第二十七話 二五五年 牙は折れていない
「この度の失態、誠に申し訳ない!」
雍州方面軍と合流を果たした王経は、まず陳泰に謝罪した。
「失態を取り戻したい気持ちは分からないではないが、性急過ぎたな、王経。あの時に即戦に応じるではなく、まず足場を固めてしっかり守る事が肝要であった。その点、反省するべき点である」
陳泰の厳しい言葉に、王経は素直に頷く。
「しかし、劣勢の中、よく城を守ってくれた。その点においては見事と言うほか無い」
「恐れ入ります。ですが、将軍の救援があと十日も遅れていれば、城は蜀に奪われ我らも屍を晒した事でしょう。感謝の言葉もございません」
王経はしきりに陳泰に頭を下げている。
かなり扱いにくいと評判の王経だが、少なくともこの場で見る限りでは道理の分かった人物である様に見える。
「俺一人でなんとかした訳ではない。この苦境の中、最速で援軍に答えられた司馬望閣下がわざわざ敵の目を引きつけてくださったからこそだ」
「いえいえ、私など陳泰将軍の知勇の欠片ほども大した事はしておりません。王経将軍は確かに迂闊だったかもしれませんが、見事に城を守って挽回されました。それで良いではありませんか」
司馬望は父譲りの人の良さからか、そうやって陳泰を諌める。
「それに、凶報が届いています」
和やかだったところに、司馬望は敢えてそれを口にする。
「凶報? 我らの勝利を打ち消すほどのものですか?」
「司馬師大将軍がお亡くなりになりました」
「大将軍が? 一体何故? 毌丘倹との戦は圧勝だったと聞いていましたが?」
陳泰は鄧艾と杜預の方を見る。
雍州方面軍は姜維の動きの対処に迫られていたので詳細を知る事は出来ていなかったが、だからと言って何も知らされていない訳ではなかった。
魏の名将毌丘倹の反乱と言う大事に合わせて姜維は攻めてきたのだが、その名将をしてほぼ何も出来ないままに反乱は鎮圧されたと言う報告を受けていたのである。
また、援軍としてやって来た呉の大軍さえも蹴散らし、憂いを取り除いたからこそ援軍を出す事も出来たと、陳泰はそう思っていた。
ほぼ正しいのだが、ただ規格外の剛勇を持つ猛将が敵側にいたと言う事だけが正しく伝えられていなかったらしい。
「我々が戦場を離れる時にはご健在でしたが、目の下の手術をしたばかりでの出兵であった事が良くなかったのでしょう。我々には心配をかけまいと、こちらの事は良いから雍州を守れと送り出されましたので」
鄧艾は陳泰に対してそう答える。
「……なるほど、確かに大将軍の言いそうな事ではある」
陳泰も頷くが、事の重大さもよく理解していた。
司馬師に限らず、権力者と言うものには必ず悪い噂と言うものが付いて回る。
だが、司馬師はそれに振り回される事なく大将軍と言う重責を担える、数少ない英傑の一人であることは、魏の上層部にいて知らない者などいないだろう。
そして、その代わりが務まる者がいない事も。
「つきまして、大将軍の葬儀に陳泰将軍が出席する様にと伝令が来ています」
「俺が? お身内である司馬望将軍や、直属であった士載殿ではなく?」
「此度の戦で陳泰将軍の昇進が決まり、その後任として私が引き継ぐ事になりました。また鄧艾将軍も司馬師大将軍の属官を解かれ、正式に雍州方面軍の将軍となって私の補佐と言う事になっています」
「……なるほど」
裏の意図が見える人事である事から、陳泰は言葉少なく応えた。
司馬望は厄介払いされたのだ。
司馬一族の中でも司馬望は特に今の皇帝と近しい間柄であり、司馬師の後任となる司馬昭にとっては扱いにくい存在となったのだろう。
司馬望自身にそのつもりはなくとも、もし皇帝から直接大将軍を任じられた場合にはそれを受けない訳にはいかず、そうなると司馬師から直接次を指名されている司馬昭より優先順位が高くなる。
司馬望自身も思うところがあるのかもしれないが、その人事を快く引き受けた為に争いの気配すら起きなかった。
「それであれば尚の事、姜維撃退が出来て良かったですな。いかな姜維と言えど、此度の敗戦で牙も折られた事でしょう。陳泰将軍、大将軍を弔ってきて下さい。おそらく蜀はしばらくは動けないでしょう」
雍州は最前線と言う事もあり、胡奮はここに残る様だった。
「不幸中の幸いと言うべきでしょうね」
諸葛緒も安心している様だった。
「……いえ、蜀軍の牙は折られていません。姜維は近いうちに必ず攻めてきます」
この空気に水を差すのはどうかと考えたのだが、鄧艾は敢えてそれを口にした。
大将軍の死は確かに大事であり、魏にとって最も大きな問題である事は間違いないが、そこばかりに注視していられる状況ではない、と鄧艾は考えていた。
「何を言われるか。姜維は以前の敗北で羌族の信頼を失い、此度の敗北で元の拠点より大きく後退している。それはつまり力尽きたと言う事だろう。雍州の備蓄を考えても、ここでこれ以上の動員の必要があるとは思えないのだが?」
王経は不思議そうに言う。
それは王経だけでなく、諸葛緒や胡奮も同じ様に考えていたらしく、鄧艾の言葉を不思議そうに聞いている。
「智将と言われる士載殿だ。もちろん根拠を持っての事なのだろう?」
陳泰が尋ねると、鄧艾は頷く。
「今回の戦ですが、確かに姜維を撤退させる事は出来ましたが、被害の度合いで言えば我が軍の方が遥かに大きく、先ほど王経将軍自身が言われた通り、雍州には備蓄も少なくなり今回の被害から住民が離散している郡もあるでしょう。いわば崩壊寸前でなんとか踏みとどまっている状態です。今は退いている蜀軍ですが、戦況を改めて見た時におそらく勝利の勢いは蜀軍にあり、我が魏軍の士気はそこまで高くは無いでしょう。まずこれが第一の理由です」
「第一? ほかにも理由がある、と?」
司馬望も尋ねると、鄧艾は同じように頷く。
「すでに辞令が出ている通り、陳泰将軍と王経将軍が中央に移動となり、新任である司馬望将軍と私では雍州方面軍の指揮に慣れていません。それに対し蜀軍は長らく姜維が率いている事もあり、兵も派遣されたばかり。練度も装備も蜀軍が上でしょう。それが第二。蜀軍が最前線の拠点まで水路によって船で移動出来る事に対し、我が魏軍はこの方面軍以外から援軍を頼むとしてもそれは陸路によって歩く事になり、移動による疲労が違いすぎる事が第三。前回より押し戻す事には成功したとは言え、それによって蜀軍は狙う場所を狄道、隴西、南安、祁山と選ぶ事が出来ます。その為こちらはそれらに備えなければならないのに対し、蜀軍はそれらの一点を攻略する事に全力を注ぐ事が出来ます。それが第四。物資、特に食料の生産力で言うのなら魏と蜀では比べ物にならないでしょう。それ故に祁山の熟した麦は姜維にとって、そして蜀軍にとって入手したいと思っているはず。それが第五。これだけの理由があって、蜀軍が攻めてこないと思うのは些か希望的観測が過ぎると思うのです」
鄧艾はそう言ったあと、周囲の面々を見る。
「……まぁ、私が悲観的に過ぎるのかも知れませんが」
「いや、道理だと俺も思う。どうだろう、士載殿の意見、聞くべき点があると思うのだが」
陳泰は鄧艾に賛同したあと、周りを見る。
確かに今回は蜀軍を撃退している事には違いない。
しかし鄧艾が述べた通り、魏軍は勝利したと言うにはあまりに大きな損害を出している。その上、ここへ来て長らく郭淮と共に雍州方面軍の指揮を取っていた陳泰が外れるとなると兵の士気に関わってくる。
蜀軍が攻めてくる都度援軍を要請しているが、今の魏には大軍を駐屯して置けるのは都の洛陽くらいであり、生産拠点とされている長安にすら多くの兵はおいていない。
そこからの強行軍となれば、到着した時点で一戦終えたくらいの体力を消耗する。
鄧艾の上げた問題の三つは、軍事に関わる将軍達であればすぐに理解出来る話だった。
「しかし、士載殿の言葉を借りて言うのであれば、蜀の狙いは祁山なのですからそこの守りを厚くする事で対策出来るのでは?」
諸葛緒が提案するが、胡奮が首を振る。
「俺も同じ事を考えたのだが、守りを厚くしている祁山を蜀軍がバカ正直に狙ってくるとは限らない。確かに麦は欲しいだろうが、その場合には守りが手薄になるであろう他の道を通って祁山との連絡を絶たれた場合、祁山の守備兵は蜀軍が雍州を切り取っていくのをただ見守るしか無くなる。慌てて出て行ったところを蜀軍は手薄になった祁山に攻め込み、存分に麦を刈り入れた上に居座る事になるだろう。先ほど士載殿が言われた通り、狙われているのが祁山だとわかっていたとしても、各地に兵を配置せざるを得ない」
「ではどうすれば?」
「まあまあ、王経将軍。落ち着かれよ。ここまで見抜いた士載殿です。何かしら対策はあるのでしょう」
諸葛緒や王経は不安を隠そうともしていない中、司馬望は落ち着いてなだめながら言う。
「……必ずしも上手く行く、とは保証できませんが、策はあります。ただ、相手が姜維である以上、一切の油断は出来ない事は皆がわかっていて下さい」
「鄧艾将軍、正直なところを申し上げたい」
胡奮が改まって言う。
「包み隠さず言えば、将軍は遼東で大将軍に逆らって悪目立ちしただけで司馬一族から重用される様になった小才の者ではないか、と少しは考えたりもしたのだが、いや、とんでもない。将軍こそ、まことの名将。この胡奮、我が見る目の無さに恥じ入ります」
「ま、将軍の場合は見栄えがしないのでそう思われても仕方ないですよね?」
杜預が笑いながら言う。
「元凱の言う事も分からないではないが、少しは言葉を慎め」
「陳泰殿には言われたくないのですが」
陳泰と杜預が軽く言い合っている姿に、周りから少なからず安心からか笑いが漏れる。
「では、失礼ついでに俺からも一つ良いですか?」
杜預が挙手して言う。
将軍位で言うのであれば杜預は鄧艾の副将なので、決して高位ではない。
しかし司馬一族に連なる者でもあるのだから、発言力だけで言えば鄧艾より影響力のある人物でもあった。
「おそらく将軍の策のお役に立つと思いますよ?」
こうして勝利に浮かれる事無く、雍州方面軍では蜀軍対策の方針が定められていった。
ようやくここから。
三国志演義では、やっとこの辺りから鄧艾が本格的に表舞台に登場します。横山光輝三国志での登場はもう少し先。
その前にちょこっと文鴦なんかと一騎討ちしたりしてますが、それは姜維が趙雲と一騎討ちした様なモノで、本来の仕事とは違った活躍と言えます。
と言うより、いくら十代だからと言っても超人級の武勇を誇る文鴦と一騎討ち出来る農政官ってどうなんでしょう?
元書記官の楽進に通じる場違い感。
本当に司馬懿に才能を見出されて良かったと言えるでしょう。
この物語では歳をとった感じはありませんが、正史ではこの時の鄧艾は六十代。能力の割にめちゃくちゃ出世が遅かったと言えますが、老いて益々盛んは何も黄忠に限った事ではありません。
そう考えると鍾会とはこの時代で考えると親子ところか、祖父と孫くらいの年の差です。




