第六話 二三八年 公孫淵の戦い
公孫淵軍ではいよいよ敗戦の気配を隠せなくなってきた。
独立宣言当初はこんなはずでは無かった。
そう言う思いは、公孫淵だけではなく旗下の武将達のほとんどがそう思っていた。
武帝時代、魏の建国時代の頃は間違いなく強かった。
並み居る強敵を倒してきた武帝の強さは父から聞かされていた。
中でも最大の敵、袁紹を破った武帝は神がかった強さを誇ったと言う。
大袈裟にも聞こえるのだが、始まりは都の門番からだった人物が四百年続いた漢を滅ぼし、一大強国魏を建国するなどそれだけで神がかっている。
だが、代替わりしてからと言うもの、魏の弱体化は目に余っていた。
期待されていた文帝は呉との戦で大敗、その後肺炎をこじらせて在位僅か七年で崩御。
その後を継いだ明帝はさらに悪い。
諸葛亮からの侵攻に四苦八苦させられ、大将軍曹真が健在の頃にはかろうじて撃退する事も出来ていたが、司馬懿に変わってからは連戦連敗。
それでも魏が滅んでいないのは、蜀の諸葛亮が自滅した事と、公孫淵が外交で呉を止めていたからである。
明帝はその事も知らず、この苦しい時期によくわからない宮殿などを建て、苦しい国民の生活をさらに苦しめている。
このままでは魏は滅ぶ。
戦いに疎い大将軍、国政に疎く浪費家の皇帝、それを止めようともしない重臣達。
滅びの道を歩む魏であれば、呉とのつながりのある公孫淵が国土を奪い切り取っていく事も出来る。
蜀は諸葛亮を失ったとはいえ戦力は健在であり、対蜀戦線を縮小する事は出来ない。
当然呉も健在であり、対呉戦線も縮小させる事は出来ない。
実績のある名将達はそれぞれの前線から動けない以上、遼東の反乱に動ける者は二級程度の凡将と言う事になる。
ずばり公孫淵の読みは的中。
遼東の反乱の鎮圧に向けて出てきたのは毌丘倹と言う若手で、戦のいの字も知らない様な若造だった。
魏と決別する事を決めた公孫淵は一戦に及んだが、毌丘倹と言う若造はまともに戦う事も出来ない様な腰抜けで、ちょっと脅すと逃げの一手。
魏は終わりだ。
公孫淵は勝利を確信し、独立を宣言した。
全て上手くいっている中で、賈範や綸直といった魏からの内政官が反発してきた。
魏の国力はまだ強大であり、諸葛亮に対して連戦連敗であったとしても武帝、文帝、明帝と三代の皇帝が重用してきた司馬懿が無能なはずは無い。
敵を侮るべきではない、と。まして司馬懿は武帝、文帝からは重用されながらも警戒されていたものの、その才能を発揮してきた。
それは無能に出来る事ではなく、戦下手に大将軍を任せるほど魏に人材がいない訳ではない。
まして蜀の最前線を任せる様な事はありえない。
今ならまだ引き返せるが故、全てを投げ出してでも許しを請うべきである。
だが、これが遼東生え抜きの臣と魏からの臣の意識の違いを浮き彫りにする事になった。
魏の臣下は遼東の者を見下し、遼東の臣下は魏の者を侮っていた。
それ故に、本来であれば正論であり、検討するべき賈範達の諫言も無条件降伏を促しているとしか思えなかったのだろう。
また、賈範達にしても最初から辺境の遼東が反乱を起こしても勝てるはずがなく、そもそも子供のワガママ程度にしか捉えていなかった為、諫言の言葉も悪かったところもあった。
公孫淵は激怒して賈範達を処刑し、年号を紹漢と改める。
しかし公孫淵は、魏の事を侮っていたとしてもやるべき事はやっていた。
遼東の兵は精強であり、騎馬術であれば西涼の騎馬にも何ら劣るところはない。
それどころか遼東の騎馬民族は騎射に優れ、その点においては西涼の騎馬どころか三国でも極めて優れた特殊な技能である。
水軍と戦う訳ではなく、陸戦であればこの騎射術は圧倒的なはずだった。
それだけでなく、公孫淵はつながりを持ち続けていた呉にも援軍を要請していた。
呉から遼東までは水軍であれば北上する事によって短期間で遼東にまで兵を送る事が出来るが、遼東の乱を聞いて水軍だけでなく兵を動かせば魏を揺らす事が出来る。
それで十分なはずだった。
まして討伐軍を率いているのは無能の代名詞である大将軍の司馬懿。その率いる魏軍も寄せ集めと実績の無い若手。
さらに先鋒はあの戦う事もまともに出来なかった毌丘倹と言うのだから、まったく話にならない。
だからこそ、魏軍の先鋒は生贄だった。
ここで遼東の燕王、公孫淵の脅威を魏に轟かせる必要がある。
先鋒軍の毌丘倹の実力の程度は知れているからこそ、猛将卑衍を向かわせた。
その結果、押しに押し込み、圧倒的な実力を見せていた。
やはり魏は落ちぶれた。
そう公孫淵が確信したまさにその時、全てが幻想であった事を思い知らされる事になった。
これまで才能の『さ』の字も見せなかった毌丘倹だったが、突如牙をむいてきたのである。
押しに押していたと思っていたのは、相手がこちらに合わせて引いていただけで、こちらの勢いに押されていた訳ではなかった。
それに気付いたのは猛将卑衍の軍が壊滅した時だった。
それは瞬く間の逆転劇であり、毌丘倹と牛金に追いついた時、どこに伏せていたのか後方から魏の軍が現れたのである。
一瞬の戸惑いが軍に広まった瞬間、そのほんの一瞬を逃す事無く毌丘倹と牛金が反転してきたのである。
歴戦の猛将である牛金だけならともかく、大した経験も無いはずの毌丘倹までも驚く程的確な連携で反撃してきた。
一斉に反撃し、卑衍が動きを止められた瞬間に胡遵の軍が切り込んできた。
その閃撃を率いたのは、胡遵旗下についていた夏侯覇であり、建国の忠臣であり皇族の一員でもある夏侯淵の息子である。
それと気付いた時、すでに卑衍は夏侯覇によって打ち取られていた。
そこからは雪崩のような崩れ方で、公孫淵にどうこう出来る様な事態ではなくなってしまった。
魏の軍勢は容赦無く攻めてきたが、それは遼東軍の兵ではなく将や指揮官を徹底的に狙ってきたので、公孫淵が襄平の城に撤退した時には逃げ散った兵力も想像以上に戻ってきたので戦う事はまだ出来る、と公孫淵は判断した。
しかも天運も味方した。
遼東に長雨の時期が来たのである。
どれほど精強を誇る魏軍であったとしても、雨の中を城攻めは厳しい。
しかも魏軍は寄せ集めで、城攻めの経験が無い部隊も多い。
この雨が降る間の城攻めは無いので、その間に打てる手を考える時間が与えられた。
公孫淵はその時はそう思っていた。
「呉からは、孫権からの援軍はどうした!」
魏が動くと分かった時点で、呉への援軍要請は行っていた。
今の劣勢にあっても、呉が動けば逆転出来る状況だと公孫淵は思っていた。
「そ、それが……」
公孫淵が燕王を僭称して独立した際に相国に任じられた王建は、言いづらそうに呉から送られてきた返書を公孫淵に渡す。
『魏国で大将軍と言う重責を担う司馬公は用兵に優れ、自在に鬼謀を振るうこと神の如しという。そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ』
孫権からの返書にはそのように書かれていた。
公孫淵は呉との繋がりがあったにも関わらず、魏からの疑いの目をそらす為に呉の使者を切り、都に送った事がある。
弱小勢力である公孫淵からすればやむを得ない事だったのだが、それを全て無かった事にすると言うのはさすがに虫が良すぎる。
孫権からの返書はそう言う事だった。
「ふざけるな!」
だが、公孫淵からすれば孫権からの返書は無礼極まりなく、一方的に切り捨ててきたとしか読み取れない。
「で、ですが、呉からの軍勢が動いたと言う情報もあります。完全に切り捨てられたと言う訳ではないはず! 今一度、呉への使者を出してみては?」
「間に合うものか! この雨の中、船を出す事も出来ない! それはこちらも、呉軍とて同じであろう!」
漁船であっても長雨の時期に船を出す事ははばかられると言うのに、軍船をこの時期に出すのは自殺行為である。
「この長雨、魏にとっても辛いはず。出来る事なら今すぐにでも軍を退きたいと思っているはず。で、あれば今なら魏軍との外交も可能ではないでしょうか」
そう提案したのは重臣の一人、柳甫である。
「ただでさえ今回は遠方への遠征であり、しかも長雨とあれば兵達の士気も下がっている事でしょう。十分にこちらの意を汲んでくれると思われます」
「そうか、それはありえるだろうな。王建、柳甫、そなたら魏への使者として和睦を申し込んでくるが良い」
「和睦、ですか?」
王建が尋ねる。
「降伏ではなく?」
「降伏? 魏の方が退く名分をこちらから与えてやると言っているのだ。こちらにもまだまだ兵力は十分にある。ここから先も魏が戦うというのであれば、当然篭城戦という事になり、今以上の被害を出す事は疑いない。孫権は高く評価している様だが、もし司馬懿が本当にそれに見合う実力があると言うのであれば、損得勘定くらい正しく出来るだろう」
公孫淵は、まだ戦えると言う判断だった。
実際に兵力はある。またその兵達も魏軍の精鋭と比べても劣るところのない、精強な兵である。
相手は烏合の衆である魏軍であり、城を守ると言うのであれば確実に守る事が出来る。
だが、公孫淵が送った使者である相国の王建、この為に新たに御史大夫に任じられた柳甫の二人は首だけになって戻ってきた。
「敵将司馬懿が言うには『こちらは魏帝より列侯封ぜられた身。王建如きに軍を退け、囲みを解けとなどと指図される謂れなし。王建は耄碌して主命を伝え損なったのであろうから、次はもっと若く賢い者を使者とするように』との事です」
二人の首を届けた使者は、公孫淵にそう伝えてきた。
それに激怒した公孫淵は徹底抗戦の意思を固めたのだが、事態は公孫淵の手に収まる状態では無かった。
ついに城の食料が尽きたのである。
元々城に備蓄が十分あった、とは言えない状態だったのだが、野戦による惨敗によって物資を奪われ、その一方で分散した兵力をほぼ無制限に受け入れた結果、公孫淵が考えていた以上に早く食料がなくなったのであった。
そう、全て司馬懿の思惑通りに。
歴史上、食料が尽きて飢えた軍が勝利した事実は無い。
食料が尽きたと同時に遼東軍の士気も霧散し、もはや戦闘に耐えられる集団では無くなっていた。
「……和議だ。和議の使者を送る」
公孫淵はそれでもそう言って、使者を送ろうとするが誰もその使者を引き受けたがらない。
相国に任じられた王建や、副相国に当たる御史大夫に任じられた柳甫ですら首から上しか帰ってこなかった。
他の誰かであっても、同じ結果になる事は目に見えている。
「だ、誰か行く者はおらぬか? 和議を結んでくれば、相国の地位を与える! 望むのであれば栄華を極める事が出来るぞ!」
公孫淵は言うが、やはり誰も名乗りを上げようとはしなかった。
「和議、ともうされましても、王建殿ですら話を聞いてもらう事も出来なかった以上、何かしら和議の、あるいは恭順を示す何かを示されなければやはり話を聞いてもらえないのでは」
全員が沈黙する中、中堅の文官であった衛演が公孫淵に提案する。
「恭順、だと?」
「御意に。何かしら譲歩しない限り、絶対優位にある魏軍に提案する事すら出来ません。燕王、どうか譲歩して下さい」
衛演の説得によって、公孫淵は自身の妻子を人質とする事を認め、再度魏に交渉する事を決めた。
優秀だったと思われるんですが
この物語ではあからさまな無能として書いてますが、公孫淵はかなり優秀なところがありました。
呉だけでなく、卑弥呼が収めていた倭とも交流していたらしいです。
実際の戦でもこの物語では遊ばれていますが、史実では毌丘倹とやりあって勝利しています。
元々遼東の領主となったのも、伯父から分捕っていることから無能には出来ない事ではあります。
が、優秀であるが故に暴走しまくって、このザマなのは史実の通り。
ちなみに孫権からの書状も史実に近い内容にしています。
ほとんど司馬懿と接点が無かったはずの孫権をして『神の如し』と言わしめたくらいですので、この場合公孫淵が弱かったと言うより、司馬懿がヤバかったと言う方が正しいでしょう。