第七話 二六三年 剣閣へ
「魏軍、いや、敵将鄧艾に言う! 呉を討つと言いながら蜀を侵そうとする魏の姑息な策、この姜維を欺けるとでも思ったか! 蜀はすでに魏の侵攻に対して万全の備えがある! この姜維に挑み連戦連敗した賢明な鄧艾将軍であればご理解いただけると思うのだが、いかがか? よもや、まだ挑み勝利出来ると言う淡い夢でも見ているのではあるまいな」
姜維は一騎のみ前に出ながら、魏軍の大軍に向かって言う。
ついに都からの援軍が無いままに、姜維は手持ちの兵だけで対応せざるを得なくなった。
とは言え、いかに難敵であるとは言え鄧艾に対して負けないのであれば、それは決して難しい事ではない。
ここでの鄧艾の役割は、姜維の行動を制限する事であって勝利する事ではないと姜維は読み切っていた。
魏の大軍はどこかで複数の軍に分かれ、それぞれに蜀の地を目指すと言う戦術であり、鄧艾の狙いはここで姜維を足止めして各地に指揮を送れない様にする事である。
武功には結びつかないが極めて重要な役割であり、自身の功績に対して奇妙に無頓着なところのある鄧艾にこそ適任だろうと言うのは、姜維にも分かる。
それでも全軍を把握する為には、この鄧艾軍を打ち破って漢中を守るべく陽平関に向かう必要があった。
慎重さと大胆さを併せ持つ鄧艾を相手には望みは薄かったが、それでも短期決戦であれば一騎討ちがもっともこちらとしては望ましいと考え、姜維は単騎で出て挑発したのである。
鄧艾が一騎討ちを受けなくても、魏軍の士気を下げる事が目的の挑発だったが予想に反して魏軍に動きがあった。
驚く事に、鄧艾が槍を手に現れたのである。
「蜀の大将軍、姜維の名は蜀の軍神、護国の鬼として十分な名声がある事は魏にも伝わっています。これ以上の名声を求めるのはさすがに欲張りが過ぎるでしょう。まして、そんな御方が簡単に打ち取られたとあっては、せっかくの名声に傷がつくばかりか、蜀の武将とは口先だけである事が全国各地にバレてしまいますぞ? 一騎討ちは控えた方が御身の為ではありませんか?」
鄧艾は笑顔で柔らかく言う。
「……実に嫌な言い方だ」
姜維は苦笑いして言う。
あたかも相手の事を心配しているかの様に聞こえる挑発は、こちらから振ったにも関わらず挑発に乗りそうになってしまう。
だが、こちらの一騎討ちに対して乗り気なところを見せているのであれば、向こうの挑発に乗るのも悪くない。
「はっはっは、一農夫から将軍にまで上り詰めた英雄と言ってもその首にどれほどの功績があろうか。将軍は畑仕事に戻られ、後方で震えてまともに兵も動かせずにいる司馬昭を呼んでこられるが良い。父である司馬懿は敵にならなかったとは言え諸葛丞相の前に立っておられた。その百分の一でも才知を見せる為にもこの姜維の前に姿を見せてみよ、とお伝え下され」
姜維は手で払う様に言う。
「姜維大将軍も諸葛亮殿を愚弄されては下がる事が出来ないと同じ様に、私も大恩ある仲達様、さらに大将軍司馬昭様を愚弄されたとあってはやむを得ません。この槍にてその無礼を黙らせる必要があると判断致しました。先ほどの無礼非礼を謝罪するのであればともかく、そのつもりが無いのであればこの鄧艾、諸葛亮殿の教えの届かない武勇にて大将軍を討つ事になりますが?」
「何を夢見ておられる事やら。この姜維、兵法は神の如き諸葛丞相より、槍は古今無双の龍の化身、趙子龍より受け継いでいる。魏の者など一笑に付す様な者ばかりよ」
姜維はそう言うと馬を飛ばす。
鄧艾の事だから挑発を重ねて姜維が出てきたところに合わせて本隊の方に下がるかと警戒していたが、鄧艾はその場で迎え撃つ構えを見せる。
ほう、本当に一騎討ちのつもりか。
姜維は馬の勢いのままに一撃を繰り出すが、鄧艾はその一撃を上手く弾いてみせる。
そのまま槍を回転させて柄の石突きで鄧艾は姜維を突こうとするが、姜維も同じように槍を回して鄧艾の槍を弾く。
そうだった。この鄧艾、見た目には精悍な農夫にしか見えなくても、実際には並外れた猛将だったな。智将の印象の強い武将だが、その武勇もまた非凡であった事を忘れていたな。
鄧艾と言う人物には、その見た目に暴威を感じさせるところが無いのでつい見誤ってしまう。
とは言え、さすがにその槍さばきなどは趙雲と比べて上回ると言う事は無い。
しかし、独特過ぎる槍の使い方はおそらく独学による為だろう。
奇妙なくらいに基本に忠実であるのだが、多彩な技を身に付ける時間も基本を繰り返した来たのか、驚くほど精度の高い突きと相手の攻撃に対する捌きが尋常じゃない。
この男は、負けない事に徹した戦い方を貫いてきたのだ。
その槍さばきから、姜維はそう思う。
鄧艾と言う男がどう言う生涯を送ってきたのかは知らないが、少なくとも一農夫から将軍になるなど、よほどの事が無い限り不可能である。
その不可能を可能にしてきたからこそ、今の地位にいると言う事を考えるべきだった。
だからと言って、姜維が討たれるかと言えばそうでもない。
鄧艾の反撃は異常なほどに鋭いが、鄧艾自身からの攻撃はほぼ突きのみでさほど多くの技を駆使すると言う戦い方ではないので、見切る事はそこまで難しい事ではなかった。
問題はわざと見切らせ、油断を誘っての反撃があるので鄧艾を討つ事が難しいと言う事であって、そこに気を付ければそうそうに負ける事は無い。
故に姜維が攻めて鄧艾が守ると言う戦い方ではあったのだが、数十合を打ち合っても勝負はつかなかった。
日が暮れても勝敗が決まらなかった事もあり、双方共に自陣へ引き上げる。
「大将軍、いくらなんでも無謀が過ぎます」
本陣に戻った時、廖化からの苦言が出迎えた。
「いや、久しぶりに熱くなったと言う事もあるけど、ここで鄧艾をどうしても討っておきたかった。向こうも同じ事を考えていたせいだろう。ここまで長引いてしまった」
姜維は汗をぬぐいながら、やはり苦笑いを浮かべて答える。
その言葉には一切の嘘も誤魔化しも無い。
率いる軍の規模、その重要な役割、さらには大国である魏でも屈指の実力を持つ鄧艾を一騎討ちで討つ事が出来れば魏軍の戦略を瓦解させる事が出来ると言う確信があった。
だからこそ無理をしてでも、鄧艾を討ちたかった。
鄧艾も同じ様に考えていたのだろう。
むしろ鄧艾の方がそう思っていたに違いない。
何しろ姜維は蜀の大将軍であり、その代わりになる様な武将は今の蜀にはいない事は鄧艾も分かっていただろう。
「とは言え、明日は同じように一騎討ちには応えては貰えないだろうし、さすがにこちらも同じ事は出来ない」
「当たり前です。明日も一騎討ちに挑むと言うつもりなら、何としても阻止しますのでそのつもりで」
廖化から睨まれては仕方がない。
それに鄧艾の実力からすると、百戦危うからずとはとても言えないのも分かった。
百戦して勝ち越す自信はあるが、あの反撃の全てを躱し続ける事は至難と言える。
万が一を考えた時に、今後一騎討ちを避けるのは姜維も賛成だった。
この上は少しずつ鄧艾の兵を削り、鄧艾を下がらせるしか無い。
それから姜維と鄧艾の軍は一進一退の攻防を繰り返し、まさに互角の戦いとなった。
蜀側に大きな被害が出ていないのは、鄧艾の目的があくまでも姜維の足止めであり、ここで完膚無きまでに蜀軍を叩きのめす事ではない為でもある。
いつまでもここで足止めされている訳にはいかないのだが、姜維の目をもってしても守る事に徹した鄧艾の隙を見つける事が出来なかった。
戦局が大きく動く事になったのは、それからさらに数日後だった。
真夜中に姜維の陣を訪れる者がいた。
「……陽安関が落とされた、だと?」
姜維の陣を訪れた重傷の兵は、命からがらに陽安関からの脱出劇を姜維に説明した。
都からの援軍が来なかった事、敵将胡烈が攻めてきた事により蔣舒が降伏した事、閉め出された傅僉がその命を賭して兵を離脱させた事を姜維に余す事なく伝えた。
「傅僉が、か。まだまだ働いてもらう必要があったのだがな」
姜維は悲痛な表情を浮かべて、誰に言うでもなく呟く。
「大将軍、傅僉将軍より命懸けの伝言があります」
「申せ」
「一言、『剣閣』と。その一言で大将軍なら全て察して下さると、我らに言って逃がして下さいました」
その兵士は、自らも重傷を負いながらもその事にも気付いていないかの様に、必死に姜維に伝える。
「……なるほど、確かに起死回生の一手となる」
「剣閣? そこにあるのは山だけで、砦などもありませんが?」
廖化は不思議そうに尋ねる。
「蜀の防衛は基本的には線での守り。主要街道を塞ぐ形で関を設けて、その関を攻めている軍を裏から兵を回して防ぐと言うものだ。しかし、一ヶ所でも抜かれると関の裏を取られてしまう。すでに主要街道からは離れているとは言え陽安関を失ったのであれば、陽平関がどれほど堅固であっても機能しないのであれば意味が無い」
姜維は説明しながら、机の上に地図を広げる。
「全ての関所から物資と連弩を引き上げ、全て剣閣に集める様に伝えよ。私も必ずそこへ行く。もしどうしても無理だと言うのであれば、連弩を破壊した後に魏への投降を許すとも伝えよ。連弩を魏に渡さなければ、その罪は問わぬと」
地図を見ながらでも、姜維は廖化にそう命じる。
今一つ狙いが分からないままだったが、それでも廖化は姜維の指示通りに多数の伝令を出す。
「剣閣には砦も関も無いが、それでも全ての関へ通じる道があり、しかも都へも向かう事が出来る位置にある。逆に関も砦も無い事から魏の者達の目にも警戒するべき場所とは映らない。すぐに剣閣に向かい、兵と合流して山を砦とするのだ。関の裏を取られても剣閣を砦とする事が出来れば成都を目指す魏軍の背後を取れる。魏軍も剣閣を無視して成都を攻める事は出来ず、剣閣に兵を向ければ都の兵と魏軍を挟撃する事も出来よう。さすがにこの事態となれば都からも兵を出す事は考えられる。それを信じて、我々は魏軍から都を守らなければならない」
姜維は廖化に説明する。
「なるほど。ですが、目の前の鄧艾軍はどうしますか? そう簡単に我々を逃がすとは思えませんが」
「今すぐに撤退する。そうすれば明日の朝までは気付かれない。僅か半日であっても鄧艾の目は誤魔化せるはず。ただの山であっても、連弩があれば強固な砦に出来る。急ぐぞ」
「御意」
廖化はすぐに撤退の準備にかかる。
しかし、出来る限り物音を立てず灯りも増やさずと言う条件もあったので、予想よりも時間がかかったが、それでも姜維の軍は鄧艾に気付かれずに戦場を離れる事には成功した。
が、朝を迎える頃には大きな問題が発生した。
最短距離で剣閣に向かう為に通らなければならない橋である隠平橋を、敵将である諸葛緒が押さえていたのである。
「諸葛緒、か。面倒なヤツがいたモノだ」
これまでに何度か戦った諸葛緒だが、攻撃に対する積極性があるとは言えないもののその分守勢には申し分ない。
そのくせに的確な攻勢時を見抜き、点の攻撃であれば非常に効果的に攻撃する事の出来る器用な武将である。
「鄧艾、やはり侮れない相手だな。殺せなかったのが悔やまれる」
姜維は眉を寄せる。
「どうしますか? 強行突破しますか?」
「……厳しいな。諸葛緒は当然守るだろうし、短時間で抜けなければ背後から鄧艾が襲ってきて挟撃される事になるだろう。そうなれば全滅も有り得る」
姜維は隠平橋を守る諸葛緒の軍を睨む。
「……諸葛緒の軍を抜く事は容易とは言えないな。ここは道を譲ってもらおう」
「は? いや、さすがにそれは無理と言うモノでしょう。どうお願いするつもりですか?」
「いや、さすがに通して下さいと頼んでも無理だろうからね」
姜維はそう言うと、諸葛緒の軍から見える様に進路を変える。
南の道を目指せば、剣閣からは離れるが雍州を狙う事が出来る。
今の魏軍はほぼ全軍を蜀の侵攻に当てている事から、雍州の守備兵もほとんど出払っている状態のはずだ。
守勢の武将である諸葛緒は、その危険に気付かないはずがない。
おそらく隠平橋を守る様にと厳命されているだろうが、雍州が危険となればそれを防ごうとするくらいの判断は出来る武将であるはずだ。
まったくの凡将であったのならば、諸葛緒は橋を守ると言う命令を守って動かなかっただろう。
だが、姜維が期待した通りに諸葛緒は十分に優秀と言える能力を持った武将だった。
部隊を二分して橋を守らせる一方で、自身は先回りして雍州に雪崩込もうと見せた姜維の頭を抑えようと、軍を率いて橋から離れる。
一軍で守られていたのであれば厳しかったが、諸葛緒の離れた、しかも半数になった部隊であれば一気に突破する事も出来る。
姜維は諸葛緒と鄧艾の僅かな隙を突いて、剣閣の山に入る事に成功した。
「さて、ここからが本番だな」
地理情報ですが
めちゃくちゃです。
剣閣も要所であって砦もありましたが、この物語ではただの山になってます。
こういうところは、さらっと流して下さい。
もう一つめちゃくちゃな創作設定として、鄧艾の戦い方があります。
別に鄧艾がカウンタータイプの戦い方を得意としていたなどと言う文献はありません。
ただ、姜維にしても文鴦にしても相手にして負けてない事から、鄧艾は負けない戦い方が得意だったんだと思ってこういう戦法になりました。
 




