第25話 相談
「う……その、えっと……それじゃ……」
私が頷くとマックスはにっかと笑った。本気か、とビルの溜息が聞こえてくる。
「嬢ちゃんの許可が出たぜ、ビル。頼んだ」
はぁ、とビルが大きな溜息を吐く。本当にやるのか、と尋ねれば、そりゃあな、とマックスはあっけらかんと答えた。
「正面扉まで行ってたんじゃ時間がかかりすぎる。これはただの寄り道だ。それにあそこに届くの、お前くらいだろ。別にオレはお前の肩車でも良いけど、お前は嫌じゃね?」
まったく、とビルは頭を振り、私を見上げたようだった。見えるところが少なくてビルが何処を向いているのか分かりづらい。
「次はない。あなたもこいつがもし同じことを言っても断れ」
「え、あの」
私が答える前に、ビルは少し下がってその場でぴょんぴょんと二度跳ねた。何だろう、と私が思っているうちにビルが駆け出して地面を蹴った。片方の腕を伸ばして壁に触れ、何と、そのまま壁を二歩、駆ける。え、と私が驚いているうちにビルは反対の腕を伸ばして二階のバルコニーに手をかけた。う、と小さく呻く声が聞こえたけれど体を手摺りの向こうに乗り上げるためのもので怪我をしたわけではないようだ。ひゅう、とマックスが口笛を吹くのが聞こえた。
「いつ見てもすげぇな、お前のそれ。どんな身体機能だよ」
見世物小屋にいたら大人気だ、とマックスは笑う。ビルもそうなのだろうか、と考えて私は頭を振った。気軽に人の出自に触れてはいけない。私はそれを学んだばかりだ。
「おーし、じゃあ次はオレを引き上げてくれ……いてててて、力入れすぎ、入れすぎ!」
「五月蝿い。お前の方が馬鹿力だろう」
ビルが不機嫌そうに零す声が随分と近くから聞こえた。本当に二階にいるんだ、と思うと私は急に緊張する。ランタンの灯りが揺れてマックスも二階のバルコニーに上がったのが窺われた。
私の下の部屋は空き部屋だ。テレーズは廊下を挟んで向かいの部屋を使っているし、隣も空き部屋だからこの声が聞こえることはないだろう。
「お前のこの運動能力を越えるんだからあのチビの身体機能はすげぇな。治ったら何になりたがるか楽しみだ」
マックスのわくわくとした声に、私の心は反対に沈んだ。あの子の名前のこともある。やはり考えると眠れそうにない。頭が一杯だ。でもマックスの言うように、子どもたちの前に寝不足の顔では出られない。それは私の都合だからだ。それに、テレーズの前にも。
「……嬢ちゃん、眠れないのはあのチビの名前のせいか?」
マックスの優しい声が足元からするようで、私は俯いた。それもある、けれど今は。
「テレーズのこと、で」
テレーズ、と二人が驚いた声を出したのが聞こえた。上手くやってたと思ったが違ったか、とマックスに訊かれるのを、違うの、と私は否定した。テレーズがどうこうではなくて、自分のせいだと。
「私、あの子の名前を考えていて。ビルに聞いた後、イヴォンヌにも教えてもらったの。それをテレーズに話して、私、テレーズも此処の誰かに名前を貰ったんだと思っていて……違うのね。此処には、新しい名前を貰わずに元々の名前を大切にしている人もいるんだわ。気付いたの。でもテレーズを、傷付けたんじゃないかって思って……」
これをマックスやビルに話すことももしかしたら、傷付けることなのかもしれない。私は誰かを傷付けないと何にも気付けないのだろうか。胸の奥が痛んで眉根を寄せた。
「あぁ、そうか、そういうことか」
マックスはうーん、と考えている様子だった。困らせてしまっているだろうかと思って私が口を開こうとしたら、ビルに先を越された。
「テレーズは此処へ来た時から自分自身をテレーズと呼んでいた。そういう子どもは少なくない。それが名前ではないことも、ままあることだ」
「……」
あー、とマックスはビルの言葉に声を出し、そうだな、と肯定する。
「其処の何か取ってくれって頼んだら頼んだのとは違うチビが反応することがあるんだよ。それはチビが、其処の、って呼ばれて来た証拠だ。それを自分の名前だと思ってる」
「そんな……」
マックスの説明に私は言葉を失った。名前さえない子どもがいることなんて、私には思い付きもしなかった。
「そういう子どもは執着がない。自分のもの、という感覚が薄いからだ。名前を覚えるまでにも時間がかかる。馴染みがない単語が自分を指していると気付かせるためには、根気強く呼んでやるしかない」
ビルが言葉を続けた。あの子どももそういう類の人間だろう、と言う。
「テレーズは理屈としては解っているんだろうが、実感が薄いところがある。彼女にとって名前は記号のひとつでしかなく、自他を区別し、他者を識別するためのものでしかない。其処に込められたものには疎い。自分自身の名前にもだ」
──テレーズって、集めるとか、獲得するとか、そういう意味だっていうのは聞きました。
自分の名前なのに何処か他人事のように話したテレーズの様子を私は思い出す。その意味ばかりに注意が行っていたけれど、テレーズにはどうしてそう付けて貰ったか判らないのだ。でもそんなのは、私だって同じだ。両親がどうして誓いと名付けたか、私にも解ってはいない。
「私だって……自分の名前がどう願われて付けられたものか、判らないわ。私もテレーズも、同じじゃないの……?」
私が零した言葉に、違うな、とビルがはっきりと否定した。




