第3話 「本能人。その名はコウ」
「ただいまです」
部屋に上がったのはスイと——
「おー! トカゲちゃん!!」
——背の低い少女であった。
「なんだ、客か......」
「客って......竜さん、ここは私の部屋ですけど——って! ああ! 土足で上がらないで!!」
あまりの暴挙に思わず、スイは叫んだ。
見ると、明るい髪の少女は何の躊躇いもなく靴を履いたままで部屋に上がり込んでいたのだ。家主よりも先に。
だが、スイはそれほど怒った様子ではなく、軽く注意した程度だ。
仕方なく、彼女は雑巾を持ってくる。
「ほら、雑巾。ちゃんと拭いてね」
「はーい! 了解だよウスイちゃん!!」
「ウスイちゃんって呼ぶな!」
すかさずツッコミをいれる。
スイは傍らで、何やら自らの胸を気にしていた。
......ったく、どっちの方が薄いのかなんて見たらわかるじゃない......ブツブツ。
落ち込んだスイとは対照的にコウは汚れを吹き終わると、両手を広げてはしゃぎ回る。
「やれやれ。竜さん、寝起きなのにあんなに騒いじゃってすみません。あれは私の友人です。幼馴染ではないですけど、付き合いはいちばん長いです」
手を伸ばし、クルクルと回っていたコウは、突然、何かを思い出したかのようにダンボールに駆け寄った。
「そうだ! トカゲちゃん! かーわいー!!」
「む、我のことか? 失敬な。我は竜であるぞ」
竜という突拍子のない単語に、彼女は窮する......かと思われたが、全くの逆だった。というか、耳に入っていなかった。
目を輝かせ、ダンボールに寄りかかる。顔を竜さんにこれでもかと寄せ、叫んだ。
「ていうか、喋ってるしー!!」
竜さんは露骨に嫌そうな表情を浮かべ、スイに助けを求めているが如き視線を送る。
「こーら、コウ、竜さんが困ってるじゃない。自己紹介しなさい」
「はーい! あたし、稲持コウ!! ウスイちゃんのカラテ仲間!! トカゲちゃんのことはスイに聞いたよー!!」
第一印象は元気いっぱい、天真爛漫な笑顔を浮かべている。
正反対の雰囲気を持つスイとコウは互いに親友というのだから驚愕ものである。
だが、先程からコウの口から放たれる『ウスイちゃん』とは誰だろうか。
「......私、ハイドウスイでウスイちゃんです」
でも薄くないもん......スイはぼそぼそと拗ねる。そう、悩むほどに薄い訳では無いのであるが。コウを始めとするカラテ仲間、バイト先の後輩にも言われっ放しだ。
「トカゲちゃんはなんて言う名前なの!?」
「ファーグレイニウス。なんとでも呼ぶが良い」
「ファー......なんだっけ? やっぱり、トカゲちゃんでいいやー!!」
この間、僅か2秒。話は聞かないし、聞いたとしても、この『頭』なのである。
その時、またしてもインターホンが鳴った。スイは既に察した様子で、足取り重く玄関へ向かう。
恐る恐る、扉に手をかけた。
思った通りの白髪混じりのおばさま————大家さんだった。
「こんちゃ。お宅がうるさいって言われちゃってね。友達同士でたむろするのはいいけど、静かにね。如何せん時間が時間なものだから」
「すみません! ちゃんと言いつけますので......」
そんな常套句を聞くまでもなく、部屋の中を一瞥した大家さん。アレを発見した瞬間に眉がピクリと動いた。
「んー.........ま、爬虫類は迷惑かかんないわな。ただお隣さん方には内緒にね」
小声で囁く。
「あ、ありがとうございます」
釣られてスイの方も小声になる。
じゃ、と今度は部屋の中に向け、手を振った。
スイが振り返ると、コウが両手を大きく振っていた——あっ危ない! 割れる! 私のマグが!!
「やっと落ち着きましたね。はい、お夕飯です。トカゲは何が食べられるとか分からなかったので、人に戻って、同じお弁当を頂きましょう?」
む、と1音だけ声を漏らし、竜さんはダンボールから離れる。
その隙に、スイはあらかじめタオルを持ってきた。
コウは黙ってソファに座りながら期待をしているようであった。
「変身!!」
竜さんの体が光を放つ。垣間見えるシルエットは、ミケランジェロの彫刻そのものだった。
まだあれが露になってしまわないうちにタオルを投げかけた。
「えっ? ト、トカゲちゃん!?」
これには流石のコウも驚き戸惑う。
事前にコウに知らせていたのは、喋るトカゲが家に来た、という事だけだったからだ。
ここで、コウがどう反応するのか。約十数年来の仲として——分からないわけがなかった。すぐさま目を輝かせて、寄ってゆくだろう。
「うぇー......かわいくないのー」
——分からなかった。
理性を介さずに物を言うのがコウである。確かに、相手に言いにくいことなど1つとしてなかったが。
静まり返った約8畳の部屋の中、1人、長身の男が突っ立っている。
「あ、どうぞ。座ってください」
男は無言のまま、指示に従いソファに腰かけた。
————『無』だ。
矛盾を含んだ言い回しであるが、『無』がこの空間を包み込んでいる。
依然として無表情の竜さん、その対岸に座すのが、すっかり消えてなくなってしまった好奇心のコウ。
——私はそんな彼らを横から眺めるだけであった。
やがて耐えられなくなり、口を開く。
「ご飯頂きましょう? お話でもしながら」
「ああ、そうだな」
抑揚のない声で竜さんは答える。見かけによらず、相当ナイーブなのだな、この竜は。
3人は食べ始めたが、割り箸の使い方を知らない竜さんは苦戦していた。
その姿は容姿も相まってますます異国人である。
「あ、そうそうウスイちゃん。リョウくんが日本に帰ってきたって」
その話題は竜さんではなかった。
「え、そうなの? やっぱり写真集、出しちゃうのかなぁ。大赤字になるに決まってるのに......」
そう言いながらも、写真家として活動する友人の方が自身なんかよりもよっぽど立派だと思う。
「美味であった」
いつの間にやら弁当を平らげて、合掌をする。竜は箸がなくとも、その文化はあるのか。
「あれー!? お箸ないじゃん!」
確かになかった。まさか......
「食べちゃったのー?」
あの割り箸を?
「あはは!! トカゲちゃんすごい!!」
すごい!?
「左様。我はすごい」
えっ?
「いや、待ってくださいよ。食べちゃったんですか?」
頭は縦に振られた。
「美味しかったー?」
「悪くない」
スイはへなへなと座り込んだ。
割り箸を食べたらどうなるのだろうか。
噛めば噛むほど、木材の繊維が刺さりそうだが。
「そう案ずるな。もとより木は竜にとっての食物だ」
そうは言うものの、焦るスイ。
「楽になるといい。それもこやつのように」
指さすはコウだった。
「人生楽しそうだよね、コウって。なんだかんだ空手で1番とっちゃったし」
そしてスイはそれを観客席から眺めていた。
「えへへー」
コウの思考回路、それはスイにとってみたら最も縁遠いものかもしれない。
でも、自由だろうな......
「フッ、我は気に入ったぞ」
竜さんは腕を組んでうんうんと頷いている。
私もそんな彼女の性格に惹かれたのだ。だけど、彼女の笑顔は眩しすぎた。私とは違うんだ。
だから、私は彼女の後ろに立つ。眺めるのはいつだって、私よりも小さいその背中なのだ。
そう、いつまで経っても、このままなのだろう......
竜さんが語り始める。今度は聞き流さないと構えて耳を傾けた。
「理性は龍が譲りし宝のひとつだ。遠く先の未来を視、焦点を絞る『双眼鏡』だ。ピントが合うのは遠く離れた場所のみ。目標に近づいてもなお、『双眼鏡』のままならば......目標を見失うだけなのだ」
珍しく真剣に話を聞いていたコウが口を開く。
「まっ、ほどほどにってことだよね!」
左様、と竜さんが答える。この2人は、出会って1時間も経たぬうちに仲が良くなっている。
やはり、コウ特有の明るさは恐ろしい。どんな人をも惹きつけるのその力は。
あんなアホの子よりも私の方がずっと真面目なのに......
時刻は23時を回り、流石に3人とも眠くなってきた頃だ。
「あたしがベッドで寝るー!!」
コウはベッドで飛び跳ねる。
すかさずスイが制止したが、明日の朝にまた大家さんから苦情が届くかもしれない。そう考えると、眠るのすら億劫になってしまう。
結局、スイはソファ、竜さんは専用のベッド、コウが家主のベッドに落ち着いた。スイが折れたとも言う。
スイにとって、座りながら寝るのなんて、学生時代でも有り得なかったことだ。
予想はしていたが、寝付けない。
窓から射し込む月明かりすらも気に障る。思い切ってベランダに出てみた。
ベランダから覗く川にも青白く光る月が浮かんでいる。
太陽とはまた違う、優しい光だ。静かな夜、街の喧騒は空に吸い込まれる。
真ん丸の月を全身で感じるために、顔を上にやった。
何もかもが真っ黒の夜に溶け込んでゆく。その中で、スイだけが月光に包まれる。
............。
波一つ立たない心の中に、心配事が波紋と共に浮かんできた。
せっかく映し出された輝きが崩れてゆく。
目を開けても、依然、暗いままだった。
大きい大きい何かが月の下を横切っている。スイはちょうど影になってしまっていたのだった。
「あれは————竜!?」
スイは己の目を疑った。