第2話 「Daily life with the Dragon」
ピピピッという電子音が部屋中にけたたましく響いた。
すぐさまベッドから手が伸びてアラームを止める。すると今度は、外から小鳥のさえずりが聞こえた。
なんて気持ちの良い朝だろうか。これで二度寝をするのは勿体無い。
欠伸混じりの背伸びを一つ。目を擦ること二回。
いつも通りにリビングへ向かうと、テーブルの上に、『イハヤ運輸』と文字が入っているダンボールが置いてあった。
——宅配なんてあったっけ?
「え? ......あ、ああ。そっか」
寝ぼけた頭が冴え始める。
テーブルへと歩み寄ってダンボールを開け、中を覗いた。
そこには1匹のトカゲが寝転がっている。
「......誰だ。我が眠りを妨げる愚か者は」
なかなかに機嫌が悪そうだ。
「おはようございます」
「貴様か。愚か者よ、陰に還るがよい。我が古の魔法で......」
何やらブツブツと唱え始めた。これが噂に聞く、もといゲームでよくある詠唱というものだろうか。
スイは口に手を添え、メガホンを作る。深く息を吸って詠唱を中断させた。
「竜さーん! 寝ぼけないで起きてくださーい!! 私です!!!!」
竜さんは怯み、本物のトカゲさながら慌てた様子で、ダンボールを駆け上がろうとするが、脚が滑ってカサカサと音を立てるだけに終わった。
段々と動きが遅くなっていって、ピタッと動きが完全に停止する。
「......思い出した。昨晩は世話になったな」
少し恥ずかしそうに弁解する。
「いえいえー、こちらこそ久々に楽しめましたよ」
世話というのも、彼女は昨夜遅くまで、ダンボールを使ったトカゲ用の寝床を作ったのだった。
このダンボールは引越し当初、机代わりに使っていたもので、なかなか捨てきれずにいたものだ。こういう風に転用して、またこのダンボールと共生出来ると思うと、嬉しさすら感じる。
あの後からだろうか、スイは愛着を通り越した、失うという恐怖による依存性すら持ち合わせているのだ。
スイには昨日の明日、つまり今日には大切な用事があったのだが、いずれにせよ寝付けないだろうからと夜更かしをし、ダンボールベッドを作ったのだ。
意外にもよく眠れた気がする。息抜きの重要性を改めて実感したスイであった。
「して、我はこの姿のままか、人間態か、どちらの方の勝手がいいだろうか」
「小さい方で居てくれたら、圧迫感もないし、きっと餌......じゃなかったご飯も少なく済みますし」
「あいわかった、このままで居よう。スイも胸部の鎧を外してよいだろう」
「へ? なんて......?」
不意を突かれた気がする。『よろい』と聞こえたが、理解が追いつかない。
「鎧を外して構わないと言ったのだ」
「『よろい』って言ったら......身を守るあの鎧ですか?」
「それ以外に何があるのか」
それ以外に何も無いから尋ねているのだ。鎧のようなものと言えば、服と......アレくらいのものだが。
「そんな物騒なの着けてないんですけど」
「ああ、ならばそれは胸筋か」
——そう、視線の先は、それだったのだ。
「ばっ、変態......!!」
平手打ちをしようと思ったが、流石のスイでも小動物には手は出せなかった。
「私、女ですからね......ブツブツ」
怒りを滲ませつつ、ぼやいた。
——デリカシーは無いのか、この世間知らずめ。
朝っぱらからこんなに頭に血が上るとは思いもしなかった。心做しか、顔が熱い。
もっと大きかったら何も思わなかっただろうが、なぁ。スイはこれ以上考えるのをやめた。
しばらく経ってから竜さんは顎に前足を添え、口を開く。
「ふうむ。オンナとは聞いたことがないな」
予想外の質問に、逆に質問で返したくなる。先程からお互いの会話が成り立たない。
流石に男性女性を知らない、なんてことはないと思うのだが、確認を取ってみる。
「女ですよ。オ・ン・ナ。雌とか女性とかと同じです」
「・・・・・・?」
赤ん坊のような無邪気な竜さんの顔に疑問符が浮かんでいる。
——やれやれ、本当に不思議なのはこっちなのに......どうして、性別を知らないでいられようか。
——スイは仕方なく、一般的な性別について説明した。
「なるほど、我が山に訪れる者に女はいなかったわけだ」
彼が女というのを知らなかったのは、ずっと山に引き篭っていたかららしい。彼には使いのトカゲが何匹かいるそうだが、彼らもまたオスなんだという。
「竜さんの方から人と会ったりはしなかったんですか?」
「覚えている限りは、ない。いや、絶対ない」
確かに、神話上の竜も山に引き篭るイメージがある。
世間知らず、という言い方もできるだろうが敢えてそうはしなかった。
何故ならスイもまた引き篭りがちで『世間知らず』だったからだ。
そんな引き篭り生活からの脱却も、今日の出来次第だ。
今日の大切な用事とは――就職面接だ。
今日の面接が、これからの人生を左右すると言っても過言ではない。
事務職でもなんでも『どんと来い』なスイに対し、先方は毎回の事ながら、『Don't来い』と言わんばかりの仕打ちをするのだ。
——おのれ、お祈りメール。お祈りとは現代の科学に満ち溢れた世界には縁遠いものではなかったのか。頭が痛くなってきたぞ。
「さ、いよいよ最後の面接に行ってきますかね」
スーツを丁寧に引っ張りだす。いそいそと部屋の中を動くついでに、竜さんのために去年使わなかったカイロを置いてあげた。
暖房を付けっぱなしにしておけば、ただでさえ薄いスイの財布が売り飛ばされてしまう。
うんうんと頷きながら、竜さんは腕を組む。
「ああ、己を信ずると良い。真の闘いはそこにある」
竜さんは何やら深い話をしているが、スイはそれを身支度しながらで半分聞き流してしまった。
鏡の前で3分間、身だしなみの確認も怠らずにやる。
兜の緒を締めて、戦場に臨む。
もはや中身は変えられないから、外見で勝負する。愛想笑いのプロフェッショナルの意地を見せつけてやるのだ。
大丈夫だ。それほどには経験がある。
向こうが百戦錬磨の面接官なら、こちらは百折不撓の挑戦者だ。
——意気込んだものの、負けた経験しか無い。
「では、武運を祈る」
竜さんは玄関までついてきて見送ってくれた。
「はい、ありがとうございます」
スイは手をひらひらと振って部屋を出ていった。
——その心は、きっと厳しいものだろう。何千年もの間、絶えず人々と触れ合った竜の経験がものを言う。
ファーグレイニウスは、出逢う竜と書いて、逢竜と呼ばれたものだ。
彼女が外出する間、ファーグレイニウスは寝ることにしていた。トカゲの身体のままで居ると、すぐに眠くなってしまうからだ。
竜でいた時も寝っぱなしだった彼にとっては、何ら変わりのない習慣である。
のっそのっそと例のダンボールベッドまで這っていく。
寝心地の良さというのは以前には無かったもので、すっかり気に入ってしまった。
——思えば、竜でいるよりも、ここで寝て暮らす方が楽も楽で、わざわざ帰る必要はないのではないか。
「......腑抜けどもはどうしているのか」
脳裏に過ぎるのは、彼の使いのことであった。
昨晩に呼び出そうとしたラーシャも3匹の使いの1人である。
その使いが傍に控えていなければ、悠々と横になることは適わなかった。それほどまでに彼の首を取ろうとする人間が多かったのだ。
「奴らは......フッ、心配するまでもないか」
まどろみながら、使いの姿を想起した。
——魔の山と呼ばれるそこには、かつて災いと呼ばれた『逢竜』が巣食うと伝えられている。
その山に挑む者はみな強欲であった。
富、名声、そして平和のため。
全ては幸福のための仕草であった。
人々の間では、逢竜は悪縁を呼び寄せるとも伝えられていた。その竜が何をせずとも、勝手に混乱を引き起こすような出逢いを作ってしまう。
だからこそ人々は結束して、竜を討たんとしたのだ。逢竜だけではない、六竜すべてをだ。
だが……迷い込む者がいなかった訳では無い。
逢竜の逢竜たる所以は廻り逢うことにある。
————あの夜は新月であった。
どこからともなく聞こえるすすり泣く声に目を覚ました逢竜は、声のする方を向く。
小さな小さな女の子が佇んでいた。怖がらせないようにそっと近づいて、どうしたのかと尋ねた。
何を答えるでもなく、ただただ泣き続けている。どうしたものか、竜は途方に暮れた。
オロオロと女の子の周りを何周も回った。
暗い夜、泣き声は竜の重い足音で紛らわされる。
そんな騒音を突き抜ける優しい声が響く。
「あはははは。月が綺麗ですね」
竜の鼓動が速くなる。どうして。今日は月なんてないのに。
——何かを思い出しそうだ。
愛し合う地球と月は逢えないのに、どうして。愛し合う二人が別れてしまうのに、二度と会えなくなってしまうのに。辛い。また逢いたいのに。また、この前と同じようにここに来てほしい。嫌だ。行かないでくれ。我はそんなことは嫌だ。待ってくれ。考え直してくれ——
——助けてあげるから。
早まる鼓動は治まることを知らない。
行かないでくれ。
――少女の姿はどこへやら。消えてしまった......
そこは――真っ暗な夜更け、暗い暗い夜、月明りの届かない闇の世界。悲しさがこだまする穴の開いた空間だった。
漆黒の影を纏う彼の背後から、布が擦れる音がした。
その直後、彼は落ちてゆく感覚に襲われた。
そして目が覚めると、何処か知らない場所だった。
――インターホンの音で竜は同じように目を覚ます。
嫌に湿ったベッドから起き上がる。
「ただいまです」
部屋に上がったのはスイと――
「おー! トカゲちゃん!!」
――背の低い少女であった。