第21話 述懐──イヴォンヌ
「自分で……」
イヴォンヌの言葉に私はそれってと呟いた。
「凄いわ」
あはは、とイヴォンヌはからりと笑う。頭の天辺で括った髪が合わせて楽しげに揺れた。
「勿論、自分ひとりで育ってきたわけはないですよ。先代の伯爵が手を貸してくれて、面倒を見てくれて、必要なものは全部揃えてくれたからというのは理解してる。みんなね。
旦那様が爵位を継いで同じようにしてくれてること、わたしらは感謝してるのさ。子どもたちの未来を狭めないように、自分で選んでいけるように、今でも尽力してくれてる。例えばフラヴィも、いつかきっと自分で選んでいく。此処を出るか、留まるか、まずは其処から」
子どもの成長ってのはあっという間でね、とイヴォンヌは目を閉じた。わたしらもそうだったのかねぇ、と懐かしむように言う彼女だって私より両手で足りる数しか違わなさそうなのに。でもそれだけ彼女が見守ってきた子どもたちは多いのかもしれない。それはつまり、子どもの奴隷がそれだけいるということにもなるけれど。
「フラヴィは外に出るのを楽しみにしているんじゃないかと思うけど」
「あぁ、あれは地下から外に出るのを楽しみにしてるだけさ。しばらく見ない外に憧れてるだけですよ。いざ働きに出るという時に此処の外に出るか出ないか、出たいか出たくないか、判るんだ」
まるで知っているかのように話すから私が首を傾げると、わたしがそうだからね、とイヴォンヌは苦笑した。寂しげな笑顔に見えて、私は驚く。
「外が怖いところだと知っていて、それでも尚マックスみたいに飛び出していける奴もいる。マックスは何処でもどんな場所でも恐怖を捻じ伏せて飛び込んでいくから凄いと思うよ。わたしには、できなかった」
「イヴォンヌ……」
話したくないことなら、と言いかけた私を、ジゼル奥様は優しいねぇ、とイヴォンヌは笑った。そんなことはない。私はただ、臆病なだけだ。イヴォンヌが地下出身だと言うなら彼女にもあるのだ。フラヴィのような、過去が。
私は首を振って俯いた。下げた視線の先にはイヴォンヌの袖を捲った腕がある。右腕に走る、縫合の痕。マックスと同年代だからマックスの処置を受けたはずはない。他の医者が施した治療の痕だ。
「わたしは学もないし、学んでも身に付かなかった。言葉遣いだってこんなだから、本来ならこんな伯爵様のお屋敷で働けるわけがないんですよ。奴隷にも階級みたいなのはあってね、奴隷とは思えないくらい有能な奴もいる。マックスなんかはその代表だと思うけど、あんなだからね。好きなことやって、でも何処で学んだんだか医者の技術は身に付けて来て、旦那様が許すから子どもたちの治療をする。正式には認められなくてもあの腕を認められて診療に出かけることもある。凄いと思うよ。自由だ」
自由だ、と言うイヴォンヌの声には憧れが滲んでいる気がした。外に憧れるフラヴィの声と同じ響きがする。
「わたしは女にしては大柄な方で力がある方だから、洗濯女くらいしかできることはない。意外と力仕事だからね。それは良かったなって思ってるけど、他の屋敷で洗濯女をしたいかと言うと、そうでもないんです」
洗濯のために大タライの前に座り込んでいると判らないし忘れがちになるけれど、イヴォンヌは確かに背が高い。それに濡れて重たい洗濯物も他の使用人に比べたら楽々に持ち上げる。手際も良くてイヴォンヌが洗濯を担当する使用人たちを仕切っているのは納得でもあったのだけれど。
「この腕は」
イヴォンヌは自分の腕に触れた。縫合痕を掌全体で撫でるようにして、そっと優しく。
「此処に来た時、先代の伯爵が呼んだ医者が治してくれたんです」
此処に来る前は街の外れで奴隷として働いていたとイヴォンヌは言う。畑仕事をする人が多く、その労働力として買われたと。大した額じゃなかった、とイヴォンヌは言う。でもその家の人にとっては大金だったと。人ひとりの値段だからね、とイヴォンヌが流れるように言うそれが目の前を通り過ぎて行ってしまうのを、私はなす術もなく見送った。
「ジゼル奥様、知ってますか。農具ってのは結構危険なんですよ。意外に機械化も進んで来てる。でもそれを動かすのは人力でね。収穫時期の忙しい時だった。わたしはその農具で、この腕のところをやられちゃって」
骨が飛び出しちゃったんですよ、とイヴォンヌはありふれたことのように口にした。骨、と私は絶句する。骨って。あの、骨のことなの。フラヴィの治療のためにマックスが折っている、その骨のこと?
「その家の人にはわたしを医者に診せるお金まではなかった。加えて収穫時期。お金が入るのはまだ少し先。奴隷は消耗品、替えがきくもの、壊れたなら新しいものを買った方が効率的。医者に診せてもわたしが使えるようになるまでには時間がかかる。それならこれから入るお金で新しい奴隷を買った方が良い。そう思ったんでしょう。わたしは何年も何年も尽してきた家の人に、捨てられた」
「……っ」
胸の奥をぎゅっと冷たい手で掴まれたような気がした。イヴォンヌにとってはもう過ぎたことなのかもしれない。だからこんなに、さらりと言えるのだろうか。私はその言葉の強さひとつひとつに、胸の奥が締め付けられるような思いがするのに。
でもそれはイヴォンヌに起きたことだ。だから私はそれから目を逸らしてはいけない。彼女が乗り越えて来たことなら、それを聞きたいと思ったから。




