第二十四話 二五五年 蜀を警戒せよ
結果だけで見るなら、今回の毌丘倹の乱は魏軍の完勝であり、名将と言われる毌丘倹ですら今の魏に対しては手も足も出ないままに、何も出来ないで乱は鎮圧された事になる。
だが、実際に魏が被った損害は計り知れないものだった。
「子尚か。待っていたぞ」
幕舎に現れた司馬昭を、司馬師が迎えて言う。
と言っても、司馬師は横になったままであり、その血の気の失われた顔色を見た時に司馬昭は言葉を失った。
「あ、兄上……」
「そんな顔をするな。これからはお前が大将軍なのだぞ」
司馬師は横になったまま、司馬昭にいう。
「その最初の仕事として、今回の騒動に便乗する形で、必ず蜀の姜維が動くはずだ。すぐに西に向かって姜維に備えよ。今回の出兵の中から士載を使うと良い。父も俺も士載には内政に従事してもらおうと思っていたが、あの軍才を眠らせるのは惜しい。これまでに姜維と戦った事もあり、撃退に協力している。子初(司馬望の字)の補佐として、士載も対蜀に使うのが良いだろう」
「御意。ですが、大将軍は兄上にしか務まりません。私如きでは、兄上の足元にも及びませんので」
「俺もそのつもりだったのだがな。あの小童め、やってくれたわ」
司馬師は笑うが、それは今までの司馬師らしからぬ弱々しいものだった。
「……諸葛誕、貴様、文欽に対してどう言う手を打ったのだ?」
「何を言われる」
司馬昭に冷たい目を向けられ、諸葛誕もむっとするのを隠せずに言い返す。
「貴様、敵と内応しているのではあるまいな」
「子尚、馬鹿な事をいうな。公休はその様な男ではない。ただ、あの小童が我々の予想を遥かに超えた傑物であっただけだ。アレは公休でなくても、魏で止められる者はいなかっただろう」
司馬師はそう言ってたしなめると、司馬昭を見る。
「それに今は公休と言い争っている場合ではない。今にして思えば、孫権には礼の一つも言ってやりたいくらいだ。有能な臣下を多数粛清してくれたのだからな。だが、東呉の麒麟は老いて駄馬に成り下がってくれたが、西蜀の麒麟はそうもいかん。もし俺なら、間違いなく兵を向ける。玄伯だけではさすがに厳しいだろう。姜維のヤツに大将軍になってから初の遠征で手柄を上げさせては、場合によっては時流を掴まれ、手に負えなくなるぞ」
司馬師に言われては、司馬昭も諸葛誕も反論する事は出来ない。
「公休よ。今回の文欽との戦い、見事だったぞ。お前の働きのお陰であの小童から壊滅させられずに済んだ。王基と共にこの地に残り、後始末を頼みたい」
「よろしいのですか? 何やら疑われている様ですが」
諸葛誕は自分でも言わなくてもいい事だと思いながら、それでも司馬昭に対する嫌味が口から出ていた。
「公休、君はそんな細かい事を気にする男では無いだろう。お若い陛下を、これからの魏を担うのだがら、もっと大きく構えるがいい」
司馬師はそう言うと、疲れたのか大きく息を吐く。
「これ以上の無駄話は必要無い。都に凱旋の準備だ。ここで俺が死んだとあっては、毌丘倹の反乱に成果アリと言う事になってしまうからな」
司馬師は軽口の様に言うが、その命は長くない事はこの場にいる誰の目にも明らかだった。
もちろんこれらのやり取りは呉軍と戦っていた鄧艾達は知るよしも無く、戦いが終わって戻った時には既に本隊の撤収は始まっていた。
「早いですね。何かあったんでしょうか」
杜預はこちらが合流するより早く撤収作業が始まっていた事に、妙な気配を感じたのだろう。
「撤収を急ぐ理由なんてそう多くはありませんよ。おそらく蜀の姜維が動いたのでしょう」
今のところ特に淮南に残る様な指示も受けていない事もあって、鄧艾は本隊の撤収に参加して言う。
「姜維と言うのは、それほどに戦好きなのですか?」
蜀との戦いに参加した事の無いらしい諸葛緒は、鄧艾に尋ねる。
「戦好きと言うより、打倒魏を掲げている以上、好機を逃さずに行動していると言う事です。まぁ、人並み外れた軍才あっての話なので、戦好きと言えばそう言えるかも知れません」
鄧艾は諸葛緒の質問に答えながら、もう一つの不安の事は話さずにいた。
鄧艾も杜預も、司馬師が命に関わるくらいの出血だったのを見ている。
特に蜀が動いたと言う報告を受けていない状態で撤収を急ぐ理由は、司馬師の容態に問題があっての事だろうと予想出来た。
秘密主義の司馬昭の事を鄧艾は詳しく知らないものの、あくまでも現段階での話であればその実力はまだ司馬師に及ばない。
しかし、ここまで撤収を急ぐと言うのであれば、それは火急の事態だと思うべきだろう。
と、考えたのだが、杜預であればともかく司馬師の容態を知らない諸葛緒に憶測だけでの情報を与えるのは、まったく無意味に不安を煽るだけの事である。
鄧艾はそう判断したので、蜀の侵攻の可能性を強調した。
「士載、戻ったか」
撤収作業にかかっていた鄧艾の元に、司馬昭と諸葛誕がやって来た。
「これは将軍。何故将軍がこの様なところに? 都の警護では無かったのですか?」
「それはこれから戻って行うが、火急の事態故に伝令としてお前に伝えに来たのだ」
司馬昭ほどの立場の人間が伝令と言うのは、明らかに有り得ない非常事態である。
「大方の予想は付いているかも知れないが、やはり姜維が動いた。蜀の大将軍となって初の出征であり、司馬師大将軍が言うにはこの戦で戦果を挙げさせようものなら今後手に負えない事態になりかねないと警戒されている。そこでお前に救援に向かって欲しいのだ。連戦になるが、姜維と戦った経験のあるお前だからこそ適任でもある。引き受けてもらえないか」
「ご命令とあらば、この鄧艾、当然引き受けます。私と杜預で向かえば良いのでしょうか」
「今回率いた先鋒軍をそのまま連れて行くが良い」
「しかし私はそれほどの兵を率いる身ではありませんが」
「都から援軍の総大将として司馬望が出る。士載は司馬望と合流するが良い。だが、司馬望はまだ経験不足故に士載が補佐してやってくれ」
「御意。すぐに向かいます」
「緒よ。お前も士載殿の旗下に加わり、加勢するが良い」
司馬昭が鄧艾に話している時、諸葛誕も自身の副将である諸葛緒にそう言っていた。
「私が?」
「ああ。僕は淮南での戦後処理があって身動きが取れない。それに今回呉との戦で士載殿の指揮下で十分な戦果も挙げているじゃないか。ここで経験を積むのも緒にとって悪い事では無い」
諸葛誕は説得する様に、諸葛緒に言う。
「分かりました。では、鄧艾将軍の元に加わる事にします。将軍、よろしくお願いします」
「よろしいのですか?」
独断で決めていいものか悩んで、鄧艾は司馬昭に尋ねる。
「構わん。今は一刻を争う事態。撤収は本隊と留守居役の諸葛誕、王基に任せて士載達はすぐに雍州に向かえ」
鄧艾と杜預、諸葛緒は本隊とは別行動となりそれぞれの軍を合わせて一万五千の兵を連れて雍州へ向かう事になった。
実際には鄧艾や諸葛緒はそれほどの兵を率いていなかった上に戦で消耗していたのだが、司馬昭と諸葛誕から補充された兵も含まれているのでかなりの兵数となっていた。
そこからさらに洛陽から出兵した司馬望の援軍と合流した事もあり、その総数は五万にまで増えていた。
「鄧艾将軍。この度は、よろしくお願いします」
一応、この援軍の総大将である司馬望が遠征組を率いる鄧艾と合流した時、わざわざ挨拶に来た。
司馬望は司馬懿の弟である司馬孚の息子であったが、跡取りを失った兄の司馬朗に養子に出されたと言う経緯もあり、司馬師や司馬昭の従兄弟に当たる。
実父に似た温和そうな外見だが、その軍才や武才には見所があると評判だった。
現皇帝の曹髦からも重用されている人物なのだが、そこはやはり父の血なのか出世や宮廷闘争にはさほど興味を示さず、淡々と地味で目立たない仕事をこなして来た。
そこへ来て、今回は雍州と言う最前線に出る事になったのである。
非常に高位の将軍位でありながら、低位の将軍である鄧艾に対しても腰の低い対応で、ここでも争いを好まないのが分かる。
「この鄧艾、全ての指示に従う所存。どの様な事でもお命じ下さい」
「それは困ります」
まったく予想外の言葉が出てきたので、鄧艾の方が戸惑う。
「私にはこれまで大きな戦で兵を率いた経験が乏しく、実戦経験豊富な鄧艾将軍に補佐していただかねば、総大将と言っても足を引っ張ってしまいます。全てはこの司馬望の責任と言う事で、鄧艾将軍には存分に手腕を奮って頂きたい。お願いします」
「お願いします」
司馬望に続いて、諸葛緒までそんな事を言い出す。
確かに実戦経験で言えば鄧艾の方が多いだろうが、将軍位では司馬望はもちろん諸葛緒の方が上である。
「将軍、頼られてますね」
「元凱、君にも期待してるよ」
司馬望は杜預にも笑顔を向ける。
「え? 俺?」
「もちろん。元凱は鄧艾将軍の副将として、多くの戦場を戦ってきたんだ。今後の魏を担う若手として期待されているんだから」
「……はい。精一杯努力致します」
「ところで司馬望将軍。雍州の情報は何か入っていませんか?」
何しろ鄧艾達は淮南から言われるがままに移動してきているので、現状がまったく分からない。
」
今分かっている事と言えば、蜀の大将軍となった姜維が初の出征を行ったと言う事だけで、その兵の規模もどこを狙っているのかも分からない状況である。
これでは洛陽までは来れても、このまま雍州方面軍の基地に向かっていいものかも分からないくらいだった。
姜維の戦術は非常に複雑かつ緻密で、複数の策を同時進行で駆使してくるので、先の戦の様に後手に回ると司馬昭ですら手玉に取られるほどである。
しかし、雍州方面軍の司令官を勤める陳泰もまた優れた智将であり、血気盛んな言動とは裏腹に冷静で慎重な男だ。
そう簡単に姜維に敗れる事は無いはず。
そこで、都からの援軍は斥候を放ちながら雍州方面軍の拠点に向かう事となった。
だが、凶報は鄧艾達が拠点につく前にやって来た。
先行して戦端を開いた王経の軍が姜維に敗れ、狄道城に逃げ込み包囲されていると言うのである。
「まずいですね。急ぎ陳泰将軍の元へ行きましょう。後手に回ってしまったようです」
鄧艾はその知らせを受け、雍州方面軍の拠点へと全軍を急がせた。
この時、真の凶報はまだ鄧艾達には届いていない。
大将軍司馬師の急逝。
毌丘倹を討ち取り、完勝によって乱を鎮めた僅か七日後の事だった。
司馬望ですが、実は……。
この物語ではかなり若手のイメージで、杜預より少し年上で陳泰と同じくらいの年齢で描いていますが、史実ではこの時には五十を超えてます。
なので実戦経験も十分、実績も申し分無しの状態です。
皇帝である曹髦からも重用されていたものの城勤めでは無かったので、専用の車と従者を与えられていたそうで、頻繁に呼び出されては車をかっ飛ばしていたそうです。
ちなみにこの物語では関係は非常に良好ですが、史実では皇帝から重用されていた為に司馬師や司馬昭を警戒し、その事もあって対蜀最前線に移動したみたいです。
今作ではお人好し感溢れる人になっていますが、史実での実績を見る限りでは郭淮や陳泰と比べてもさほど劣るところのない恐ろしく有能な武将です。
 




