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第22話 誇り高い仕事


「此処まで痛みを堪えて歩きました。取り敢えず医者に行かないと。わたしだってそれくらいは思いつくからね。でもあの辺の医者は風邪とか腹痛くらいなら慣れてるだろうけど、とてもこんな怪我、診てくれないと思ったんです。大きな街に行かなきゃ。そう思って此処に来て、本当に運が良かった。先代の伯爵が目に留めてくれたんです。血をだらだらに流した汚い身なりのわたしを誰もが遠巻きにしていたのに、先代だけはすぐに大丈夫かって声をかけてくださった」


 イヴォンヌは穏やかに笑って言う。通り過ぎたことなら思い出になるのだろうか。そんな風に、笑えるほど。


「わたしが此処に来たのはみんなより遅くて、結構大きくなってからなんですよ。奴隷生活が長かった。どうやって返そうかって悩んでたら、先代はまずゆっくり休んで沢山食べろって言って。それからこんなに背も伸びて、肉も付いた。きっともう、前の家の人が見てもわたしだとは分からない」


 イヴォンヌが外に出ず、此処にいる理由はそれなんじゃないかと私は思う。連れ戻されそうな気がするのかもしれない。それとも、外に出ても誰も助けてくれないと強く感じてしまったのだろうか。やっと得られた安心で、安全な場所から出たくないと思うのは、至極当然のことのような気がした。


「マックスはわたしの怪我を見て、それを治すお医者様を見て、自分も医者になるって思ったようだけどね。わたしはとてもじゃないけど外には出られなかった。それなら此処で働けば良い、ってね、旦那様が言ってくれたんですよ」


 まだ爵位も継ぐ前のこんな坊ちゃんの時だけどね、とイヴォンヌは座る自分の目線くらいに片手を上げる。まさか、と思ったけれどイヴォンヌがいくつくらいの時の話なのか私は知らない。伯爵とイヴォンヌは同世代くらいに見えるし、その時の伯爵は背が低かったのかもしれない。


 伯爵にも子どもの頃があったのか、と私は初めて気付いた気がした。考えてみれば当たり前なのに、結婚式の夜に会った伯爵しか知らないから何となく結びつきづらかった。


「此処では多くの洗濯物が出る。洗濯ならできるか、ってわたしの腕を見ながら言うんです。怪我をするようなこともないし、他にも子どもたちはいる。わたしだけにかまけていられないって。

 できるって言いましたよ。言わなきゃ追い出されるような気がしたし、恩返しもしたかった。先代も喜んでくれました。恩返しをしたいと言うなら子どもたちに返してあげてくれって」


 手はもう治ってたし問題なかった、とイヴォンヌは続ける。掌を握ったり開いたりしながら当時を思い出したのか小さく笑った。酷いですよねぇ、と私に同意を求めるような視線を向けて、それでいて楽しそうなイヴォンヌに私は咄嗟には返せない。


「わたしの手が治ってるのを知りながらそう言うんですから。後はわたしの勇気次第。外に出たくないなら此処で働くしかない。此処なら怖くない。わたしにもできることがある。

 実際、洗濯は良い運動になりました。握れれば取り敢えずは洗えるし。細かいところは他の人にお願いすることもできたし。そうやってずっと洗濯ばっかりやってたらね、いつの間にか外より此処にいたい子たちの入門場所みたいにされちゃったよ」


 イヴォンヌは苦笑する。でもその笑顔はいつも見ている朗らかなもので、私はそれがイヴォンヌにとって良いものであるのだと感じてほっとした。だから安心して口を開く。


「此処でお仕事の指示をするイヴォンヌ、とても格好良いと思うわ」


「格好良い……?」


 イヴォンヌがきょとんとするから、あ、ごめんなさい、と私は口を片手で覆った。女性に格好良いなんて言わないかもしれない。


「洗濯女のわたしが格好良いってジゼル奥様、あんたは言うのかい」


 困ったようにイヴォンヌは笑う。でもその困惑は嫌がっているのとは違っているように見えて、私はおずおずと頷いた。


「だっていつもハキハキしてて、明るくて、太陽みたいな笑顔でいるから。私のことも受け入れてくれるし、話しやすいし、いつもお願いしすぎてないか心配しているのよ。それに皆、あなたのこと慕ってるの分かるわ。安心するもの」


 安心する、とイヴォンヌは私の言葉を繰り返し、それから俯いてくっくと喉の奥で笑った。え、と私が驚いていると今度は顔を上げて、あはは、といつものように笑い声をあげる。


「格好良くて、安心する? ジゼル奥様、あんた旦那様に聞かれたら何て言われるか」


「は、伯爵はいないわ。それに私のことなんて覚えてないだろうし、聞かれたって別に何とも思わないはずよ」


 ひー、とイヴォンヌは笑い転げた。涙まで指で拭いている。


「そんなに笑われるようなこと言ったかしら……」


 しょぼ、と私が肩を落とすと、ああごめん、違う、とイヴォンヌは片手をひらひらと振って否定した。


「嬉しくて。そうか、わたし、ジゼル奥様にそんな風に思ってもらえてたんだねぇ。これは自慢しちゃいそうだよ。あぁ、みんなどんな顔するかなぁ」


「え、や、やっぱりダメ! あなたの立場が悪くなったりしたら……」


 ならないならない、とイヴォンヌはまた片手を振って否定した。一介の洗濯女を奥様が気に入ったとして、立場が悪くなるなんてことあるかい、と笑い飛ばす。


「あぁビルに聞かせてやりたいねぇ。ぷっくく……」


 ビルになんて聞かれたら伯爵の耳にも入るのではないかと思ったけど、伯爵は別に何とも思わないはずだと言ったのは私だ。使用人みたいな妻が使用人のひとりを好いていると知っても、影響はないかもしれない。ソルシエールの娘だから、ということを此処の人たちは気にしないのだと私はようやく思い出した。


「ありがとう、ジゼル奥様。別にこの仕事は嫌いじゃないけどね、何だか誇り高い仕事のように思えたよ」


 イヴォンヌが涙を拭いて嬉しそうに言うから、誇り高い仕事だわ、と私は答えた。


「子どもたちのためにも、屋敷で過ごす人たちのためにも頑張ってくれているのだもの。それも毎日。それって大変で、凄いことだわ」


「……毎日清潔なシーツなんて与えられなかった子どもたちだからね。わたしらは与えられた。だから今度は与える番。ジゼル奥様がそれを理解して手伝ってくれるのは、とっても大切なことだとわたしは思う」


 イヴォンヌの笑顔は木漏れ日のように穏やかで、優しいものだった。誰かを想う優しい気持ち。彼女はそれを此処でもらったのだろう。だから此処で返したいと、渡してあげたいと思う。


 それが彼女の、恩返しなのだ。


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