第三話 二五七年 鍾会の策
司馬昭が急遽集めた兵は二十六万もの大軍となっていたが、極論すればそれは烏合の衆に近い集団とさえ言えた。
半数近くは魏の正規軍であるので完全な烏合の衆よりはマシ程度の集団でしかなかったのだが、その兵をまとめる将軍達は有能であり、また皇帝曹髦の存在も大きかった。
普段は宮廷の奥でふんぞり返っていると思われている皇帝が、最前線ではないとはいえ戦場に出ると言う事に士気が高まったのである。
そうは言っても曹髦は十代の少年とも言える年頃であり、当然ながら戦の経験などないので実際の指揮は大将軍である司馬昭がとる事になる。
淮南の地に差し掛かるところで、王基の軍と合流した。
「王基、かつて諸葛誕の副将を勤めていた事もあるようだが、それでもこの戦に参加するをよしとするか?」
司馬昭の言葉に、王基は大きく頷く。
「私は魏の武将であり、諸葛誕将軍の私兵ではありません。国に仇なすと言うのであれば、それは既に公敵であると言う事。戦う事に何のためらいがありましょう」
「よろしい。では軍の先鋒を任せる」
「御意」
王基はそのまま先鋒軍として兵を進めるが、そこに現れたのは諸葛誕の軍ではなくすでに到着していた呉軍の先鋒軍である朱異の軍だった。
「来たか、国を私物化する逆賊どもめ! 義によって呉は諸葛誕将軍をお味方する! 国に忠義を示すと言うのであれば、国賊司馬昭をこそ誅するべきと知れ!」
「火事場泥棒を働く者としては、悪くない演説だ。自分に非がある者達であれば、その言葉を信じて自らを正義だと思うところだ」
朱異の前に、王基が現れる。
「呉の出る幕ではない。名声、財貨を求めるだけの呉の者達に義や忠は無く、その程度の理念で持つ矛にどの程度の重さがある。この王基が、その差を見せつけてやる。来るがいい、賊将よ」
「ほざくな、文官上がりの青瓢箪め!」
朱異は自ら打って出るのに対し、王基もそれに応えて前に出る。
王基は確かに出発点は文官寄りであった。
だがそれは彼が武勇に劣るからと言う訳ではなく、その冷静な判断力と視野の広さを買われてのことであり、武将としてもあの王凌や諸葛誕と共に戦場に出ていた実績もある。
王基は自身の持っていた槍で、朱異の矛を弾く。
その一撃は不可解なほどに軽く、この一撃で首を取ろうと言う様な攻撃ではない。
すぐに王基は反撃の一撃を繰り出すが、あからさまな釣りの攻撃を仕掛けてきた朱異が反撃を予想していないはずは無いと、当然警戒していた。
もちろんその王基の攻撃を察知していた朱異は余裕を持って躱すと、さらに数回軽く打ち込んでくる。
何か思惑があるのは王基もすぐに察知したが、それが何を目的としたものなのかが分からない以上、深入りしづらいところがあった。
それでも、敵将の首を見逃すと言う手は無い。
朱異の目的が何であれ、ここで討ち取られる事は策に組み込んであるとは思えないと言う事もあり、朱異の矛を大きく弾くと次の一撃は朱異を貫くつもりで突き出す。
しかし、朱異もまた先鋒の将軍を任されるほどの武将であり、これまでに多くの戦場を戦ってきた猛者である。
王基の攻め気を見た朱異はかろうじて王基の槍を避けると、そのまま撤退していく。
朱異が敗走した事を見た呉軍も、それに合わせて一斉に退却を始める。
が、王基は追撃をためらった。
形の上では敗走する呉軍なのだが、実際に戦に敗れて逃げる軍の雰囲気ではない事も王基が追撃をためらった原因でもある。
王基は一度本軍と合流すると、譲られた勝利と呉軍の不可解な行動を報告した。
「形だけの援軍と言う事でしょうか?」
石苞が尋ねると、王基は自信なさげではあるものの首を振る。
「戦をするつもりが無い、と言う感じでは無かったと思われます。しかし、少なくとも初戦から全力でぶつかるつもりが無かったのも事実。あるいは伏兵を狙っていたのかも知れません」
「それであれば、王基殿はそれを回避したと言う事ですな」
胡奮が少しでも気を良くさせようとそう言ったが、王基の表情は変わらない。
「士季、そなたであれば呉軍の意図するところも読めよう」
司馬昭に話を振られ、鍾会は少し考える。
「おそらく、呉軍と諸葛誕との間に取るべき戦術に差違があったのでしょう。諸葛誕の立て篭る寿春城は堅城であり守るに優位な城。おそらく呉軍は下手に野戦を挑むより最初から篭城戦を挑む事を望んでいるのでしょう。単純な戦術の話であれば、決して悪手ではありません。しかし、諸葛誕は少なからず兵を削いでおきたいと考えた。それ故に呉軍に先鋒を任せたのでしょう。そこで呉軍は下手に戦を始めるより、わざと敗れて見せて魏軍侮りがたしと報告して篭城に入ろうとしていると言う事です」
「と言う事は、これよりは攻城戦というわけか」
州泰が尋ねると、鍾会は首を振る。
「戦術に齟齬があると言う事は意思の疎通が上手く出来ていないと言う事。諸葛誕はおそらく呉軍をさほど信用していないので、そのまま兵を入れて篭城するを良しとはしないでしょう。おそらく自ら兵を率いて出てきます」
「だとすると厄介だな。諸葛誕の戦上手は今更言うに及ばず。さらに呉軍の兵も加わっていると言う。多少意思の疎通に問題があったとしても、直接指揮を取るのであればそれも緩和されよう」
そう言ったのは王基だったが、副将であった王基に限らず諸葛誕が優れた武将であった事は全員が知っている。
その人物が多少数は少ないとは言え大軍を率いているとあっては、警戒しない訳にはいかない。
「何かしら策を持って当たる必要があるな」
司馬昭もそこは認めている。
何をどう言っても、諸葛誕には十万の兵とさらに呉の援軍であり、守りに適した堅城である寿春城と言う拠点がある。
単純に兵力差が勝負の結果に直結するのであれば、魏軍の勝利は約束されたようなものだが、さすがにそこまで単純な話ではない。
数でこそ魏軍の方が多いには多いが、烏合の衆よりちょっとマシ程度に対して、諸葛誕の淮南軍や呉の援軍は戦う為の集団であり、兵としての質は向こうの方が上と予想される。
「しかし、呉軍は何故援軍を出したのでしょうか?」
鍾会が妙な事を言い出し、全員がそちらを見る。
「呉の連中であれば、魏が争う事は喜ばしい限りではないか?」
州泰は不思議そうに尋ねるが、鍾会は首を振る。
「いえ、それであれば見物するだけで兵を出す理由は乏しいのです。例えば今の敵将が諸葛恪であれば、同族同姓の者を助けるという大義も無くはないのですが、孫綝では……」
言いかけて鍾会は言葉を切り、何か考え込む。
「なるほど、つまりそういう事か」
「何を勝手に納得しているんだ? これからの話ではなかったのか?」
何やら考え込んで独り言を呟いている鍾会に、胡烈が凄む。
「一計を思いつきました。おそらくは一戦で敵軍に大打撃を与える事が出来ます」
鍾会はまず司馬昭の元へ行く。
「構わん。皆に聞かせてやれ」
司馬昭の許可を得て、鍾会は頷くと各武将を見る。
「今回の呉軍の援軍に大義などなく、諸葛誕の勝利によって得られる報酬とその武勲。すなわち財貨のみが目的の賊軍です。また、諸葛誕も初戦で呉軍を野戦に出したのはこちらの兵力を削いでおきたかったという訳ではなく、呉軍を信用していなかったという事は先ほど申した通り。一敗地に塗れさせれば、おそらくより深い亀裂を与える事が出来るでしょう」
鍾会はそう前置きすると、自身の策を説明する。
「士季の智謀、古の張良が如しだ。皆、それで良いか?」
「陛下はいかにお考えで?」
石苞がその場にいながら何ら発言しようとしない曹髦に尋ねる。
「朕に戦の経験無く、そこは参謀や大将軍に意見する事など出来ようはずもなし。だが、一つ士季の策に付け加えるとするのであれば、朕がここにいるという事も付け加えればより真実味も出よう」
「これは、恐れ入ります」
皇帝曹髦の許可を得て、司馬昭は鍾会の策を用いて諸葛誕に相対する事とした。
一方の諸葛誕は初戦の敗戦に不信感を抱き、自ら兵を率い、呉軍の援軍と共に出撃する。
魏軍に弱点があるとすれば、それは大軍であるという事。
当然のことながら、その軍を維持する為には大量の物資を前線に運ぶ必要がある。
それであれば、そこを狙う事こそが常道であり最善の手でもあった。
魏軍もそこは警戒しているだろうが、今回は皇帝親征と言う事もあって運ばれてくる物資には、明らかに戦場には必要ない様な財宝や宝物も送られてくるという情報もある。
戦を知らない少年皇帝と、その威を借りる姑息な大将軍。
諸葛誕にはそういう印象があった。
姑息な大将軍の司馬昭としては皇帝などただ邪魔な存在だったはずだが、自身が戦場に遠征している間に都で皇帝が自身の勢力を作るのを嫌って遠征に同行させたのだろうが、その接待に忙しいと見える。
そんな無駄な事をさせられる一般兵の士気が高いはずも無く、物資の輸送と言う戦で最重要な役割を担っているという意識も少ないのが見てわかる一軍を見つけた。
率いる武将は成倅であり、司馬昭直属の武将であったと諸葛誕は記憶している。
もっとも、司馬昭直属の武将達は極端な秘密主義に守られているので詳しい情報はあまり無いのだが、そんな中でも成倅は比較的表に出て仕事をしていた事が多かった。
弟がいるらしいのだが、さすがに諸葛誕はそれ以上の詳しい情報は得られていない。
司馬昭直属の武将なので真面目な人物のはずだが、どうやら司馬昭の前だけで真面目なところを見せていたらしく、輸送部隊の秩序の乱れはこちらには都合は良いものの見ていてあまり気持ちのいいモノではなかった。
魏の凋落を見せつけられている気になってしまう。
それでもここで敵軍の物資を奪う事と、敵兵と敵将を討ち取る事は戦の上では悪くない。
まして、風紀は乱れているとはいえ万単位の軍勢であり、実務能力に乏しかろうと将軍位にある者の首であれば十分過ぎる戦果と言える。
呉軍の援軍は初戦を演じた朱異と、全端であった。
二人とも知略に優れていた武将であり、この状況の不自然さに気付いた。
「諸葛誕将軍、これは敵の罠なのでは?」
「罠だと?」
朱異の主張に、諸葛誕は眉を寄せる。
「この輸送部隊の情報を掴まされた事、それこそがまさに虚報であり、こちらに輸送部隊を襲わせるように仕向けて伏兵にて襲撃する策かと思われます」
朱異だけでなく、全端も諸葛誕に進言する。
「……そこまで戦を恐れるか。呉軍も当てにならぬものだ」
諸葛誕は二将を睨みつける。
「その方らは戦う為に援軍に来たのではないのか? その様なありもしない策をでっち上げてまで戦う事を拒否するか。初戦の事もそうだ。下手な芝居までして戦う事を恐れるとは。それであれば、将など必要無い。国に帰るが良い!」
諸葛誕の言葉に、朱異は怒りの形相を浮かべて掴みかかろうという素振りをみせたが全端に止められる。
「では、あの一団を撃滅する、と言う事で良いのですか?」
「無論だ! 行くぞ!」
諸葛誕軍は成倅率いる輸送団に襲い掛かる。
成倅は戦おうとしたのだが、兵にそれに耐えられる士気が無かったのか、輸送物資も気にせずに我先にと逃げ出していく。
兵がそれではどれほどの名将であったとしても出来る事は限られている。
結局成倅はほとんど何もできないままに退却の命令を下す。
「逃がすか! 追うぞ!」
諸葛誕はすぐさま追撃の態勢を取ったのだが、呉軍はそれに呼応しない。
「貴様ら、何をやっている!」
「我らは輸送団を撃滅する事は成した。これらの物資を前線である安豊へ送らせていただく」
全端は冷たく言い放つと、すでに略奪に走っている呉軍の兵士を止める事も無く、また諸葛誕に従うつもりも無い事を態度で示していた。
「……勝手にしろ!」
諸葛誕は吐き捨てるように言うと、自らの軍だけで追撃に移る。
諸葛誕にしても、朱異や全端にしても、通常であればここまで浅い罠にかかる事は無かった。
しかし、この時の諸葛誕には常日頃の冷静さは失われ、また呉軍への不信感も異常なくらいに高まっていた。
朱異や全端も、通常であれば財貨に目を奪われている兵を止め、まずは魏軍を打ち破る事を最優先したはずなのだが、先の諸葛誕とのやり取りもあって諸葛誕に対する不信感や嫌悪感が強まった事が大きい。
結果、追撃する諸葛誕と呉軍の間には広い空間が出来てしまい、そこに石苞と州泰の伏兵が入り込んで諸葛誕軍と呉軍を分断する。
さらに追撃していた諸葛誕の軍には、王基と敗走していたはずの成倅が反転して襲い掛かって来た。
さすがに退路を断たれたうえに包囲されてしまっては諸葛誕といえども長くは持ちこたえられるはずもない。
諸葛誕は魏軍の包囲網が完成する前に、寿春への撤退を余儀なくされた。
石苞と州泰の役割は諸葛誕を包囲すると見せかける事であり、諸葛誕の追撃は王基、成倅らに任せて、財宝に目を奪われた野盗の群れと化している呉軍に襲い掛かる。
先に兵を制止する事を放棄してしまっていた朱異や全端も、今から軍を立て直して迎撃するという事は出来ず、散々に打ち破られる事となり、寿春ではなく安豊へ敗走する事となった。
この一戦は、まさに鍾会の策がはまった結果としての大勝利である。
この物語はフィクションです
正史によると、この時の王基の年齢は六十前後なのですが、この物語はでそれよりかなり若いです。
たぶん二代目王基ではないでしょうか。
ま、あまり正史は意識しなくても良いです。
また、朱異や全端も今回のは演義よりで、正史ではここまで露骨な罠にかかったりしてません。
が、鍾会に手玉に取られるところは正史でも演義でもあまり変わりません。
鍾会はこれから出番が多くなる、最重要人物の一人です。




