第18話 記録──フラヴィ
「行っちゃった……」
ビルと私を残してマックスは部屋を出て行ってしまった。正直な話、ビルと二人にしないで欲しい。私はまだビルが苦手だ。話しづらい。不機嫌そうな様子が今も伝わってくる。
「ご、ごめんなさい……」
「何故あなたが謝る」
思わず謝罪を口にした私に、ビルは不機嫌そうに返した。ビルは私とも他の皆と同じように接することにしたらしい。もうほとんど畏まることはない。飾られない言葉は直球で、うわぁ、失敗した、と思ったけれど更に謝っても意味がないのは解るから、その、と何とか釈明しようとした。
「足手纏いというか、慣れてないのに。あなたの負担が増えるばかりで……」
私が答えると、そんなことか、とビルは溜息と共に言う。誰だって初めは何事も初心者だ、と。
「これまで名前を付けたことは?」
「な、ないわ。育てた植物にも名前を付けるようなことはなかったし、うちは動物も飼ってなかったし」
正確には飼う余裕がなかった、のだけれど細かいところは省いた。ソルシエールが金銭的に余裕がなかったことくらいビルも知っていそうだし、わざわざ実家の恥を口にする必要もない。両親が路頭に迷わないために私が此処へ来たことも。
「俺もそんなに名付けの経験があるわけじゃないんだが……」
ビルは考え込むように腕を組んだ。此処で話し合う時、ビルがよくする仕草だった。それから脚を組む。すらりとした長い脚だ。伯爵の身代わりを務めることもあるのかと思った時もあったけれど、今とても口には出せない。ビルとそんなことを話す間柄になれるほど長く過ごしたこともなかった。いつも誰かが一緒だったし、二人だけで話すなんて初めてかもしれない。
「でもフラヴィの名前はあなたが付けたんでしょう? どうやったの?」
マックスに言われたのもあって私はビルに尋ねた。兎にも角にも訊かずに分かることはないし、ひとりでうんうん考えていても仕方ない。此処を出てテレーズや他の人に訊くこともできるけれど、それはビルを無視することになる。
ビルは私を嫌いかもしれない。でも、あの子の名付けに私を挙げてくれたのがビルだと言うなら、私はそれから逃げてはいけないのだ。大人の都合や事情に子どもを巻き込むようなことがあってはならないと、マックスの話を聞いていると強く思うから。それに此処へ連れてきた時点でもう充分に、巻き込んでいる。これ以上振り回したくない。
「……あの子は、前にいたところで其処の夫人に酷く虐げられていた」
「……」
ビルは記録を取り出し、私の前に広げて置いた。フラヴィの記録だ。前にも目を通したことがある。再び其処に記録された文字を追いながら私は目を伏せた。
彼女があんなに“奥様”を怖がるのはその過去のせいだ。此処へ来てまだ一年にも満たない。けれどあんなに人懐こく笑えるのは此処に“奥様”がいないからだと、私は思った。
まだ、やっと片手で数える歳を超えたばかりの幼い少女が奴隷としてとある商人の家に買われた。彼女の両親のことは一切分からない。元いた商人も其処までは調べなかったようだ。ただ異国の血が入っていないこと、実年齢よりもその時はもっと幼く見えたことが理由だったという。
彼女を買った商人は、病んだ妻が人形を求めたからだと語った。やっと授かった子を僅か数年で失い、来る日も来る日も失った我が子を想って泣く夫人は遂に、心を病んだ。ある日、奴隷商人が連れている奴隷の中に我が子に似た女の子を見つけ、帰るわよと手を引いたものだから夫は言い値で買う外なかったと語られていた。
似ていると思ったのは夫人だけだったらしく、歓迎したのも夫人だけだったようだ。けれど貧しい家から目先のお金のために差し出された子はほとんど教育を受けておらず、いちから教えなくてはならない。夫人が望むように食器を持てなければ食事を抜かれ、泣けば声が五月蝿いと骨が折れるほど棒で腕を叩かれ屋根裏部屋へ閉じ込められた。彼女が生き抜くには、其処で求められる技術を身につけるしかなかったのだ。
夫人は病んでいた。夫人が面倒を見なければ商人の家では誰も彼女に触れることは許されず、代わりに面倒を見てはやれなかった。治療もされなかった彼女の腕は歪み、満足には動かない。その腕はドレスで覆い隠された。自由に着せ替えられる人形が手元にあって夫人は満足そうだったと言う。温かくて、生きている従順な人形。
見て見ぬ振りをされ、夫人の人形として求められる機能だけを発達させた彼女は、笑顔の可愛い女の子になった。食事にありつくために、命を繋ぐために、他の全てをかなぐり捨てた。全て、“奥様”のために。
けれど夫人は急逝する。生きている人形を家に抱える必要がなくなった商人は、彼女を奴隷商人に売り渡した。再び奴隷商人の元へ帰った彼女が次に目を留められたのは、伯爵だ。伯爵はその話と共に引き取ったと言う。子どもとはいえ、腕の使えない奴隷の行く末は限られる。綺麗にされていたから多少値を釣り上げられたが、それでも伯爵は買った。購入金額も記録されていた。それが彼女の、命の値段なのだと思って私は愕然としたのを覚えている。
──可哀想だと思うか。
最初にフラヴィの記録を読んだ時に青褪めた私の顔を見てビルが尋ねた。可哀想とか、そんな風に思うことさえ赦されない気がして何と言ったものか、と私が言葉を喪っていると、それがあの子の人生だ、とビルは言った。
これが奴隷の、人として扱われない子どもの人生なのかと思うと、何も言えることはない。
「あなたはフラヴィの人生を知って、それから名前を付けたの……?」
私がそっと問いかけると、ビルは薄い唇を開いた。




