第三十話 二五六年 段谷で待つ結末
「……何か妙な気がする」
進軍している途中、姜維は妙な胸騒ぎを感じていた。
「大将軍、何を憂いているのですか?」
副将の廖化が、姜維の浮かない顔を見て尋ねる。
「魏に動きが無さ過ぎる気がする」
「大将軍の策がハマっていると言う事では?」
姜維の不安に対し、廖化はそう応える。
確かにそうかもしれないと思うのだが、それにしても奇妙な胸騒ぎは消える事は無かった。
鮑素からの合図が無いと言う事は、祁山では特に大きな動きは無いと言う事だろう。
魏軍が広く薄く守備軍を配置している事が予想される事から、姜維は敵軍のいないと思われるところを選んで進軍していた。
が、蜀軍はそれなりに大軍であり、ここまで魏軍に発見されないものだろうか。
魏軍にも動員出来る兵数には限度があり、重要拠点を守る事を最優先にしている以上、主要な道から外れたところにまで魏軍は兵を配置する事が出来ていない事も予想出来た。
「夏侯覇将軍、一度祁山の様子を見に戻ってもらって良いですか?」
「ん? 大将軍、何事か?」
「どうにも気になるのです」
突然前線を外れる様に命じられた夏侯覇は眉を寄せたが、姜維は別に夏侯覇に手柄を立てさえない様に嫌がらせしようとしている訳ではなく、言葉では説明出来ない何かを感じている様だった。
「分かった。一度隊を離れる」
夏侯覇はこれ以上追求する事無く、姜維の指示に従う。
そう、何かあれば合図があるはずなんだ。それが無いと言う事は、魏軍はこちらの策によって動きを封じられたと言う事。そのはずなのだが。
「進路を変え、上邽ではなく南安の武城山を目指す」
「大将軍、どう言う事ですか? 何故その様なところを?」
張翼が突然進路を変えると言い出した姜維に、その真意を正す為に尋ねる。
「魏軍にこちらの狙いを読まれている恐れがある。それを確認する為にも武城山を狙い、敵軍の動きを見る。もしこちらの狙いを読んでいたとするなら、上邽に兵を集めて備えているはずで、武城山には兵はさほどいないはず。もし私の杞憂であったなら、武城山を占領して南安に楔を打ち込み、魏軍の兵をそこに集め、その隙に祁山を奪い取る」
考えてみれば、祁山を攻める事を読んでいた相手である。
蜀軍の補給状況の厳しさから祁山を狙う事を読んだと言うのであれば、次に蜀軍が狙うのは兵糧拠点である上邽だと予想する事も難しくない。
もしそうであれば、祁山の次に守りを固めるとすれば上邽。
ここまで魏軍の動きが見えなかったのも、最初から守備兵を薄く配置していたのではなく祁山と上邽に重点的に兵を置いていたからと言う事も考えられる。
逆に言えば、それ以外の兵力は薄いはず。
武城山は南安攻略で考えれば重要拠点となり得る場所だが、今回の攻略の最短距離上にあると言う訳ではない。
ここに兵力を配置しているすれば、それは魏軍の守備軍が広く配置されている事を意味し、その場合には上邽の兵力も同じように少ない事も考えられる。
また、祁山と上邽に兵を集めて守備を固めていると言うのなら武城山を奪い、そのまま南安を攻めて祁山と上邽を分断してどちらか、おそらくは祁山を奪う好機を作る事も出来ると言うものだ。
姜維は全軍の進路を変えて武城山を狙ったのだが、そこには姜維もまったく予想もしていなかった軍勢が待ち構えていた。
「……なん、だと?」
姜維は翻る旗を見て、言葉を失っていた。
旗に記されているのは『鄧』の文字。
雍州方面軍の新指令である司馬望の副将で、前線で兵を率いる武将である鄧艾。
祁山にいるはずの武将が、武城山に備えて旗を翻している。
「いや、虚仮威しだ! 旗だけなら、いくらでも用意出来る! そんな程度の小細工に怯む蜀軍ではない! 行くぞ!」
姜維は武城山を攻撃する様に命じる。
だが、武城山にいる兵は十分な数と戦闘能力を持ち、しかも指揮官も極めて優秀であり蜀軍をまったく寄せ付けないほどの強さを見せつけた。
「……どう言う事だ? 何故、ここに魏軍が守りを固めている?」
明らかに薄く配置した兵ではなく、この武城山を守る為に備えている兵と武将に対する戸惑いは大きかった。
数回に渡って攻撃を命じたものの、武城山を落とす事は出来なかった。
だとすれば、それはそれで問題無いのではないか?
姜維は一旦兵を退かせると、冷静さを取り戻す。
ここに鄧艾がいると言うのであれば、戦略拠点となる祁山と上邽には別の武将が守りを固めていると言う事になる。
それであれば、この武城山を抜く事にこだわるより一気に上邽を抑えた方が早い。
そこからの行動は早かった。
姜維は兵を退かせて、その日の夜には上邽を目指して武城山から離れる。
元々は様子見の意味合いも強かった武城山攻めなので、諸将もそれに反対する事無く速やかに行動する。
猛攻の直後にその場を離れると言う事まで読めるとはさすがに思えないし、もしそこまで読み切る様な武将であればこんなところで燻ってなどいないはず。
そう思いながら上邽を目指したが、急ぐ姜維であっても足を止める事態が起きた。
上邽への道すがら、あからさまに伏兵に向いた箇所を通らなければならない事である。
まず間違いなく伏兵はいるだろう。だが、魏にはそれほどの兵がいるのか? すでに祁山と上邽、さらに武城山にも兵を配置していた。その上でここに伏兵が置けるのか?
「……伏兵を探らせよう。おそらくは伏せているはずだ」
姜維がそう言うと、張翼がさっそく手配する。
しかし、魏の動きは蜀軍より早かった。
上邽の守備軍と思われる魏の軍勢が、蜀軍の前に姿を現したのである。
旗から見るに、率いる武将は諸葛緒。
「蜀の賊将! 貴様の浅知恵、全てお見通しだ! 待っているのは全滅の道のみ! 諦めて魏に降るが良い!」
「何を抜かすか! 漢を、ひいては自らの国である魏をも貶める司馬一族の犬め! 貴様の如き下郎に『諸葛』の姓を名乗る資格無し! 魏の寡兵など恐るべき何者もない! 国への忠義の重さ、思い知らせてくれる!」
姜維は珍しく感情的になり、周囲の意見も聞かずに諸葛緒の軍に向かって突撃を命じた。
いくつかの原因はあったが、引き金になったのは敵将の掲げる『諸葛』の旗だろう。
もちろん諸葛の一族が蜀だけでなく、魏にも呉にも属している事は知っている。
しかし、姜維にとって『諸葛』の旗は大きな意味を持っていた。
今回の出兵、明らかに蜀軍に勝機があり姜維も今回こそは一定の戦果を得られると思っていたが、ここまでまったく良いところが無い状態である。
そこへ『諸葛』の旗を持つ敵将から挑発されて、そこに耐えられるほどの余裕が無かった。
蜀軍が魏軍と当たろうとしたまさにその時、蜀軍の放った斥候が戻る前に魏軍の伏兵が蜀軍に襲いかかった。
それは司馬望への伝令を終え、そこから密命を受けて伏せていたのは鄧忠と蜀から投降し郭淮に重用されていた句安だった。
攻めの勢いを伏兵に止められたのを見たところで、諸葛緒も蜀軍に襲いかかる。
「怯むな! 敵の数は多くない! 兵の質とて我が軍の方が上だ! 恐れる必要など無い!」
姜維は自ら槍を持ち、全軍の指揮を取る。
伏兵と諸葛緒の攻撃に晒された蜀軍は一時的に浮き足立ったが、大将軍である姜維が危険な場所に自ら立ったと言う事に奮い立ち、立ち直ろうとする。
が、魏軍の手は強く鋭く早く、姜維と蜀軍に立ち直る好機を与えようとしない。
武城山を守っていたはずの鄧艾が、後方より蜀軍に襲いかかってきたのである。
「姜維将軍! ここは撤退するしかありません!」
張翼が姜維に進言する。
「撤退だと? 何を言うか! 今少し踏みとどまれば、正面の敵軍を抜きその足で上邽を奪い取る! これに守備軍が前に出てきたと言うのであれば、上邽の守りは無い。胡済さえ来れば形勢は逆転される!」
「無理です! もっとも強い敵軍から後背を攻められては、持ちこたえるどころではありません!」
「鮑素は! 敵がここに集まっているのであれば祁山は手薄のはず! 今なら祁山を奪える!」
姜維は前線を維持しようとしながら、逆転の手を探る。
そこに、鄧艾の囲みの一部を破って夏侯覇の一軍が姜維と合流した。
「大将軍! 祁山はすでに敵の手に落ちている! 鮑素も討ち死に! ここは撤退しかありません!」
「鮑素が? 一体何があった!」
「今はこの戦場から離脱する事が先決! 大将軍、ここで全てを捨ててはなりません!」
夏侯覇と張翼の必死の説得もあり、姜維も冷静さを取り戻す。
「……将軍達の言こそ正しい。私が誤りであった。急ぎ撤退する! 後背の鄧艾軍を打ち破るのは無理だろう。無理に前に抜ける事も厳しい。ここは段谷へ退く」
姜維はそう決断して撤退を始めたが、魏軍の追撃は苛烈で蜀軍は多大な犠牲を出しながら段谷へと退いていく。
姜維は自ら殿軍となって魏軍の追撃を食い止めようと奮戦しながら、その一方で傍らで共に戦う夏侯覇から祁山の様子を聞いていた。
祁山では蜀軍の弓の届かないところを見定める為に、魏軍が多数の少年兵を連れて、蜀軍の目の前で練兵を始めたと言う。
あまりにも露骨な挑発に、鮑素は苦笑いしながら放っておいたらしい。
だが、その少年兵達は練兵しながら、徐々に、しかも隠そうともせずに蜀軍の陣に近付いて来ていた。
さすがに目に余ると言う事で弓矢にて陣から出る事無く応戦していたが、魏軍の少年兵達は一時的に兵を下げると、またやって来ると言う事を繰り返してきた。
鮑素は魏軍にも兵が少なく、急造でも少年兵達を一端の兵士にしようと魏軍が画策していると読み、兵二千で少年兵達を追い散らしに陣を出たと言う。
当初の鮑素の予想では、この少年兵達は囮で伏兵がどこかに隠れていて陣を奪おうとしていると思っていた。
なので、こちらから打って出れば兵を引かせて誘ってくるだろうと見ていたのである。
結果としてそれは的中していたのだが、魏軍の動きが鮑素の予想とは違っていた。
なんと少年兵達が真正面から鮑素に立ち向かってきたのである。
すぐに敵が引き始めると予想していた鮑素は、その動きに合わせて陣に戻るつもりでいたが、まさか真っ向からぶつかってくるとは思わずに陣に帰陣する時を逸してしまったのである。
また、相手がまったく戦慣れしていなさそうな少年兵だった事も、それを指揮している武将と思しき人物が少年だった事も、敵を侮った一因であった。
鮑素がすぐに陣に戻ろうとした時には、この大量の少年兵まで一緒に連れ帰る事になるのを懸念して、まずこの少年兵の一団を蹴散らしてから帰陣しようとした。
そうして挑発に乗る形となった鮑素は、少年兵の一団と本腰を入れて戦おうとした時、もっとも警戒していなければならなかった武将である胡奮の伏兵に合い討ち取られ、その勢いのまま祁山の陣も失う事になったと言う。
「少年兵、か」
祁山に兵力が増員されたと言う報告は、姜維も受けていた。
しかしそれは雍州方面軍の兵であると思い込み、魏が本腰を入れて祁山を守ろうとしているのだと判断してしまった。
まさか最前線の最重要拠点である祁山に増員された兵が、少年兵による水増しだなどとは思いもしなかったのである。
蜀軍は壊滅寸前まで追い込まれながら、それでも退路となる段谷まで来る事が出来た。
そこで兵を再編しようとした時、魏の一軍が蜀軍の退路の前に現れる。
「ここまでだ、姜維よ! 観念して魏に降るが良い」
そこに現れたのは、都に招集されたはずの陳泰だった。
「陳泰、だと? 馬鹿な!」
夏侯覇ですら、その伏兵には驚きを隠せずにいた。
「おのれ! かくなる上は、決死の戦であの軍を打ち破るべし! 全軍、我に続け!」
「なりません! 大将軍は蜀軍になくてはならないお方! 夏侯覇将軍、張翼将軍! ここは我が軍が引き受けます! どうか、撤退なさって下さい!」
これまでの追撃戦で怪我を負った張嶷が、自ら殿軍を名乗り出る。
「ならぬ! これはこの姜維の失態! 全責任は私にある! なれば、我が命を持って将兵を国に帰す事こそが責務である!」
「何を言われるか! 甘えた事をぬかすな!」
これまで年下の姜維に対して、一歩引いたところで応対していた張嶷が吠える。
「大将軍とは、一介の将兵にあらず! ここで命を落とす事は大将軍の責務を放棄して逃げるも同じ! 真に責務を全うするつもりでいるのならば、他の誰を犠牲にしても大将軍は国に戻らねばならぬ! その後にこそ、大将軍の真に責務がある!」
「……張嶷の言こそ、まさしく国士の言。大将軍、生きてこそ再戦の機会もあります。あの諸葛丞相ですら街亭で大敗した後、例え恥辱に塗れるとも国に帰り責を全うする為に危険を顧みずに空城の計を計り、涙しながらも馬謖殿を切ったのです。その遺志を継ぐべき大将軍が、諸葛丞相の行為に後ろ足で砂をかけてはなりません」
張嶷に続き、廖化も姜維に向かって言う。
「大将軍、ご決断を。大将軍の決断の遅れが、前線で戦う兵の命にも関わります」
張翼が姜維に言う。
こうしている間も、陳泰の攻撃を防ぐ為に兵は奮戦して命を落としている。
また、逡巡している時間が長くなれば鄧艾の率いる追撃軍も追いついてくるのだ。
「……皆の言う事、まったくもって正しい。張嶷、殿軍は貴将に任せる。必ず賞する事を約束するから、それを受ける為にも生きて戻るのだぞ」
「御意。大将軍より直々に賞していただく為、生きて戻ります」
こうして蜀軍は大き過ぎる犠牲を出しながら、漢中へと撤退していった。
数万に及ぶ兵と、張嶷や鮑素の他多くの武将さえも失う、まさに惨敗であった。
演義準拠なので
この物語では張嶷はここで命を落としていますが、正史ではもっと前に病死しています。
と言うより老衰ですね。七十過ぎていたみたいですから。
この戦いは詳細は多少違うものの、正史にしても演義にしても鄧艾の神がかった戦術眼で姜維に対して先手を取り続け、蜀に大打撃を与えた戦です。
この時の姜維はやる事なす事、全てが裏目。
ですが、この戦に関してだけ言うのなら、これは見抜いた鄧艾がちょっとおかしいだけで、姜維の能力が低かったと言う事はありません。
ただ、無名の鄧艾に対しての警戒が薄く、その能力を侮っていたところはあったでしょう。
出世が遅かった鄧艾なので、その事も姜維が侮っていた一因なのかも知れません。




