第23話 気付かなかった可能性
イヴォンヌの名前は治療時に腕を固定したイチイという木から取ったのだと、あの後彼女は教えてくれた。腕が治るのと同時に新しい人生を歩み出す。その痛みを、それでも支えてくれた。彼女のために懸命になってくれた大人のことを思い出す、大切な名前だと穏やかに笑いながらイヴォンヌは話した。
名前とは贈り物である、ということを私は改めて意識した。どんな人生を送って欲しいか。自分の名前のことを考えた時に、励ましてもらえるような意味を。
当然、自分の名前の意味も考えた。両親で考えて決めてくれたと聞いたことがある。
ジゼルという名前は、誓いという意味なのだそうだ。約束を守る子になって欲しいと願って付けてくれたようだけれど、両親は私に何を誓って欲しかったのだろう。何を、約束して欲しかったのだろう。
手紙でも書けば教えてくれるかもしれない。でも地下施設のことは書けないし、名前のことなんか聞いたら私が伯爵と仲良くしていると勘違いしてしまうかもしれない。結婚式の夜以来、顔を合わせていないなんて書けるはずもないのだから。
これが偽装結婚だと両親が知ったら、どう思うだろう。私を連れ戻しに来るだろうか。でもこの結婚が白紙になってしまったら両親はまた路頭に迷う不安を抱えながら生活しなくてはならなくなる。出戻った私の貰い手は今度こそ絶望的だ。それに、此処の皆や子どもたちとも別れなくてはならなくなるだろう。
それは、ちょっと、もうそうなっても良いとは思えない。今更偽装結婚だと両親に知らせるには此処にいすぎた。伯爵が秘密にしていることだって知ってしまった。行くなと言われていた部屋に行ってしまった私が、無事に帰れる保証はない。あの御伽噺のように。
「……約束するわ。此処にいる」
私は小さく呟く。そういった約束を両親は求めているだろうか。私の名前は、何のために。
「あー! ジゼル奥様、こんなところに!」
イヴォンヌと別れて庭を歩いていた私を非難しながら呼び止める声があった。振り向かなくても分かる元気一杯の声はテレーズだ。
苦笑しながら振り返ったらテレーズが走ってくるところが見えた。纏めた髪が解けかけている。そばかすの浮いた顔は今は怒ろうと眉を吊り上げていて、あ、と私は気が付いた。子どもたちに見せるのと同じ顔だ。
「上に出るならテレーズに声をかけてくださいって言ってるじゃないですか! いくら敷地内だからっておひとりで歩かないでください!」
「敷地内もだめなの?」
首を傾げてみたら、う、とテレーズは詰まった。テレーズも侍女が付き従う理由を知らないのだろう。侍女なんていたことのない私も知らなかった。
「だ、ダメです! 旦那様に言われてるんですっ」
テレーズが叱られるようなことがあったら私も嫌だからそれ以上は反論しなかった。ごめんなさい、と素直に謝る。
伯爵は私が勝手に地下施設へ行かないようにそう言ったのだと思うから、もうその指示に意味はあまりないように思う。けれどテレーズが守ろうとするのを私が無碍にすることはできない。もしかしたらテレーズが此処で働く条件は、私の侍女であること、かもしれないから。
「イヴォンヌのところにいたのよ。お洗濯を手伝いながら、名前のことを訊いていたの」
私が正直にテレーズに打ち明けると、名前ですか、とテレーズは怒りを忘れたのかきょとんとして問い返す。そう、と私は頷いて異国の子どもの名付けをマックスから頼まれたことを説明した。
「ビルからフラヴィの名前を付けた時のことを聞いて、イヴォンヌからも彼女の名前の由来を聞いたの。テレーズにも参考までに訊いてみたいと思うのだけど、良いかしら」
私が尋ねると、うーん、とテレーズは思い出すように視線を上げた。
「テレーズって、集めるとか、獲得するとか、そういう意味だっていうのは聞きました」
素敵だわ、と私は微笑む。誰が付けてくれたの、と尋ねてから先代の伯爵以外には知らないなと気付いた。テレーズはビルやマックス、イヴォンヌよりも歳下で私と同年代だけれど皆がテレーズに名前を付けるには歳が近すぎるような気がしたのだ。
案の定、テレーズはうーんと困ったように眉を下げた。
「テレーズはずっとテレーズですから……多分、親、だと思いますけど……」
「──」
顔も覚えてなくて、とテレーズは困ったように笑った。どうしよう、と私は思う。誰もが新しい名前を貰ったり受け入れたりしているわけではないのだ。そんなことにも私は気付かなかった。
「あ、あのテレーズ……」
ごめんなさい、と続けようとした私の言葉はジゼル奥様は凄いですね、とテレーズの明るい笑顔を見たら臆病さから引っ込んでしまった。ぐ、と喉の奥が狭まって声を出すことも難しくなる。
「もう名付けを任されるなんて流石です! テレーズはそういうのが苦手で……知ってる名前しか分からないし、でもその名前はもう使ってる人がいるし……」
テレーズが気にしていなさそうなのに私が謝ったところでそれは自分が楽になりたいだけじゃないかと思うと何も言えなかった。ジゼル奥様ならきっと良い名前を付けられます! とテレーズが心から信じてくれることが私には何より痛みを覚えたのだった。




