重い女
ほんのわずかですが、武器が出たので、残酷な描写ありとしました。決して怖い、怖すぎる話ではありません。ちょっと怖いくらいです。
この作品はフィクションです。実際の場所、団体等とは一切関係ありません。
男、波太郎。齢三十一にしてここに人生最大のピンチを迎えていた。
さゆ子は右手に殺傷力のある包丁を装備、長さは推定十五センチ。今にも飛びかかってきそうな勢いでこちらを睨みつけている。体勢をやや落とし、時折包丁を前にスイングする様子は、泣く子はいねぇが、でお馴染みなまはげが部屋の中に入ってきたところを想像して頂ければ、この緊迫感が伝わるだろうか。
一瞬たりとも目が離せない危険な状態だが、状況を整理するためにもなぜこうなったのか振り返ってみよう。
一週間くらい前の話だ。
その日は台風一過の青空で朝から空気が澄んでいた。いつものバス停を降り、歩いて会社に向かっている途中、後ろから追い抜いてきた女性が転びそうになって、反射的に手を出した。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ゴメンなさい。ありがとうございますギャアァ!」
その女性は社交辞令のような笑顔を見せるが、俺の顔を見た途端絶叫した。
「な、なんですか?」
「し、失礼しました」
何に驚いたのか判然としないまま、女性は駆け足でその場を去っていった。残された波太郎は周囲から白い目で見られて一気に最悪の気分に落とされた。
次の日、同じ道、同じ時間、歩道橋の上で何かが光ったのが見えた。不思議に思って立ち止まり、その辺りを凝視すると双眼鏡を覗き込む女性の姿があった。
「あ、ああ、あの、ゼェ、この間は、ングッ、ビックリさせてしまい、ゼェ、ハァ、申しわけ、ありませんでした、ハァ、ハァ」
女性は歩道橋から駆け足で波太郎の前までやってくると、荒い息遣いのまま開口一番頭を下げた。長い黒髪が顔を覆いつくし肩で息をする様子は、まるで貞子が襲いかかってくるようで怖いくらいだ。
「いえ、もう結構です。先を急ぎますので」
波太郎は一言断って、返事も聞かず他のビジネスマンに紛れるようにその場を後にした。
次の日も、その次の日も女性はストーカーのように待ち伏せして深々と頭を下げてきた。その執拗な行動に悩まされ、悪夢を見るようになった。
「もういいって言ってるじゃないですか」
波太郎は懇願するように声を絞り出す。女性はやっと顔を上げてくれた。その顔はとても爽やかな笑顔だった。
平凡な生活をしてきた波太郎は、初めて女性を好きになった。この現象をなんとか症候群と言うらしい。
女性の名はさゆ子。二十三歳。今はフォトグラファーをしているそうだ。
そんなさゆ子が今、刃物を手にジリジリと距離を詰めてきている。とにかく獲物をどうにか処理せねばと、部屋で使えそうな武器を探す。
ガラステーブルにテレビ、Tシャツやブレザーが掛かったハンガーラック。
そうだ。思いついてハンガーにすばやく手を伸ばすと、すぐさまさゆ子の獲物に向けて投げつけた。
さゆ子は予知していたかのように大きく右へ飛ぶ。その幅は尋常じゃ無かった。
波太郎は夢中でハンガーラックを持ち上げると服ごとさゆ子めがけて放り投げた。
ガシャン。大きな音で目が覚めた。目覚まし時計が床に転がっだのだ。
傍らにはさゆ子が寝息を立てて眠っていた。また悪夢を見ていたのか。波太郎はさゆ子が起きないように腕をそっと抜いて洗面台へ向かった。
鏡の前には真新しい色違いのコップと歯ブラシが二組。波太郎は顔を水で洗って寝癖を直した。
目玉焼きとトーストを二枚。焼ける音と匂いで気づいたのか、さゆ子が目をこすりながら起きてきた。
今日は付き合い始めて初めての日曜日。上野動物園へ行く予定だ。
最初の印象が悪すぎたせいか、今はとても綺麗に見えた。さゆ子は照れながら風呂場に消えていった。
上野動物園のパンダは今日も大盛況。中でもシャンシャン人気は凄まじい。グッズもたくさんあるし、どこも長い行列ができていた。
さゆ子は自前の一眼レフカメラを手に、熱心に動物を撮影していた。特にパンダは紙芝居にでもするのかと思うほど連写して、その愛くるしい姿を追いかけていた。
楽しい一日はあっという間だった。さゆ子のパンダ愛には正直驚いている。
帰ってくると、早速写真をパソコンに取り込み上映会が始まった。画面を見ながらうっとりするさゆ子に波太郎も満足げだった。
急にさゆ子が写真を見たいと言い出した。今、見てるじゃ無いかと言ったら、波太郎が持ってる写真を見てみたいという。
写真なんてカメラもないし持ってないと答えると、そんなこと無いと強く反発してきた。さっきまでの空気は吹っ飛び、重苦しい雰囲気が漂う。
何を言ってるのか分からないと弁解するが、嘘だ、絶対嘘だと語気を強めてまくし立ててくる。
「あの日、私はパンダを見に行った。パンダに会いに行ったの」
「はい?」
波太郎はあっけにとられた。さゆ子はそれでも話を続けた。
「それをあなたに邪魔された。私はその日、パンダに会うことが出来なかった」
さゆ子は目に涙を浮かべ、それでも気丈に話を続けた。
「あなたはパンダの最後を見た。私は見られなかった」
「一体何を」
そう言いかけて波太郎は愕然とした。画面に映っていたのはパンダでは無かった。
ホッキョクグマだったのだ。一覧を見てもパンダの写真は一枚も無かった。
波太郎は自分の記憶に混乱していた。慌ててパソコンでブラウザを開いて検索すると、シャンシャンは二〇二三年二月二一日、中国の施設へ返還されていた。
唖然とする俺に向かってさゆ子は獲物を手に仁王立ちしていた。そして何の躊躇いも無くそれは振り下ろされた。
ガシャン。大きな音で目が覚めた。大量の汗をかきシャツはひんやり冷たかった。
どうやらまた悪夢を見たらしい。波太郎は重い腰を上げて洗面台へ向かった。鏡の前には青いコップと歯ブラシが一組。
水で顔を洗い会社へ向かう準備を始めた。
いつものバス停を降り、歩いて会社へ向かう。朝の通勤時間帯は皆が誰かに追われるように無心に歩き続ける。そんな中、後ろから小走りで駆け寄ってくる足音が聞こえた。立ち止まって振り返ると、まるで全てが止まったように、喧騒はかき消えた。
実際にはほんの一瞬の事だが波太郎の頭の中ではこれまでの悪夢が走馬灯のように駆け抜けた。そして一つの答えを導き出した。
「突然ですけど、今度、パンダ、一緒に見に行きませんか?」
「え、でも」
「勿論、中国にいるシャンシャンに会いに」
戸惑う彼女に波太郎は笑顔で声を掛けた。そしてスマホを操作して写真を見せる。
それは上野動物園で撮影された笹をほおばるパンダの姿だった。
彼女は驚くように声を上げた。なんで知っているのかと。
「虫の知らせってやつかな」
波太郎は笑った。彼女もつられて笑った。
彼女はさゆ子。二十三歳。パンダを愛するフォトグラファーだ。
ここだけの話、波太郎は上野動物園に行ったことが無い。あれはネットから拾った写真だ。きっと悪夢で見た彼女の思い違いだろうがコレも何かの縁だ。世界のことわりは時として冗談のような偶然をもたらすのだ。
写真を見せた時の彼女の反応でわかった。悪夢と現実は同一。ならばこれであの悪夢から卒業できればありがたいのだが。
いつも最後まで読んで頂きありがとうございます。
まさかの展開にみなさん、度肝を抜かれたと……いや、ありきたりのオチに、うんざりしているかと思います。許してください。
なんとか症候群はストックホルム症候群、ミズーリ症候群、トラウマ・ボンディングなどが考えられるそうですが、バッチリコレというのが思いつかなかったので、ぼかしました。
どこまでがリアルでどこまでが夢か。書いていてわからなくなりました。
実は私も上野動物園には言ったことがありません。いつか行ってみたいです。パンダは癒やされますよね。ホッキョクグマも格好いいと思います。
今後もよろしくお願いします。いいね、レビュー、評価もお待ちしておりますよ。では。