謝りたいのは其処だから震えそうになる声を頑張って出した。謝る時に体や声が震えるなんてみっともないと思っても、意志の力では止められなかった。怖い。自分の不注意がしたことなのにその責任を負うのが怖いなど、子どもたちに聞かれたら笑われてしまう。
「ごめんなさい、テレーズ。軽率に尋ねるようなことじゃなかった。反省してる」
「わ、わ、ジゼル奥様そんな、顔を上げてください!」
鏡の中で頭を下げた私をテレーズが慌てて止めた。鏡の中のテレーズが手に持っていた私の髪が滑り落ち、櫛をぎゅっと握り締める。でも私が顔を上げられないでいると、テレーズは困惑した声であのー、と口を開いた。
「テレーズ、何も怒ってないです。ジゼル奥様が謝るようなこともありませんし……。でもジゼル奥様が謝ってくれたのは、その、こう言っては何ですけど、嬉しいです」
「嬉しい……?」
意外な言葉に驚いて私が思わず顔を上げると、テレーズがパッと嬉しそうに笑った。それから櫛を両手で握って、はい、と大きく頷く。
「ジゼル奥様は奥様だけど、謝ってくれる人なんだなって思ったので! 此処は旦那様もそうですけど、偉い人でもちゃんと謝る方が住んでるんだって、テレーズ、思ってます!」
「ヴリュメール伯爵も……?」
そうです、とテレーズは肯く。それからテレーズは目を細めて、それまでいたところは違ったので、と続けた。痛みを覚えるような表情なのに口元は笑んでいて、私は彼女もフラヴィと同じように笑顔を武器に生き抜いてきたのではないかと直感した。それに昨夜、マックスが言っていたから。
──誰かと仲良くなったり好かれたりするのは上手さ。でもそれはあいつが生き残るための、あいつのためだけの技術だ。
「テレーズは一時期、起き上がれませんでした。体の中の病気だったって聞いてます。それまで沢山の人と一緒にお掃除もお洗濯もお料理もしたのに、いっぺんに何もできなくなったんです。テレーズは寝ていることが増えました。働きたいのに働けなくて、もうお日様の下に出ることもできませんでした。テレーズが働かないと、家族に会えないのに」
家族、と私はテレーズの出した言葉に目を見開いた。顔も覚えていない親のために、彼女は働いていたのだろうか。
「ずっと、ずっとそうやって働いて来ました。テレーズは大きな果樹農園にいたんです。其処の大旦那様は働きが足りない奴隷を鞭で打ちます。テレーズはその言葉を信じていました。でも、大旦那様の言葉は、嘘、だったんです」
嘘。奴隷に鞭を打つのも私にとっては眉を顰めたくなる話だったけれど、テレーズが話す表情はイヴォンヌと同じで穏やかだ。彼女はもう、痛い思いをしていないだろうか。
「テレーズはその農園で生まれました。母親は買われてすぐテレーズがお腹にいるって分かって、仕事仲間に助けてもらいながらテレーズを産んだらしいです。顔は覚えてませんけど、声は覚えてます。テレーズ、って明るく呼んでくれました。でも仕事中、事故に遭ってそのまま……可哀想って、仕事仲間に言われながら過ごして来ました。でも寂しくはなかったです。仕事仲間がテレーズを育ててくれました。絵本はなかったけど、面白い話を沢山聞かせてくれたから。魔女様のお話も仕事仲間が教えてくれたんです。不思議な力で何でもできる凄い人!
……それに他に家族がいるって思ったら頑張れました。でも、働けなくなって」
テレーズは目を伏せた。
「大旦那様はテレーズに兄弟がいるって言いました。別の農園にいるから、テレーズが頑張ったらいつか会えるって。母親だけを買って、子どもの方は別の農園が買って行ったって、大旦那様は言いました。沢山働いてお金を沢山貯めたら、他の農園にいる兄弟に会いに行ける。それを目標に頑張れって言われて、テレーズ、信じていました」
それが嘘だったのだと言われる前に知って、私は息を呑んだ。




