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新説 鄧艾士載伝 異伝  作者: 元精肉鮮魚店
第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

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第三章最終話 二六〇年 迫り来る落日

 姜維と言えど人間である以上は、感情もある。


 亡き諸葛亮から受け継いだ蜀の悲願である北伐も、十分に手応えがあった。


 洛陽までとは言えないまでも、雍州平定はもちろん長安までなら制圧する事も出来たと言う自信もあった。


 それを黄皓に二度もふいにさせられた事は、姜維としても許せるものではない。


 感情に身を任せて大声で喚き散らし、黄皓を八つ裂きにしてやりたいと思う。


 だが、大将軍である姜維がそれをするわけにはいかず、また冷静な戦略家としての一面がその事の無意味さを知らせてくる。


 そう、ただ感情に身を任せたところで何も良い事などない。


 それよりも今は、黄皓自身よりソレを重宝している劉禅の目を覚まさせる事が重要だ。


 姜維は大きく深呼吸して冷静さを取り戻すと、丞相府に行く。


 蜀では大将軍と丞相は兼任する事が多く、姜維もその例に漏れず大将軍であり丞相でもある。


 そこで姜維は甲冑から官服に着替え、夏侯覇の剣だけを携えて後宮に向かう。


 いかに大将軍と丞相を兼任していると言っても、皇居も兼ねる後宮を無許可で闊歩する事は許されておらず、姜維は敢えて正規の手順を踏んで劉禅との面会の許可を申請する。


 と言うのはあくまでも建前であり、姜維は申請の許可が下りる前に後宮に入っていく。


 姜維は長らく最前線に立ち続けた生粋の武人でありながら、一度戦場を離れるとその立ち姿には血生臭さを感じさせるところもなく、むしろ文官と比べても爽やかさすら感じさせる立ち姿である。


 それは年齢を重ねても失われる事無く、女性を魅了する容姿のままだった。


「やぁ、ちょっと良いかな?」


 姜維は後宮で働く女官を呼び止める。


「は、はひっ!」


 その女官はまだ入って間もない様な慣れて無さが見て取れたが、そんな彼女でも姜維の名前と顔は知っている。


 まさに蜀を動かす大人物が目の前にいて声をかけられたと言う事に、あからさまに緊張していた。


「皇帝陛下はどこにいるか分かるかな?」


「は、はひっ! じょうしょ……、大将軍がいらっしゃった事、お伝えしてきまふ!」


「ああ、いやいや」


 緊張しすぎて呂律の回らなくなった女官に、姜維は苦笑いしながら手を振る。


「実は陛下に呼ばれてきたんだ。陛下にわざわざ来てもらうのも申し訳無いから、私の方から出向く事にするよ。出来れば案内してもらえるかな?」


「はひ! こひられふ!」


 ……この子、大丈夫かな?


 今にも目を回して倒れそうな新人女官の緊張具合に、姜維も変に緊張しそうになって表情が緩む。


 漢の時代だけでなくそれ以前から、さらに魏や呉でも後宮という場所は権力の奪い合いによる権謀術数の飛び交う伏魔殿であった。


 呉ではそれによって後継者と有力な武将達を失うと言う国を揺るがす事件すら起きている場所なのだが、蜀ではその雰囲気は一切無いと言える。


 それも劉禅と言う皇帝の良い意味での影響力と言えるのだが、その一方で黄皓の様な者を育てる温床にもなっているのも事実だった。


 姜維は緊張しすぎてひっくり返りそうな女官に連れられて、後宮の奥へ行く。


 気の毒なくらいに緊張している新人女官の足取りが重かったせいと言うわけでもないが、何分姜維は人目を惹き付ける人物であり、気が付くと数人の女官を引き連れて姜維は移動する事になっていた。


 一見すると姜維が部下を引き連れて、後宮に乗り込んできた様に見えなくもない。


 後ろめたい者が見ればそう見えたかもしれないし、実際に黄皓の目にはそう見えた。


「き、姜維が来た!」


 黄皓はその様子に腰を抜かさんばかりに驚き、庭園の庭石の後ろに慌てて隠れる。


「おお、伯約か! いつ戻った?」


 後宮の一角にある庭園で酒盛り中だった劉禅は、上機嫌にやってきた姜維に尋ねる。


「いつ? 何度も面会を申し込んでいたはずなのですが、大将軍と皇帝の面会を遮ろうとする不忠者が陛下のお近くに潜んでいる様子」


「ふむ。それはいかんなぁ」


 まったく他人事な劉禅の態度は、さすがに姜維としても不快感を覚える。


「陛下、私は此度の北伐、長安を落とすつもりで出兵し、またそれを達成するまで帰らぬ覚悟で行っておりました。故に皇后様の血縁であられた夏侯覇将軍を失っても戦っておりました。それなのに陛下は三通もの書状により私に撤退を命じられました。その理由を教えていただきたいのです」


「ああ、それは大将軍によからぬ噂があったのだ。もし大将軍であっても、その様な事になれば直接呼び出して話を聞くくらいの事はするであろう?」


「……陛下、私は陛下が聡明である事を知っています。ですが、お近くに誤った情報を与える者がいれば、陛下が聡明であったとしてもそれが正しく働きません。ましてお側にお使えする者が権力を弄び、自ら流言を流すと言うのであれば尚の事。今すぐに黄皓を切り捨てねば、蜀はこのまま蝕まれていきます」


 姜維は頭を付ける様にひれ伏して、劉禅に訴える。


「黄皓はそれほど大物でもあるまい。とても大将軍と比べられる様な者では無いであろう。黄皓、ここへ来て大将軍に弁明せぬのか?」


 劉禅は庭石の後ろの隠れている黄皓に向かって言う。


 隠れていると言ってもそれは頭を抱えて丸まっているだけで、全身が隠れきれていないので丸分かりである。


「だ、大将軍! 私はただの一宦官にございます。権力を弄ぶなどもってのほか。ただ朝夕陛下にお尽くしするのみ。大将軍、どうか他の者の根も葉も無き噂などお捨て下さいませ」


 劉禅に向かって平伏している姜維に向かって平伏する黄皓と言う、絵面としてはなんとも奇妙な光景になる。


「陛下、黄皓が小物と言うのであれば、代わりになる宦官などいくらでもいるでしょう。今、この場で黄皓を切らねば災いとなります。どうか、陛下の手で裁いてください」


「まあ、そう言うな伯約よ。『論語』にもあるではないか、これを愛してその生きんことを欲し、之をにくんでその死を願う、と。黄皓もこの様に謝罪している事だし、大将軍も許してやってはくれぬか? 同じ蜀の民であろう?」


 その気になれば姜維はまだ食い下がる事も出来たのだが、劉禅がこう言うのであればそれに従うしかない。


「ところで伯約、その剣は? わざわざ後宮に剣を持ち込んできたのは、黄皓を切る為だけではないのだろう?」


 劉禅は姜維の持っていた剣に目を向ける。


「大将軍の剣では無いようだが?」


 こういうところにすぐに気が付くのも、劉禅と言う人物が非凡な才を持っているところでもあるのだが、今一つ発揮されていない。


「これは亡くなられた夏侯覇将軍の剣です。ご遺体は魏の者に回収されましたが、亡命したとは言え夏侯家は魏でも皇族の血族。丁重に弔われるはずです。ただ、せめて遺品であるこの剣だけでも蜀の地に眠らせてやりたいと思い、陛下の許しを得る為にもお持ちしました」


「そうか。ならば義母上と共に眠らせる事としよう」


 劉禅はそう言うと、姜維から夏侯覇の剣を受け取る。


「それでは陛下、お騒がせ致しました。ですが今一度お伝えしておきます。黄皓は蜀に災いを招く者。切り捨てる事が第一ですが、それを良しとされないのであれば、今すぐこの後宮での職を解き陛下のお側にお近づけにならぬように」


「大将軍はまさに忠義の塊よの。案ずるな。黄皓はそれほど大それた事など企んでおらぬ。そうであろう、黄皓?」


「無論です! この黄皓、卑小非才の身でありながら陛下のお側にお仕えする事が出来ただけで望外の厚遇であると心得ております」


 平伏した黄皓は一度も顔をあげる事無く、姜維にそう言っていた。




 けっきょく黄皓を排除する事は出来ず姜維は後宮を後にすると、姜維を心配して待っていた郤正に出迎えられた。


「大将軍、ご無事で何より」


「争いに行った訳ではないからね」


 姜維は笑顔で答えたのだが、郤正のあまりに深刻な表情を見て考えを改める。


「郤正、良ければ丞相府で少し話を聞こうか」


 丞相府であれば密談に向いていると言う判断だった。


 この丞相府は諸葛亮の為に作られたのだが、残念な事に完成した頃には諸葛亮は最期の北伐に出た後であり本人に使われる事は無かった。


 その諸葛亮への畏敬の念もあり、蜀では大将軍と丞相は兼任であっても丞相とは諸葛亮を指す役職であり、大将軍と呼ばれている。


 同じ理由ではあるのだが、逆にこの建物は大将軍府では無く丞相府と呼ばれていた。


 最前線にいる事が多い姜維ではあるが現職の丞相なのでこの丞相府の主でもあり、一言で人払いも出来る。


 そこで姜維は郤正に、劉禅の前での事を伝えた。


「大将軍、敵を読み違えております」


 郤正は眉を寄せて姜維に言う。


「大将軍は戦術戦略共に、亡き諸葛丞相の愛弟子として相応しい才をお持ちです。武勇に至ってはかつての五虎将軍の誰にも劣らないでしょう。おそらく戦場であれば、大将軍一人で黄皓様百人を相手にしても傷一つ負わずに勝つ事も出来るでしょう。ですが、文官の戦と言うモノは、そもそも武官のソレとはまったく別物なのです。戦場であれば大将軍は百戦しようと万戦しようと黄皓様に劣る事はありませんが、文官の戦いではそういうわけには行きません」


「……確かに」


 姜維も遅ればせながらその事に気付いた。


 もし毒などを用いられた場合、それを口にした時点で姜維は敗れるのだ。


 そこに武勇の入る余地は無く、また黄皓に協力する者が誰一人としていないとは言えない以上、その危険は十分過ぎるほどに有り得る。


「黄皓様の性格を考えるのであれば、大将軍に時間的猶予はほぼありません。今すぐに何か手を打つ必要があります」


「手、か。この姜維、軽率であった。あの場で無理にでも切り捨てておくべきだったか」


「陛下はお優しい御方ですので、それを良しとはされなかったのでしょう。それに今日の事で黄皓様がいかに大将軍憎しと思っても、黄皓様の影響力はこの成都の都のみ。故に大将軍は都の外に活路を見出すべきです」


 そこで郤正は国力回復を名目として、姜維に屯田を勧めた。


 繰り返す北伐によって国庫に負担をかけ、国を疲弊させている事は姜維自身も知っている。


 勝ち続けていたからこそ北伐を繰り返す事は出来ていたが、国内に反対派が多数いる事も知っている上に、黄皓の様な者から足を引っ張られては張翼に言われた様に北伐どころの話では無い。


 郤正の提案は、まさにその点においてもごく自然であり、黄皓としても姜維と遠ざけられるのであれば反対するはずもない。


「大将軍は、まだまだ蜀に必要な御方です。軽挙は避け、北伐の再開の機会を伺って下さい」


「郤正と言ったな。今日の事、恩に着る」


 姜維は翌日には劉禅に上表して、すぐに漢中へと出立した。


 そこで各武将へそれぞれの守備位置を知らせ、自身は宣言の通りに屯田に向かう。


 無論、この時の姜維は知らなかった。


 北伐の機会は、もう二度と来なかったのである。

劉禅公嗣と言う御方


まったく三国志を知らないと言う人以外であれば、三国志で一、二を争う無能として名前が出てくるのが阿斗こと劉禅でしょう。

何しろ中国のことわざにも、どうしようもない阿斗と言うものがあるくらいに無能として有名です。

また、正史でも色々といただけないエピソードは豊富で、演義ではさらに輪をかけたダメっぷりを発揮しています。

後漢末期から三国時代終了まで大量に登場する皇帝の中でもトップクラスの残念皇帝として知られる劉禅なのですが、どうにも後世においてその著しく低い評価は定着したみたいです。


三国志正史の著者である陳寿は、

「何色にでも染まる白い糸の様な人物」

と評価していますが、間違いなくそう言う人だったのでしょう。


ただ、諸葛亮を始め、歴代の丞相達は劉禅に『理想の皇帝』を押し付けすぎたのかもしれません。

それらの人物がいなくなった後、押し付けられた理想の重圧から開放されたが為に堕落してしまったと言う見方も無くはないはずです。


少なくとも、生まれついての暗君と言う訳ではなく、場合によっては名君として歴史に名を残したかもしれない資質を持っていたのではないでしょうか。


そもそも劉備や劉邦も大概アレな人物なので、劉禅もアレなのは仕方ないことかもしれないし。


ちなみにWikiを見る限りではもう一度姜維は魏に攻めているみたいですが、この物語は演義準拠ですので、これ以降北伐はありません。

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