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新説 鄧艾士載伝 異伝  作者: 元精肉鮮魚店
第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

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第二十五話 二六〇年 深手を負った麒麟

 洮陽に到着した夏侯覇だったが、そこで一度進軍の足を止めた。


 情報通り、洮陽の城は門を開かれ兵の気配も無い。


 魏は防御線を祁山に下げた事もあって、この洮陽の城は空き城になっている。


 ただ一つ、城門の上、もっとも目立つところに『司馬』の旗が掲げられていた。


 空城の計を計る上では、兵の形跡は完全に消すのが常道である。


 もし防御線を下げたと言うのが虚報であれば、当然この洮陽の城には伏兵が潜んでいるはずだ。


 そこへ来て、見せつける様に飾られた『司馬』の旗。


 この場に掲げられている旗なので、司馬昭と言う事は無い。


 雍州司令官である司馬望のモノである事は分かるのだが、旗だけ残した状態なのが気になる。


 罠、か?


 夏侯覇の勘で言えば、これは罠である。


 まず間違いなく空城の計だろう。


 城の中に伏兵が待ち構えていると思われるのだが、その伏兵を教える様な旗の存在が奇妙だった。


「将軍、何を悩む事がありますか? コレは罠を臭わせているだけですよ!」


 先鋒隊の武将の一人が、夏侯覇に訴えかけて来た。


 先鋒隊に配属されるくらいなので、手柄を立てたいのだろう。


「魏軍の企みはここで蜀軍の足を止めるのが狙いです。おそらく姜維将軍と合流するのを待って、この洮陽を抑えるところだけで止めるつもりなのです」


 その武将はそう主張してきた。


 なるほど、それも十分に考えられるだろう。


 ここで姜維を待てば、洮陽の城は手に入れる事は出来る。


 それも被害無しで、である。


 が、そこまでだ。


 夏侯覇は誰一人敵のいない、城門を開いた城すら落とす事が出来なかった武将とされる事になる上に、蜀軍は勢いを奪われてこれ以上の北伐は望めなくなり、やはり洮陽の城を捨てて蜀に帰るしかなくなる。


「将軍、これは以前の祁山と同じ策なのでは?」


 別の武将が夏侯覇に言う。


「どういう事だ?」


「司馬望は祁山で陣営を敢えて捨てて鄧艾と合流した事があります。今回も同じ手なのでは?」


「大将軍の八陣図の時か」


 夏侯覇も頷く。


 あの時はこの城とは真逆で、いかにも守っている風の祁山の砦はすでに空であり、攻略の方法を考えていた夏侯覇はまんまと出し抜かれて司馬望の軍を逃がし、姜維が八陣図で鄧艾を討ち取る機会を逃す事になってしまった。


 今回は祁山の時と違い、あからさまに伏兵がありますと言う風に見せて、実はすでに城を空にして鄧艾と合流して祁山の守りを固めているという事だろう。


「……なるほど、あの旗は諸葛亮と言う事か」


 夏侯覇はそういうと笑う。


「旗が諸葛丞相?」


「お前達も諸葛丞相が北伐の際、司馬仲達の足を止めた空城の計は知っているだろう? あの司馬仲達を琴の音一つで撤退させた、あの神懸かりな策だ。あの策で魏はそれ以降も諸葛丞相に苦しめられる事になった。司馬望め、その故事に縋り自身の名声を司馬昭に見せつけるつもりなのだろう」


 司馬望がこの雍州司令官になった経緯を夏侯覇は詳しく知らないが、それでも司馬昭が猜疑心の強い男である事は知っている。


 その上で同族でありながら最前線に出されたと言う事は、司馬昭に煙たがられての事と言う事も予想出来る。


 大方、中央に戻るつもりで大手柄を立てようとしているのだろう。そこで諸葛亮の神謀になぞって蜀軍を撤退させたとあれば、強引極まりない手で皇帝をすげ替えた司馬昭さえも上回る人望と実績を手に入れると言うわけか。


「夏侯覇将軍、ここは空城。ここを押さえた上でこの城を後続に委ね、我らは先に進んで祁山に圧力をかけるのが大将軍の策のはず」


「ああ、司馬望の策、見切った。これは我々の足を止める虚仮威し。それに付き合ってやる義理は無い」


 夏侯覇はすぐに城に入ろうとせずに、城を半包囲した上で一日かけて威圧する。


 もし城に伏兵がいる場合にはこの圧力に屈して動こうとする兵がいてもおかしくないし、城から逃げ出す住民を止める為に門を閉めようとしたり、住民を外に出さない様にする動きを見せる事も考えられた。


 が、洮陽の城からは蜀軍に恐れをなした住民が退去していくのみで、兵の動きはまったく見えない。


 これで確実だ、伏兵はいない。


 夏侯覇はこれまでの戦の経験から、そう確信した。


「では、空き城を貰い受けようか」


 夏侯覇はそう言うと、先鋒隊を引き連れて城に入る。


「今だ! 跳ね橋を上げよ!」


 夏侯覇が城に入ったのを見て、そう声が上がる。


「何! 伏兵だと!」


「姜維を釣るはずの策であったが、夏侯覇将軍であれば悪くない。蜀軍の皇族を討ち取ったとあれば、その士気を挫く事も出来よう」


 城壁の上から司馬望がそう言うと、夏侯覇の言葉などを聞こうとせずに兵に合図を送って一斉に矢を放った。


 夏侯覇仲権。魏建国の名将夏侯淵の息子であり、魏の皇族の一員にして、蜀の皇帝劉禅の妻の血縁であり、蜀の皇族の一員でもある数奇な血筋の武将だったが、それも全て過去形で語られる事になった。




 大将である夏侯覇を失った蜀の先鋒隊は、その後城から打って出た司馬望の軍勢に散々に打ち負かされ、姜維の本隊と合流するまで退く事になったのである。


 敗走してくる先鋒隊を姜維の本隊が受け入れたところで、司馬望の部隊は無理に姜維率いる蜀軍本隊と戦おうとはせず、すぐに洮陽の城へ引き返した。


「夏侯覇将軍が討ち死に?」


 報告を受けた姜維は、にわかに信じる事が出来ずに兵に詳しい状況を尋ねる。


 その上で、司馬望の用いた空城の計が本来であれば自分を狙った策であった事も知った。


「……その策、もし私でも同じように討ち取られていた。夏侯覇将軍は、私の身代わりになって下さったのか」


「それほど見え見えの伏兵であれば、大将軍なら打ち破れたのでは?」


「いや、逆です」


 張翼の言葉に、姜維は首を振る。


「常道の伏兵であれば、兵を伏せている事を悟らせないようにします。その隠した伏兵のところに敢えて目印を置いた場合、隠れている様に見せる擬態であるというのは戦場の経験があればあるほど、そう判断してしまうものです。まして諸葛丞相の計を模倣しているというのであれば、私は冷静でいられないでしょう。結果、城に入って罠に落ちています」


 姜維はそういうと、天を仰ぐ。


「しかし、夏侯覇将軍を失ったのは、我が腕を切り落とされた様なもの。あまりにも大き過ぎる損失です。かくなる上は、司馬望の首を取ってその供養に当てましょう」


「それこそ挑発に乗る事になるのでは?」


 張翼が尋ねると、姜維は少し考えた後に首を振る。


「夏侯覇将軍が空城の計ではなく、本当に空城だと思ったのはやはり兵の気配の無さでしょう。虚報を信じさせるにも、洮陽の城から一度は兵を引き上げていると思われます。そして、今回の計の為に兵を送り込んできたとしても、それが大軍、しかも長期戦に耐えられる様な戦力ではないはず。ここは一気に急襲して洮陽を落とすべきです」


 もし大軍がすでに入城しているのであれば、夏侯覇ならその気配に気付いた事だろう。


 さらに大軍が城を守っているとなれば、住民も城を捨てて逃げる様な事もしていない。


 司馬望は住民に気付かれないように城に入ったか、あるいは最初から城を守る為ではなく、城に残った物資を祁山に引き上げるなどの理由をつけて入城していたのかも知れない。


 いずれにしても、今の洮陽には大軍の備えは無いはずだ。


 と言うのが、姜維の読みだった。




 そしてその読みは、まさに的中していたのである。


 洮陽の守りはまさに司馬望が率いる一軍のみが入っている状態であり、その兵数は限られ物資も数日分程度しか無い。


 司馬望や鄧艾の読みでは、先鋒隊の武将が誰であったとしても先鋒隊を打ち破れば蜀軍の勢いを削ぐ事が出来る。


 その上、虚報によっておびき出された事を知り、敵に備えありと判断して引き上げると予想していたのだが、姜維率いる蜀軍の本隊は司馬望の予想より遥かに早く進軍していた事もあって、洮陽から撤退する機会を失ってしまったのである。


「とはいえ、これもまた士載殿の想定していた事の一つではあるか。あの方の千里眼、正に叔父の仲達様の如しだ」


 司馬望は不安がる兵士達を勇気付けながら、すぐに守りの配置につかせる。


 しかし、相手の姜維もまた魏にいた頃より『麒麟児』と称される異才であり、司馬望の目から見ても魏屈指の智将である鄧艾さえ時には手玉に取るほどの者である。


 下手すると一戦で勝敗が決する恐れすらある。


 そして姜維の打って来た手は、正に一戦で勝負を決めそうなほど厳しい手だった。


 姜維は蜀軍の大軍を総動員して、洮陽の城を囲んで総攻撃を仕掛けて来たのである。


 もしこの時に魏軍に幸運があったとすれば、それは蜀軍に本格的な攻城兵器が無かった事だろう。


 大がかりな攻城兵器は運搬が困難な上に、人手を取られる。その上目立つので狙われやすく、伏兵などに極端に弱いなど数多くの弱点がある。


 最初から攻城が目的である場合などでも無ければ、大がかりな攻城兵器は基本装備に含まれていない。


 が、最低限の攻城兵器になり得る長梯子などは在り合わせの材料で、現地で調達して作る事も出来る。


 大軍の人手があれば、それこそ短時間である程度の数は用意出来る為、攻城戦でまったく何もできないという事は極めて少ない。


 お互いに問題を抱えた泥仕合の様な攻城戦だったが、それでも数と言う圧倒的な武力は多少の装備の劣勢を覆す事が出来る。


 それでも洮陽の城も前線の城であり、守る為の城である。


 司馬望は万全とは言えない兵力でありながら、また限られた物資、兵装でかろうじてその日の蜀軍の攻勢を食い止めた。


「動ける兵はいるか?」


 蜀軍の攻勢は極めて強烈で、この日は何とか守り通す事が出来たものの、正直なところ洮陽を守る司馬望の軍には次の戦に備えるほどの余力は無かった。


 それは司馬望にも分かっている事なのだが、それでも夜戦の準備を始める司令官を見て、兵士は首を傾げていた。


「どうした? 動ける兵はどれくらいいるのだ?」


「それは……、各城壁から動ける者を集めても千前後かと」


 側近の兵が自信無さそうに答える。


「千か。十分だ。すぐに集めて夜戦の準備だ」


「将軍、無茶です! 僅か千で蜀軍と戦うなど無謀でしかありません。先ほどは動ける者は千前後と申しましたが、戦が出来そうな者などその内の百にも満たないでしょう。皆疲労困憊です」


「動ければいいのだ。これからが蜀軍を追い返す本当の戦になる。我々は我々の役割があり、それを行う事が勝利へとつながるのだ」


 兵士は司馬望に言われるがまま、各城壁を守る部隊からまだ体力に余裕がある者と言う条件付きで集め、その数はかろうじて千前後にはなった。


 しかし、全員に疲労の色は濃く、決死隊と言うにはあまりにも疲れ切っているのでとても突撃などには耐えられそうに無いのは誰の目にも明らかだった。


「皆の抱える不安は、この司馬望もよく分かっている。そして、この作戦を立案した鄧艾将軍も、おそらく兵士は極限状態でまともに戦う事も出来ないかもしれないと想定していた。事実、皆、よく戦ってくれた。その上でのもう一働きなのだが、これによって蜀軍に勝利する事の出来る策である。皆の働きを期待する!」


 そう言って司馬望は、疲れ切っていながらも集まった兵士達に装備を渡す。


 いざ装備を渡された兵士達は、全員が怪訝な表情をする。


 彼らに渡されたのは剣や槍、弓矢の類ではなく太鼓や銅鑼、場合によっては鉄鍋などの鳴り物ばかりだった。


「策の全貌を明かそう。鄧艾士載の神算鬼謀、まさに司馬仲達にも劣らぬ」


 司馬望から策の説明を受けた兵士達は、一部から笑いが漏れ出すほどに士気が高まった。


 もし空城の計によって損害を被ったにも関わらず蜀軍が撤退しない場合、蜀軍はこちらの防備が薄い事を見越している可能性が高いと言うのが、鄧艾の予測だった。


 実際に討ち取ったのは夏侯覇だったが、夏侯覇にしても姜維にしても小細工で城を空にした様に見せてもおそらくは見抜かれるだろう。


 その為に、本当に城を空にする事で初めてあの戦巧者達を騙す事も出来る様になる。


 司馬望と鄧艾はその策の為に、洮陽の城から物資や兵を引き上げ、住民にもこの城は守る事は出来ないので蜀軍が来た時には退去しても罰する様な事は無い事や、他の土地での生活は約束するなどの説得も行っていた。


 普通なら伏兵の存在を知る住民を城から出す事は無いのだが、伏兵の存在そのものを知らないのであれば住民を逃しても問題ないだけでなく、もし蜀軍が非戦闘員から情報を得ようとしても知らない情報は与えられるはずもない。


 そうして最低限の兵を伏せていた事もあり、敵将夏侯覇を討つという多大な武功を挙げる事が出来た。


 が、その欠点として、蜀軍が損害を考慮せずに速戦に出た場合には窮地に陥る事も考えられる事を鄧艾は指摘していた。


 そしてその打開策も用意していた。


 その日の夜、夜戦の備えの無い蜀軍は攻城を中断して一時陣に撤退したのだが、そこを見計らって祁山を守っているはずの鄧艾と雍州方面軍が蜀軍の陣に奇襲をかけたのである。


 その奇襲だけでも十分だったのだが、さらに洮陽の城からも司馬望が率いる守備隊が出撃して蜀軍に挟撃を仕掛けたのだった。


 と言っても、司馬望の部隊は戦うだけの余力は無い。


 なのでいかにも大軍が城から出たかのように篝火を炊き、怒号を上げ、さらに鳴り物を鳴らしながら蜀軍に向かっていく。


 かの様に見せたのである。


 姜維は無理に抗戦する事をせず、すぐに陣を払って一時後退して軍の再編成にかかったのだが、その時には鄧艾は兵と物資を持って洮陽に入城し、防備の薄かった洮陽の守りを万全に変えたのである。


 あまりにも見事な策によって勝利をもたらした鄧艾を、疲れ果てていたはずの司馬望の兵達は歓声をもって出迎える。


「将軍の鬼謀、まさに名将と呼ぶに相応しいものです。この戦で、魏随一の名将の名を得る事でしょう」


 司馬望も手放しで喜んでいるが、鄧艾本人の表情は険しい。


「将軍、何かご懸念が?」


「司馬望将軍が夏侯覇を討ち取られた事は、蜀軍にとって致命的な打撃だったはず。その上この夜襲による敗北もそうです。が、姜維の予想外に早い一時後退は、退却の意志の表れではなくまだ戦うつもりに他なりません。姜維にはまだ何か我々に対する必勝の策があるのではないでしょうか?」


 鄧艾はそう考えていたのだが、この時にはまだ姜維の策を看破する事が出来ていなかった。

夏侯覇について


この物語は演義準拠で話を進めているのでこの戦場で戦死していますが、正史では死亡の時期は記されていません。

推定ではこれより前の年で、二五九年には死去していたと推定されています。

さらに言えば夏侯覇の正確な生年月日も分かっていませんが、死亡する頃の夏侯覇は七十代後半から八十代だったと言われていて、その死因も老衰の可能性が高いです。

ちなみに演義では夏侯淵の長男とされていますが、正史では次男です。

字に仲が入っている事からも、演義の長男の方が無理があると思えます。


しかし、三国の内二国の皇族の一員と言う血筋もすさまじいのですが、魏でも蜀でも武将として武勲を挙げていたという点でも、夏侯覇は三国志の武将の中でも極めて特殊な武将だと言えたでしょう。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 夏侯覇の死は蜀にとっては痛恨の一撃といっていい。 だが、蜀の滅亡を見ることなく亡くなったのは本人にとって・・・。
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