第二十六話 二六〇年 龍は泥を喰んででも
翌日、洮陽城の前に姜維が姿を現した。
と言っても、攻城戦を再開した訳ではない。
弓の射程に入らない様に気を付けながら、自身の一団を持って城の周りを見て回っている。
「挑発、ですか?」
「かも知れないですが、あれだけでは何とも」
城の上から司馬望と鄧艾は、姜維のあからさまな示威行為に首を傾げていた。
「城の守りの確認? でも、今さらな感じもしますが」
「確かに。昨日の戦闘である程度の事は把握しているはず。何か見つけたのかも」
何かの罠か、あるいは策であると分かる姜維の動きに、鄧艾も司馬望も意図を掴む事が出来なかった。
しかし、姜維は特に攻めかかる様な事はせずに、ほぼ何もせずに一日を過ごしたのである。
「一体姜維は何を考え、何を行ったのでしょうか?」
司馬望は鄧艾に尋ねる。
「正直に申せば、私にも分かりません。ですが、何かを行った、あるいは何かを行いつつあるのは間違いありません。姜維は極めて有能な男であり、蜀には無駄にする様な物資の余裕は無いはず。その上で、この一日も無為に過ごしているんです。それだけの価値がある何かを行ったのでしょう」
もしかすると撤退の口実を探っていたのかも知れない、と鄧艾は期待した。
夏侯覇と言う貴重極まりない武将を失い、その上で城攻めを強行したが城を落とす事も出来ず、さらに奇襲を受けて陣を下げる事になった。
通常であれば一時撤退するところである。
しかし、撤退するにも何かしらの口実は必要になる。
改めて城を見て、この城は守りが固くさらに援軍も到着した以上、今の戦力で攻略する事は難しいと兵に伝える為の行動だったと考えれば、一応の筋は通る。
と、思いたいところだが、姜維がそんな事をするとは思えない。
実際に姜維は次の日から、攻城戦を再開してきた。
鄧艾と司馬望はその対策に追われる事になったが、そこではっきり分かった事もある。
昨日に続き、今日も本気でこの城を落とすつもりはない。
この攻勢も表向きの事であり、本気で攻略しようとしていないのが分かる。
時間稼ぎ? では何の為に?
まったく意味の無い時間稼ぎなど、それは無意味を超えて害悪でありそれを考えないほど姜維は無能ではない。
つまり蜀の貴重な時間と兵士と物資を使って、この攻撃しているフリをする必要がある何かを姜維は行っているという事までは分かる。
ただ、それが何かが鄧艾には分からなかった。
そして日が暮れると共に蜀軍は陣へと戻っていく。
「……姜維は何がしたいのでしょうか?」
本気でこの城を落とそうとしていないのは司馬望も分かっている様だが、鄧艾と同じようにそれが何かと言うところまでは分からないらしい。
「杜預、鄧忠も何か思い当たる事は無かったか?」
司馬望としては相談相手や考える頭脳が増えれば、と言うつもりで言ったつもりだったがその言葉が鄧艾に姜維の策を閃かせた。
「……そういう事か。姜維、途轍もない敵です」
「と言う事は、姜維の策が分かったのですね?」
「蜀軍の狙いは、この洮陽ではなく祁山です! 姜維はこの洮陽に援軍が来た事から、その兵は祁山の守備兵であると見抜いたのです。もっとも、この近辺で大規模な援軍を出せる兵を配置していたのは祁山しかないのですから、そこまでは読めるでしょう。そこで援軍の兵をこの洮陽に足止めして、守りの薄くなった祁山を奪いに行ったのです」
鄧艾の言葉に、司馬望も頷く。
「なるほど。しかし蜀軍の数も多くないはず。祁山を守るのは師纂ではあるが、少数の兵であれば守れるのでは?」
「いえ、急ぎ救援に向かわなければ祁山は奪われます。わざわざ姜維が目に付くところに現れたのも、祁山を狙って動いた武将を隠す為。夏侯覇を失い、廖化を漢中に残したと言っても、まだ張翼がいます。その張翼に攻められては、師纂では苦しいでしょう」
鄧艾はそういうと、鄧忠を司馬望に預け、杜預と三千の兵を率いて夜中に洮陽を出る。
すぐに祁山に向かうのではなく、鄧艾は敢えて蜀軍の陣に夜襲をかける様に動いた。
蜀軍は奇襲をかける鄧艾を迎撃するのではなく、陣門を固く閉ざして守りを固める。
それこそ常道であり、鄧艾が望んだ行動である。
一度夜襲の奇襲を受けて後退しているのだから、同じ手は食わないと言いたいのだろうが、そうやって陣に閉じこもってもらえば追撃を気にせずに祁山に向かう事が出来る。
「小細工ではありますが、それでも追撃されれば絶望的ですからね」
「今、この場でそこまで考えられる事が凄いですよ」
鄧艾と共に祁山に向かう事にした副将である杜預は、感心しながら言う。
鄧艾は自己評価が極端に低いが、周囲が見た鄧艾は魏随一の名将であるとの評判である。
戦場での槍働きはもちろんの事、戦術面でも常人には思いつかない様な知略を見せる上に、農政官として広大な荒れ地だった淮南を生産拠点へと生まれ変わらせ、南安の太守だった頃には南安に限らず雍州全体の生産量を上げた実績もある。
司馬懿が見つけ出した龍だとも言われているほどだが、当の本人はまったくそんな事は考えていないらしい。
そんなところも軍部での人望にも繋がっているのだが、その一方で名家に対する遠慮や建前による配慮などを嫌う傾向もあり、上層部の一部からは嫌悪されているところもある。
しかし、司馬家に連なる司馬望や杜預、羊祜といった面々が鄧艾を支持している事から表立っては何も言えない状態だった。
もっとも、最前線に出ている間は何ら影響する事は無い。
それは鄧艾だけでなく、その身近にいた杜預や司馬望達ですらそう思っていた。
と言っても今はその事を考えている余裕など無い。
鄧艾達は急いで祁山に向かっていたが、祁山の陣に到着する前に師纂と出会った。
「師纂、何故ここに?」
鄧艾はすぐに師纂と合流して尋ねる。
「将軍! 申し訳ございません! 我々も力の限り戦ったのですが、張翼に祁山の陣を奪われてしまいました」
師纂は馬を降りて、鄧艾に詫びる。
まだ若い為に血気に逸る事もある師纂ではあるが、戦に関しては決して能力は低くない。
その勇猛振りでは、おそらく鄧忠より上であり、魏の若手の中でも一、二を争うくらいに能力は高い。
「いや、私の見通しが甘く姜維に先手を奪われた事が拙かったのだ。見たところ祁山を奪われたと言っても、さほど時間は過ぎていない様だが?」
「はい、つい先ほどまで戦っていたのですが、これ以上は耐えられそうに無いと判断して撤退していたところでした」
「なるほど、ではいかに張翼と言えども祁山の陣を掌握しているという事は無いだろう。すぐに奪い返すぞ」
「将軍! 俺も一緒に行きます! 俺の失態で奪われた陣。俺が取り返す為に尽力する事は当然の事!」
「ほう、言うようになったじゃないか」
とう言って、杜預が師纂の胸を叩く。
「魏の兵士達よ! 師纂将軍は自らの失態を取り返すつもりだ! 元々祁山の陣営は我々が汗水垂らして作り上げた陣営、蜀の者達に使われていいはずが無い! 皆が疲れているのは分かるが、今、この時こそが踏ん張りどころだ! 一度の敗戦など、この一戦で取り返す事が出来る! 力を貸してくれ!」
本来であれば鄧艾が掛けるべき言葉であったが、杜預が師纂とその兵士達に向かって檄を飛ばす。
こういうところが様になっている辺りが、杜預がいつまでたっても誰からも文官と思われず、将軍としての実績を作っていく事になっている原因なのだろう。
杜預も立場で言えば司馬仲達の娘婿であり、司馬家に連なる血縁者なのだが、他の名家の子息達と違って気取ったところが少ない。
おそらくは同じ様に名門の出でありながら、妙に気取らないところのあった陳泰の影響なのだろう。
それに杜預は兵士の士気を高めるのが上手い。
良く通る声もそうだが、盛り上げ役として必要な時と言うのを察するのが敏感だった。
本人は望んでいないのかもしれないが、今後も将軍として戦場で活躍していく事になるだろう。
杜預の檄で士気の高まった師纂の軍と鄧艾の軍は、祁山の陣に迫った。
張翼は姜維の様な派手さは無いものの、蜀の武将として実績を上げ、また姜維と共に長く戦場に立ち続けた能力の持ち主である。
師纂との戦を終えたばかりだった張翼はまだ陣立ても済んでいない様な状態であり、祁山の陣営で守ろうにも、その陣営を築いたのは鄧艾なのでどこに兵を配置すればどこに隙が生まれるかを張翼より把握している。
張翼は無理に陣営を活かした防衛に頼らずに野戦に出るが、連戦の疲れのある張翼の軍に対し、士気の上がった鄧艾の軍を相手には長く戦う事は出来なかった。
勝ち目が薄いと判断した張翼は、無理に抗戦せずに撤退を始める。
いかにも慎重な張翼らしい判断だが、この時に鄧艾は策の気配を感じた。
「師纂、兵二千を与える。張翼を追って、蜀軍を壊滅させよ!」
「はっ! 必ずや!」
師纂は汚名返上とばかりに兵を率いて張翼の後を追う。
「……将軍? らしくありませんが、どうしました?」
「何か嫌な気配を感じたんです。私達は祁山の陣営の様子を見て、守りに備えましょう」
鄧艾はそう言って祁山の陣営に入ったが、予想より遥かに早く師纂が兵を率いて戻って来た。
「師纂、早過ぎないか?」
杜預が尋ねると、師纂は乱れた息を整えてから言う。
「蜀の援軍です! 姜維が兵を率いて張翼を救いにやって来たのです!」
「急ぎ守りを固めよ! この祁山の陣営、そう簡単に落ちる事は無い!」
杜預が動揺する兵士達に向かって言う。
「……そういう事か。ここまでが一連の策と言う訳か。姜維伯約、いったいどれほどの事を見通しているというのだ」
鄧艾は天を仰いで呟く。
おそらく姜維にとっても夏侯覇を失った事は誤算だったはずだ。
だが、その状況から洮陽は手薄と見て攻め込んだ。
そこを鄧艾が援軍に来て蜀軍を打ち破ったまでは良かったが、その援軍が祁山からのモノと見た姜維は祁山を狙って兵を出した。
鄧艾はそう思っていたのだが、姜維の策には続きがあった。
祁山が狙われていると知った鄧艾は、洮陽の守りに兵を残して祁山を救いに行ったのだが姜維はそれを読んで、敢えて祁山の陣営を鄧艾の手に渡した上で陣営に閉じ込めて洮陽の司馬望と分断したのである。
これによって姜維は鄧艾を祁山に、司馬望を洮陽に閉じ込めた事によってどちらを叩く事か選べる様になった。
現状でいえば祁山の方が兵は少ないが、洮陽には雍州方面軍司令官であり司馬一族である司馬望がいる。
土地を奪うのであれば祁山、魏軍に打撃を与えるのであれば洮陽を狙う事になるのだが、今度はそれを助けようと出て来た援軍をさえ狙う事が出来るのである。
「……してやられたか」
祁山を睨むのは張翼、洮陽を睨むのは傅僉、そして姜維はその間にいて戦況を見てどちらにも動く事が出来る。
場合によっては援軍として動かそうとしていた諸葛緒すら狙う事も出来る。
完全に姜維に主導権を握られてしまい、鄧艾から打てる手は今のところ無い。
鄧艾はそこまでの事を、杜預と師纂に説明する。
「……かくなる上は、あの手しか無い、か」
鄧艾の言う手と言うのに師纂は首を傾げるが、杜預には心当たりがあった。
「しかし、ここまで来て手柄を挙げられないのは……」
「手柄などにこだわって敗れたのでは、どうしようも無いですからね。たとえ泥を食んででも敗れない事が肝要です。その為にも、姜維には退いてもらわなければ」
鄧艾と杜預
鄧艾が龍に例えられていたと言う事はありません。
が、この頃の鄧艾は当代一の名将と評価されていた事は、その出自や後ろ盾の無さからは考えられない様な将軍位についていた事から伺えます。
本作は演義準拠なので姜維を相手に苦戦していますが、史実では鄧艾と司馬望によって姜維は阻まれています。
史実では何かと問題があった鄧艾ですが、その能力の高さは疑いようがありません。
一方、本作ではほぼ戦場に出ずっぱりな杜預ですが、さすがにここまで戦場に出ていたと言う事はありません。
本業は文官(自称)なワケですから。
盛り上げ方が上手かったかどうかはわかりませんが、晩年での士気の上げ方などからそう言う特技を持っていたと言うふうにしてみました。
何しろ『破竹の勢い』と言う言葉を生み出した人物ですから。




