第1話 「逢」
——河川敷でうなだれる人影があった。
「はぁ。今日もダメだったなぁ……」
日が傾き、綺麗な夕焼けが秋晴れの空に広がる。
少し肌寒くとも、彼女の心ほど冷たいわけではない。
灰堂スイは黄昏れる。堤防に身を委ね、空を見上げた。
目に映った影を見てふと思った。あの鳥たちのように自由になりたい、逃げ出したい、と。
スイの下を向いた顔を、川に映った夕日が照らす。
しかし、冷えきった心までは照らされない。
「就職、諦めようかなぁ」
二十歳を過ぎ、すでに一年が経とうとしているさなか、周りの友達はみんな就職が決まってしまった。
このままいけば、星ひとつない真っ黒な闇になる。
このままじゃお婆ちゃんに顔向けできない。だからと言って、もうどうしようもない。もう……嫌だ。耐えられない。
そこまで考えてから、いつものように、すうっと空気を吸いこむ。そのままでは仕方ないから、吐き出した。
「はぁ。死にたいなぁ」
そんなとき突然、横から声をかけられた。
「人間。貴様、『死にたい』と呟いたな」
「え? あ、大丈夫です。本気じゃないので——」
そう答えながら、声の主の方を向く。見ず知らずの人を心配してくれるとは、なんて親切な方なのだろう——そう思った。
だが、そこに立っていたのは、裸の男——変態だった。
「きゃああああ!!!!」
反射的に悲鳴をあげる。“あれ”を直視してしまったから。
間髪入れず、くるっと回ってその場から逃げ出そうとした。
「あ、おい! 待て!!」
その男は長身であったが故に、すぐスイは腕を掴まれてしまう。
「やめて!! 放して!!!!」
スイはその手を振り放そうと一心不乱に抵抗した。
「人間よ。いくら足掻こうが無駄だ。貴様が死を望むのであるならば、我が直々に引導を渡してやる」
突然の出来事に、スイの頭は追いついていけなかった。彼が何を言っているのかサッパリ分からない。
しびれを切らしたスイは、逆に彼の手をしっかりと掴み返す。彼女の目の色が変わった。
「ふんッ! そりゃあ!!」
男は半円を描き、投げ飛ばされる。
彼は抵抗できずに鈍い音と共にアスファルトに叩きつけられた。
そこまで大きな音だった訳ではないが、周囲の目がスイを刺す。美しい川のせせらぎに、人のざわめきが混じって聞こえた。
頭から血の気が引いた感覚がする。
——流石に投げはマズかったか。
「ママー、あれなにー?」「見ちゃダメよ!」
道行く人の注目の的になってしまった彼女の傍らで、変態が寝そべっている。ぺちぺち叩いてみるも、反応無し。
「あ、えっと……これ、どうしよう…………」
もはやこうなってしまっては、スイの頭は働いていない。一種のパニック状態だ。
あれやこれや思考を巡らし、判断力が鈍ってしまったスイは奇っ怪な案を生み出してしまう。
——のされた男を担いで、自分のアパートへ運ぶのだ。
冷ややかな視線から逃れるので頭がいっぱいだった。
脳内会議で議決を下された彼女は男の両手を握り、コートを羽織るようにして担ぐ。
腰の下辺り、何か嫌な感触がしたが、そんなのは二の次だ。とにかく逃げなければ。
スイは群衆が織り成す壁に突っ込み、一目散にその場を後にした。
――幸いにも、河川敷から歩いて2分もかからない程度の距離だったので、すぐにアパートに辿り着いた。外の階段を駆け上がり、部屋に飛び込む。
彼をソファに寝かせ、一呼吸ついた。
「ふぅ…………さてと、どうしよう」
勢いで運び込んだものだが、その後のことなど一切頭になかった。
——まずは、何か着せてやらねば。
いつまでも、アレをあっけらかんとさらけ出されたままでは気分が良くない。
クローゼットの奥の方まで探してみたものの、スイとの身長差のせいで合う服が見つからなかった。
仕方なく、タオルで応急処置だ。
そして数時間後……
時刻は22時を回った頃である。スイがスマホで次の日の占いを見ていると、声が聞こえた。
「——んぅ……ここは……」
男が目覚めたのだ。
「私の部屋です。目の前でいきなり倒れられたので」
口からでまかせで誤魔化した。正確には『ぶっ倒した』だが。
「ふむ、そうか。人間……一体ここはどこだというのだ? 王国から遠く離れているのではないか?」
「え? 王国? ここは日本ですけど」
改めてこの男に目を遣ると、純白のロングヘアーだったことに気が付く。正直言って中々のイケメンな、エキゾチックな顔立ち。もしかすると海外の人かもしれない。
「『ニホン』……聞いたことがない」
まさか日本という国名を知らずに、観光に訪れたわけではあるまい。
「でも日本語喋ってるじゃないですか」
「『ニホンゴ』? おのれ、不思議な言葉ばかり使うでないぞ」
ますます話が噛み合わなくなってきた。この男は一体何者なのだろうか。
「じゃあ、どちらからいらっしゃったんですか」
「マノヤマである」
「『マノヤマ』?」
素っ頓狂な声でオウム返しをした。すると彼は書くものはないか、と聞いてきたのでメモ帳とペンを差し出すと、彼は丁寧な字で『魔の山』と書いた。
地名にしては抽象的すぎる。それでは何処か分からない。
スイは諦めて他のことを聞き出すことにした。
「えーっと、お名前は?」
「ん……ファー……グレイニウス。ファーグレイニウスだ」
途切れ途切れで、自身の記憶にいちいち確認をとっているかのような様子である。どうして自分の名前を答えるのに自信がないのか。
スイは苦しみながらも質問を続けた。
「ファーグレイニウスさん、海外の人なんですか?」
「我は竜だ。人でも龍でもなく竜だ」
「……………………??」
——気でも狂ってしまっていたか。確かにさっきから呼びかけ方が『人間』で気になってはいたが、まさかそんなはずは……
もしかすると、先刻の『投げ』で頭を打ってしまったのだろうか。だとすると、かなりマズい。
過剰防衛で警察のお世話になってしまうのだろうか。となると、牢屋の中にぶち込まれるのか。それこそお婆ちゃんに顔向けできない。マズい。
そんなスイの心労をよそに、ファーグレイニウスはベランダに出て行った。
「とくと目の当たりにするがよい。これが、竜だ」
彼は瞼をゆっくりと閉じ、右腕を前方に突き出す。
その直後、スイはとてつもない気迫を感じた。空手時代にもこれほどの迫力ある強者はいなかった。
「ええっ!?」
一体何をするのか、皆目見当もつかない。
勢いよくカッと目を見開き、彼は叫んだ。
「変身!!!!」
その体が光に包まれる。カーテンが靡き、テーブルの上のメモ帳が吹っ飛んだ。
吹き荒ぶ風は、影に映る彼の長い髪を揺らす。
スイの目は釘付けになった。非現実的な現象を目の当たりにし、頭が漂白されたのだ。
やがて『変身シーン』は終わり、どこからともなく発生した霧が晴れていく。
「——へっ?」
スイは己が目を疑った。
ベランダにいるのは1匹の小さなトカゲである。男の姿は————無い。
「どうだ、これこそが竜の姿であ—―」
トカゲは自慢げに話すが、彼女の顔と期待していた反応との差に気付く。
スイは目を輝かせ、近くに寄った。そしてトカゲを見つめ、声を漏らす。
「か、かわいい……」
トカゲもその目で自身の姿を確かめた。
「んん? え、な、なんじゃこりゃあ!」
慌てふためくファーグレイニウスであるが、スイと比べて体のサイズが小さいため、彼女からはただただ暴れているようにしか見えない。
「え、喋った!」
驚きのあまり、思わずトカゲをポイッと放り投げてしまう。トカゲがベタっと床に落ちた瞬間、スイも腑に落ちた様子で尋ねた。
「もしかして、ファーなんとかさん?」
「いかにも我だ。しかしながら、これは真の竜の姿ではない。竜の力が消えてしまったのか……」
『真の竜の姿』とは何のことかは分からない。
しかし、ひとつ確かなのは——―—
「やっぱり、すごい……!!」
——彼がトカゲになったことだ。
スイは興奮気味にジロジロと、不思議なトカゲを観察した。彼女らの間には温度差がある。
トカゲはぺたぺた足音を立てながら、逡巡した。
「うぅむ……竜の力が無くなってしまっては、魔法も使えまい。弱ったな」
「ええっ!? 魔法まで使えるんですか!?」
スイの目がより一層の煌めく。こんな夢物語は現実であってはならないのだろう。だが現に、スイの目の前には夢物語が広がっている。
「……やるだけ、やるだけやってみよう」
スイは期待を膨らませた。
――次は一体何をしてくれるんだろう。炎魔法でこのアパートを燃やしやがるか、氷魔法で秋暮れの寒さを極寒に変えやがるか……どちらにせよ、凄い。
「再び、『変身』!」
ポンっと彼は人間の姿に戻った彼。先程と同じように右手を前に、気合を込める。
タオルは下に落ちたままだが、この際スイは気に留めない。
「いでよ、ラーシャ!」
凄まじい気を放つ。指先から光の線が発生し、どういう理屈か、空中でポキポキと折れ曲がって魔法陣を成す。
……だが、何も起こらなかった。
拍子抜けだった。彼は涼しい顔をしながら腕を組んで、訝しげに顎を触る。
「ふむ、困ったものだ。“使い”が呼べないとなると、本格的に帰られない……」
若干の焦りも見える。
「え、それは困ります」
先程までの好奇心はどこへやら、スイは嫌悪感を全面に言い放つ。
当たり前だ。正体不明の――それもかなり不思議な生き物と同じ屋根の下で暮らすのは、相当な勇気を必要とする。何より、突然すぎた。
「困ったのは我の方だ。仕方ない、帰る手立てができるまでここに居させてもらう」
——『仕方ない』だと? それはこっちのセリフだ。
スイは心の内でボヤく。
「ええ……ファーなんとかさん、とりあえずタオルを巻いておいてください」
じゃなきゃ目も当てられない。
「タオル……? ああ、これか。それと我を呼ぶ時は『竜』で構わん」
腰にタオルを巻く姿を眺めつつ、考えた。
「え? 流石に呼び捨ては…………じゃあ、『竜さん』で……」
タオルを巻き終わると、竜さんが近寄ってきた。
「結構。では、貴様の名は?」
「灰堂スイです」
「よろしく頼むぞ、スイ」
竜さんは手を差し出す。握手の合図だ。
「え、ええ。こちらこそよろしくお願いします、竜さん」
スイも手を握り返した。
が、強引に良さげな雰囲気に持ってかれたことを見逃しはしなかった。