第24話 夜更け
はぁ、と私は息を吐くとベッドから起き上がった。眠れない。
原因は判っている。名前のことだ。自分が名付けをすることになった異国の子どもと、テレーズのことを考えると眠れない。考えないようにしても眠れない。マックスの提案を聞いてからずっと頭の中に居座っているのを感じる。
テレーズは傷ついているだろうか。顔も覚えていない親のことを訊いてしまったも同然だ。顔も覚えていないなら彼女も幼いうちに奴隷になったり見世物小屋に行ったりした、ということなのだろう。
──テレーズは子どもの頃、魔女様に助けてもらう空想ばかりしていました。此処へ来る前はひどい生活をしていたんです。空想の中の魔女様はいつもテレーズを励ましてくれました。
だから魔女は怖くない、と言ったテレーズを思い出す。ひどい生活の中において彼女を励ましたもの。私は、それにもなれはしないのだと思うと落ち込んだ。魔女と呼ばれても私は魔女じゃないし、彼女を励ますどころか、傷付けただけだ。
寝ても起き上がっても眠気は来ない。ただ溜息が出るばかりで、私はどうにもならなくてベッドから降りる。窓辺に近付いて、そっと開けた。庭に面した部屋でバルコニーが付いている。三階の此処から降りられるわけでも登ってこられるわけでもないから、私はバルコニーの冷たい手摺りに両手を置いた。
夏の夜風が吹いて、花の匂いがした。二ヶ月前に初めて訪れたこの地も季節は進む。三ヶ月を目前に、芳醇な薔薇の香りでも晴れない気分で相当に落ち込んでいることが自分でも分かった。
「どうしよう……」
こんなに誰かと関わることがなかったから、こういう時にどうすれば良いのか分からない。相談したくてもいつも相談する相手はテレーズだから、どうしようもない。このまま朝を迎えそうだし、迎えたとしてきっと私は言い出せないだろう。テレーズの優しさに甘えたまま、こんな気持ちを抱えたまま、これまで通りに振る舞えるだろうか。
「はぁ……」
何度目か分からない溜息を吐いたら、遠くから話し声が聞こえた気がして顔を向けた。顔はまだ見えないけれど、声で判る。
マックスだ。
「だからさ、オレは別に間違えたことは言ってねぇだろ」
マックスの大きすぎる独り言ではない。誰かと会話をしている。でも相手の声は聞こえない。私は何となく、ビルではないかと思った。彼はいつもぼそりと話すし、マックスのように言葉を並べない。必要なことだけを口にしている印象がある。
「あ、何だよ急に止まって」
建物の角からランタンの灯りが見えた。足元を照らすものだから持ち主の顔は見えないけれど、二人分の靴が私のいる場所からでも確認できる。外側を歩いていた人が足の向きを変えて、嬢ちゃん? と呼び掛けた。どうやらその人がマックスらしい。
「こんな時間にどうしたんだ? 眠れないのか?」
隣を歩く人物からランタンを奪い、マックスは頭上に掲げた。私にはマックスの顔がよく見えただけだったけれど、マックスからも私が見えるのだろうか。やめろ、と腕を伸ばして止めたのはビルで、声は聞こえないけれどランタンの灯りで顔が見えた。相変わらず目元は見えないけれど、こんなに暗い外を歩く時もそれで躓かないのだろうかと私は疑問に思う。
「眠れないと日常生活に支障が出るだろ。それともビル、お前がホットミルクでも持ってってやるか?」
ビルは伸ばしていた手を下ろした。夜に婦女子の部屋を訪ねるわけないだろう、と答えたのが風に乗ったのか私にも聞こえる。それにそれは、テレーズの仕事だとも。
「あ、あの、大丈夫。ちょっと眠れないだけだから」
私は少しだけ手摺りから身を乗り出して二人に言った。おー、とマックスは目を細め、ビルを向くと何か口にする。私のところまでは届かなかった。ビルはたじろいだように少しだけ足を後ろに下げ、マックスを止めているようだ。何を考えている、と怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「嬢ちゃん、何かあったか」
「……」
何もない、と言うと嘘になるから私は咄嗟には答えられなかった。でも素直に何かあったと言うのも憚られて黙ってしまう。それはもう何かあったと答えているのと同義で、マックスはまたビルと顔を合わせ、何度か話した。
「は? やるわけないだろう。何を考えているんだ、お前は」
「でも嬢ちゃんを部屋から出すわけにはいかないだろ。オレたちが表立って行くのも良くない」
「だからってそれが許されると思うか」
二人で何か言い合っている。いつもの意見交換とは違っていて、少し怖い。私のせいだろうか。二人に仲違いをさせたいわけではないから私は二人に声をかけようとして、出遅れた。
「嬢ちゃん、そっちに行っても良いか?」
「……え」
私が目を丸くするのと、ビルが片手で目元を覆って盛大に溜息を吐いたのは同時だった。あー、先走りすぎた、とマックスは言葉を続ける。
「二階のバルコニーまでだ。嬢ちゃんの部屋には行かないし、顔も見えない。声だけ聞こえりゃ話はできるからな」
別に変な気を起こすつもりもない、とマックスが冗談めかして言うと、当たり前だとビルに叱られる。
「ビルが嬢ちゃんは伯爵の奥方だって五月蝿いから安心して良い。流石に二階のバルコニーに立ったところで三階には届かねぇし、オレもビルに蹴られるのは怖い」
競走馬みたいなビルに蹴られたら確かに怖いと私も思う。でもそれを簡単に受け入れて良いとも思えなくてまごついていたら、嬢ちゃん、とマックスが諭すように優しい声を出した。
「眠くなるまで話すだけだ。あぁ、あと、体を冷やす前に。それも条件だな。別に断っても良い。でも明日、眠い顔で子どもたちの前には立って欲しくない。どうする、嬢ちゃんが選べ」
掲げたランタンの向こうで、マックスが穏やかに笑った。
2023/07/15の夕方
ビルがビルを止めてたので慌てて修正しました!ドッペルゲンガー事件は解決したはずです!失礼しました!




