第九話 二五八年 勝利とその先に見るもの
姜維が撤退した後、鄧艾は土地を検分した後に罠を張り巡らせる。
姜維伯約と言う男。
かつて司馬懿が最大の敵となると言った武将だが、実際に目の前に現れた人物は司馬懿が手放しに褒めちぎっただけの実力者であると、鄧艾も思い知らされた。
あの男と戦う以上、こちらも打てる手は全て打たなければ勝利どころか兵を下がらせる事すら難しい。
しかし周りはそうは思っていないらしく、鄧艾であれば姜維を撃退出来ると思い込んでいる。
幸いな事に司馬望や諸葛緒といった慎重な武将が上位にいる事もあって防備に力を入れる事が出来ているが、この雍州方面軍の主力となっている若者達には不満らしく攻撃の気運が高まっていると言う問題もあった。
先日の戦いでは戦果は挙げたと言えるものの、息子である鄧忠が抜け駆けの形で出撃した事も頭痛の種だった。
謹慎と降格処分とかなり厳しめの処罰を行ったものの、抜け駆けしてでも手柄を立てたいと思う者はいる。
その人物が若ければ若いほど、その傾向は強い。
そして、年の暮れの頃に蜀軍動くの報が雍州にもたらされた。
「鄧艾将軍! さっそく迎撃に向かいましょう!」
さっそく勢いづいて、師纂が身を乗り出してくる。
もちろん迎撃には出るのだが、あまりにも勝ちを求め過ぎるのは危険だと鄧艾は思っていた。
それは若い衆だけでなく、いずれ自分も勝ちを貪欲に求める様になるのではないか、と言う心配もあった。
いや、今からその悩みは贅沢だ。相手が姜維であれば、勝ちを貪欲に求める様な余裕が生まれるとも思えない。それどころか、これまでは死力を尽くして追い返すのが精一杯だったのだから。
鄧艾は自分の考えを振り払う様に首を振る。
「将軍? 迎撃しないつもりか?」
鄧艾のその動作を師纂は否定されたと思ったのか、強く鄧艾に迫る。
「ん? いや、そんなつもりではない。当然迎撃には出るが、まずは蜀軍の正確な情報が欲しい。まずはそこからだ」
鄧艾は姜維と言う武将と敵として見なした時、これ以上の敵は存在しないと想定して対策を練ってきた。
蜀軍の進軍の順路を想定して、様々な罠を用意している。
しかし、それらも正確な情報と連動させなければまったく無意味になってしまう。
その為にまずは情報を収集する為に、鄧艾は斥候を放つ。
蜀軍は二十万もの大軍を持って進軍してくると言う。
そして先鋒を率いる武将は、王含と蒋斌と言う事だったが、かつて蜀で大将軍を務めた蒋琬の息子であるとはいえ実績の無い蒋斌と、まったく無名の王含と言う先鋒の人事は気に入らなかった。
蒋琬と言えば大将軍も務めたものの、本職は政治の方であり文官の傾向が強い。その息子もやはり同じではないかとも思うのだが、魏には陳泰という生粋の文官の血筋の生まれである希代の名将もいるので、ひょっとすると同類なのかもしれないが、姜維の意図が読めない。
先の傅僉の例もあるので、無名や実績の無さは何も参考にならない。
相手が無名だからと言って油断は出来ないのだが、何かの誘いにも感じる。
「で、布陣はどこに?」
鄧艾は斥候に尋ねると、絵図と見比べる。
そこにはちょうど罠があり、地下道で奇襲をかける事が出来る場所だった。
いかに姜維とは言え、全ての罠を見通す事は出来るはずもなく、また無名であったとしても先鋒軍を一気に叩くと言うのは決して悪い事ではない。
鄧艾は鄭倫を呼ぶ。
鄭倫と言うのは師纂や鄧忠などと一緒に雍州に来た人物だったが、そこまで優れた武勇を持っている訳ではなく、また有力な後ろ盾も無い人物であった。
しかし、優れた土地勘と勤勉さを持っていた事もあり、鄧艾が各地に罠を張り巡らせるに際して何かと重宝した人物でもあったので、下位ではあるが将軍位を与えていた。
「鄭倫、この地下道の事は覚えているか?」
「はっ。将軍よりの指示で用意した地下道ですね。しっかりと覚えております」
「よし、では兵五百を与える。奇襲部隊の一番槍を任せる」
「は?」
「将軍! 先鋒はこの俺に!」
鄧艾の人事に鄭倫は驚いて言葉を失い、師纂は怒りを隠そうともせずに鄧艾に訴えてくる。
「この作戦は、連携が何より大事だ。敵軍が大軍である事から、こちらが優位に戦う為には一番槍を奪い合う程度の武勲を競う必要は無い。より大きな武勲の為、師纂に兵一万を預ける」
「お、俺に一万?」
「うむ。副将として鄧忠もつけよう。鄭倫は地下道を掘った張本人。その事であれば私より詳しい人物である。私の記憶では今、蜀軍が布陣しているところはまさに地下道が通っている所。そこで鄭倫が蜀軍の先鋒の陣に奇襲をかける。出来る事なら兵糧を狙いたいところだが、とにかく陣に火をかけるのだ。適度に混乱を起こしたら、すぐに鄭倫は地下道を使って退くのだ。蜀の陣に混乱が起きたのであれば、師纂と鄧忠が一気に攻め立てる。それによって、初戦は大勝利で飾る事が出来よう」
鄧艾の指示を受けて、若者達は配置につく。
この鄧艾の策はまさに的中し、王含と蒋斌の陣は大敗して壊滅し、師纂達は大勝利を収める事になった。
「すまない。苦労をかけた」
敗戦の責任を問われるはずだった王含と蒋斌だったが、本隊に合流した時に待っていたのは姜維からの謝罪だった。
「い、いえ、我々の実力が及ばなかったばかりに魏軍如きに敗れる事になってしまって」
「いや、それは君らの責任ではない。鄧艾が何かしら企んでいる事は分かっていたが、それが具体的に誰をどのように狙ってくるのか分からなかったのだ。あれほどの仕掛けがあったのであれば、それが私であっても結果は同じく敗北していたはずだ。本来であれば、この姜維が敗れていたところを君らに被せる事になってしまった。この姜維の至らなさ故だ。よく戻ってきてくれた」
姜維はそう言うと、敗れて戻って来た二人を罰するような事はせずに将軍達の座に戻らせると軍議を始める。
「初戦は敗れ、手痛い打撃を受けた事は認めましょう」
姜維はそういうと、周囲を見回す。
少なくともこの場に意気消沈している武将はいない。
何かと姜維とぶつかる事の多い張翼すら、次の言葉を待っている。
「ですが、ようやく勝機を見つける事が出来ました。上手くすれば雍州方面軍を壊滅させ、丸ごと奪い取る事も出来るかもしれません」
「随分と大きく出ましたな。もちろん、根拠はあるのでしょうな」
張翼がそういうが、それは彼の役割でもある。
彼が言うのを全員が待っていたところがあるが、もし張翼が言っていなくても他の誰かが質問していただろう。
「一つには、策を用いるのが早すぎるという事。私の感想を正直に言うなら、今回蒋斌達に用いた奇襲の罠は見事であると思います。先ほど二人に言った様に、もし私に用いられていれば同じ様に敗れていた事でしょう」
「それが根拠で?」
「それほどの罠、なぜ先鋒軍に使ったと思いますか?」
姜維の言葉に、全員が考え込む。
「もし先鋒が私や夏侯覇将軍、張翼将軍や廖化であれば私も敗れた事に歯噛みした事でしょう。ですが、今回先鋒に抜擢した王含や蒋斌にこれほどの罠を使ったのは、相当に勝ちを焦っている証拠。雍州方面軍、実際には想像以上に脆い集団なのかもしれません」
「それだけで?」
「だけ、と言う訳ではありませんが、こちらが受けた被害を無駄にしない為にも、少しばかりこちらからも策を用いて引っかけてみましょう。当初の予定とは変わりましたが、鄧艾や司馬望はともかく、雍州方面軍は餌に食いついた状態なのです。これを動かしていく事が勝利への道ですよ」
今回、ちょっと短くなりましたが。
王含と言う武将、分かりにくいですが同時代に複数人いるみたいです。
『李豊』みたいなモノですね。
鄭倫や蒋斌はまた次回。
鄭倫は早めに扱ってやらないと。
 




