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新説 鄧艾士載伝 異伝  作者: 元精肉鮮魚店
第二章 血と粛清の嵐の中で

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第二十話 二五五年 淮南に吹く風

 この時代の魏において、名将とは誰かと尋ねるとまず誰よりも最初に名前が挙がるのは毌丘倹だっただろう。


 彼は実績だけでなくその人望も十分であり、個人の武勇だけでなく知略や軍略にも優れた人物であり、特に攻勢の強さには定評がある。

 しかし、先の合肥新城の様な極限での守りの戦もこなす万能型の武将で、魏に対する忠義も厚い。


 それ故に、今回の司馬師の行いを看過出来なかった。


 曹芳に問題があった事は、毌丘倹も知っている。


 側近である李豊や夏侯玄達がそれを諌めていれば、と言うのは毌丘倹も思うところがあった。


 しかし、その全責任を司馬師が一方的に断罪して李豊や夏侯玄達を三族に至るまで処刑し、しかも皇帝を廃位して新たな皇帝を据えると言うのは許容出来る事ではない。


 また父である司馬懿が曹爽との政争の際にも、その皇族に対する苛烈な処断は物議を醸し、王凌の反乱未遂を招いた事もあった。


 それだけに魏には反司馬勢力が燻っていると言うのが、毌丘倹の見立てである。


 軍略にも精通した毌丘倹故に、司馬師がとってくる戦略も予想がつく。


 司馬師は内乱を長引かせたくはない。


 もちろん長引いていい内乱など無いのだが、蜀では後任の大将軍には姜維以外考えられない事もあって、当然の様に大将軍となって兵権を掌握した。


 この内乱が少しでも長引けば、あの戦の天才が蜀の兵を率いて攻め込んでくる。


 また、淮南は呉と隣接している事もあり、諸葛恪から丞相を奪い取る事に成功した孫峻もその実力を示す為に、乱れる魏に攻め込んでくる事も十分に考えられる。


 そうさせない為に、司馬師は大軍をもって短期間で鎮圧を目指すはず。


 言うまでもなく、魏の大軍が一気に攻め込んできた場合には毌丘倹がどれほど優秀であったとしても、まともに戦う事など出来ない。


 そこで毌丘倹は地盤となる淮南の掌握を急ぐと共に、各地に司馬師に対する弾劾状を送る事にした。


 これで各地に燻る反司馬勢力が何らかの動きを見せれば、司馬師は淮南にのみ兵を出す事は出来なくなる。


 司馬師はそれを鎮圧する為に兵力を分散させざるを得なくなり、そこで毌丘倹は決戦に挑んで司馬一族の勢力を弱める事が彼の目的であり、戦略だった。


 毌丘倹は何も司馬一族の全てを粛清しようとは考えていない。


 例えば共に合肥新城で戦った司馬孚などは高齢ではあるにしても、魏の軍部においては欠かせない重要人物であり、また司馬師にしても有能な人材である事は知っている。


 ただ、皇帝を蔑ろにしているのはその勢力が強すぎるせいであり、司馬一族の勢力を弱めて皇族である曹家の権勢を取り戻す事が目的だった。


 その為にも、内乱を長引かせたくないのは毌丘倹も同じ考えだったと言える。


 だが、早くも毌丘倹の想定とは違った事が起き始めた。


 まず、合肥新城の太守である張特が賛同しなかった事。


 彼も毌丘倹の憤りが分からないでは無かったものの、それでも魏国に弓引く謀反には加担出来ないとして、協力を拒否したのである。


 血の気の多い文欽などは切り捨てるべきだと主張していたが、張特の気持ちはまったく分からない訳ではないので、合肥新城に軟禁していた。


 それだけでなく、淮南でも想定外の事が起きた。


 毌丘倹が行動を起こした時には協力的だった淮南の名士や豪族達が、突然その協力を解消して中立の立場を取り始めたのである。


「毌丘倹将軍、これはどう言う事だ?」


 さすがに事態の不可解さが気になって、文欽と文鴦の親子がやって来た。


 が、どういう事と言われても毌丘倹の方が説明して欲しいくらいに、これは理解出来ない状況だったのである。


「……何かの策が動いているのやも知れないな」


 何しろ相手は、あの司馬懿の息子である。


 権謀術数に関してはいかに毌丘倹と言えど、司馬師より優れているとはさすがに断言する事など出来なかった。


 もう一つ気がかりなのが、各地に弾劾状を持って走らせた密使が戻ってこないのも無視出来ない。


 各地の諸将が弾劾状を受け取ってどの様な反応を示したのかを知りたかったのだが、戻ってこないのでは判断のしようがないのである。


「とは言え、何らかの策が動いていると言うのであれば、それはすでに敵が動き出したという事。文欽将軍、いつでも出撃出来る様に準備しておいてくれ」


「心得た」


「将軍、噂程度の事なのですが、将軍のお耳に入れておいた方が良い事があります」


 退出しようとした文欽だったが、その後ろから遠慮がちに文鴦がいう。


「ほう、何かな?」


「ただの噂で確信の無い事ではあるのですが、敵としてやって来る先鋒の武将が鄧艾将軍だという噂です」


「……士載か。なるほど、それならこの不可解な事も繋がるな」


 文鴦の報告を聞いて、毌丘倹は腕を組んで頷く。


「どう言う事だ? その鄧艾とやらは、何かあるのか?」


 文欽は首を傾げているが、これは大きな楔になりかねないと毌丘倹は考えていた。


 淮南を地盤に選んだのは生まれ故郷という事もあるのだが、今では魏でも有数の生産拠点であり、その物資や兵糧が十分という事も大きな利点だった。


 その利点を生み出したのが鄧艾である事は、淮南出身の毌丘倹も知っている。


 彼が生まれ育った淮南という土地は、かつて袁術の暴政によって搾取され続け荒れ果てた地となっていた。


 後に袁術を討伐した曹操がその地を得るのだが、そこにはわずかに残った民と荒れ果てた土地が広がるばかり。

 しかもその当時の曹操はまだ外敵を抱えた状態であった為、淮南に手を入れるだけの余裕が無かったので放置され続けた。


 そこに手を加えようとしたのは明帝の時代になってからであり、しかもそれを鄧艾が提案するまで誰もそれを行おうとはしなかったのである。


 その鄧艾が運河を作るというとんでもない事を計画し、しかも実行してからわずか数年で淮南は瞬く間に豊かになった。


 毌丘倹が淮南生まれの英雄であるなら、鄧艾は淮南を生まれ変わらせた者であり、当時は一介の農政官でしか無かったが、それでも今尚その影響力は現太守などよりはるかに強い。


 その鄧艾が淮南に来たとなれば、確かに毌丘倹とさえ対抗出来る人材ではある。


「しかし、そんな無名の輩が先鋒? 魏には人無しという事か?」


「いえ、父上。鄧艾将軍は侮れませんよ」


 東興の戦いで鄧艾と行動した文鴦だからこそ、毌丘倹や文欽が知らない鄧艾の実力の一端を知っていた。


 あの戦で名を挙げたのは石苞だったが、そのきっかけを作ったのが鄧艾である事を文鴦は目の前で見ている。


 確かに石苞は優秀で挙げた武功は本物である事に疑いは無いが、それでもその武功は鄧艾がいなければ挙げる事は出来なかっただろう。


「そうか、士載はそれほど優れた武将だったか」


 毌丘倹も鄧艾の事は高く評価しているが、それは気骨ある人物としてであって実際の戦闘能力は把握出来ていない。


 考えてみれば鄧艾という武将は、極めて異例で不可解な人物でもある。


 司馬懿自ら見つけてきた身分の低い者で、ただの参謀見習いでありながら自身を取り立てた司馬懿に対して真っ向から反対意見を貫いたのを公孫淵との戦いの後に見た事で、鄧艾という人物を評価した。


 その後、参謀見習いから淮南の運河制作の責任者となって前線から外されたが、それでも十分な実績を挙げた。


 本来であればそこで中央復帰となるところ、次は南安という僻地で農政官として勤務する事になった。


 誰もが懲罰人事だと思われていたが、司馬懿直属である事は変わらず、そこで郭淮からも高く評価されたらしい。


 その後司馬師直属となって今回ようやく一軍の将となったのだが、重用されている割りには出世の速度は極めて遅いと言える。


 また、鄧艾は芍陂での戦いにも参加していたらしく、あのうるさ型で煙たがられる事も多かった王凌からも一目置かれていた。


 振り返ってみると、鄧艾は近年の大きな戦のほとんどに参加しているという事になるのだが、不思議な事に出世に繋がっていない。


 それが能力故の事なのか、司馬一族に飼い殺しにされての事なのか分からないのも不可解なところである。


 鄧艾の事を振り返ると、もう一人奇妙な人物が浮かび上がって来た。


 副将の杜預である。


 彼は司馬懿の末娘を娶った一族の一人であり、将来を嘱望されている武将の筆頭だった。

 鄧艾が出世していないので、副将の杜預も同じ様に出世に見放されている事になるのだが、それに関して司馬懿も司馬師も、司馬孚すらも手も口も出さずに鄧艾の副将に据えたままになっている。


「士載には何かあるらしいな。だが、あいつは話の分かる男のはず。こちらの言い分を聞けば、場合によっては協力出来るかもしれないし、何より進軍の足を止める事も出来る。使者を送ってみよう」


「その必要も無かろう。侮れないかもしれないが、これまで戦に参加しながらようやく一軍の将となった者。一気に叩いて、この淮南の者達に将軍こそがこの地の英雄である事を知らしめるべき」


 いかにも文欽らしいが、それも一理あるにはある。


「だが、こちらも今すぐ動けるという訳ではない。文欽将軍には急ぎ出撃の準備をしていただき、その時間稼ぎの為にもこちらから使者を送る事とする」


「良いでしょう。だが、出撃の準備が出来次第打って出るが、それは構わないでしょうな」


「もちろん。敵の士気を削ぐ事も重要だ」


 これで方針は決まったのだが、この時すでに毌丘倹は大きな失敗をしていた。


 彼が考えるべきは鄧艾や杜預の事もそうだが、彼らが出撃してくるより早く淮南という離れたところに情報が流れてきた事であった。


 その事を失念していた毌丘倹は、自身も知らない内に致命的な遅れを生んでいたのである。


 また、鄧艾の戦績を調べていた毌丘倹だったが、数多くの戦に参加していながらそのほとんどが後方部隊や予備戦力として配置されていた事もあって、鄧艾がどの様な戦術を得意としているのかが分からない状態だった。


 その鄧艾は、想像を絶する速さで進軍して来た上に、何ら準備が整っていないところで楽嘉城を占拠して浮き橋を作って本隊の到着を待った。


 出撃の準備を整えていた文欽だったがすぐに出る事も出来ず、待機となって毌丘倹の寝返りの策を狙う事となった。




「将軍、毌丘倹将軍の使者が参りました」


 楽嘉城の鄧艾の元に、杜預が使者を伴ってやって来る。


「使者ですか? まぁ、せっかく来ていただいたので会いましょう……って、もう連れてきているじゃないですか」


「待たせるのも失礼かと思いまして」


 杜預がまったく悪びれる事なく言うので、鄧艾も苦笑いするしかない。


「では、杜預は外で見張りの指揮をとって下さい。毌丘倹将軍がそこまで卑怯な奇襲をかけてくるとは思えませんが、念の為に」


「御意」


 杜預は頷くと、使者を残して応接室から出て行く。


「この時期にわざわざ使者を送ってくると言うのは、投降の意思有りと言う事でしょうか」


「鄧艾将軍、毌丘倹将軍は将軍の事を高く評価されています。もし魏の為を思うのであれば、こちらに協力して下さるはずとの事」


「将軍が私の事をそこまで評価して下さっているとは、少々予想外ですね」


 鄧艾は軽く頷きながら、考える素振りを見せる。


「将軍、来客とお聞きしました」


 楽嘉城の応接室に、鄧艾の妻である媛がもてなす為のお茶を使者の為に持ってくる。


「これは奥方様。その様なもてなしは不要です」


 使者はそう言いながら、媛からお茶を受け取る。


「お話を邪魔するつもりはありませんので、私は失礼させて頂きますわ」


 媛は笑顔で言うと、一歩下がる。


「……ん? 何故奥方が?」


 使者がそう思って振り返った時、一歩下がったはずの媛が一瞬で踏み込み、剣を抜いて使者の喉を切り裂いていた。


 それは致命傷だったにも関わらず、鄧艾は立てかけていた槍で使者の胸を貫く。


「私が魏を裏切る事はありません。まぁ、それを伝える必要はありませんが。杜預、済みましたよ」


「早かったですね」


 見張りの指揮と言って出て行った杜預は、部屋の外で待機していた兵達と共に入ってきて、使者の亡骸を外に出す様に指示する。


「……情報遮断の任、ありがとうございます」


 鄧艾は複雑な表情で媛に頭を下げる。


「ですが、これ以上は危険ですから都に戻って下さい。良いですね?」


「……はーい」


 前乗りで淮南に入っていた媛と息子の鄧忠と共に、鄧艾が来る事を淮南に広め、淮南の知人達を使って毌丘倹の使者達を密かに切り捨てていたのである。


 それによって毌丘倹は正確な情報を掴む事が出来ず、鄧艾の接近を知る事が遅れたのであった。


「奥方様、あまり危険な事はしないで下さい。妻も心配していましたから」


「……私、元凱の事がよくわからなくなったわよ」


「え? 俺の妻、可愛いでしょ?」


「これからが戦の本番ですから、まだ気を抜かないで下さいよ」


 媛と杜預がいつもの調子で話すのを見て、鄧艾は苦笑いしながら注意する。


「じゃ、どっかいるはずだから忠捕まえて来るわ」

淮南の戦の前に


言うまでもない事ですが、情報操作の為に鄧艾の妻が前のりして色んなデマを流していたと言う事はありません。

鄧艾が運河を作って豊かにしたきっかけを作ったのは事実ですが、毌丘倹より人望があったと言う事も無かったと思います。

が、史実でも意外と毌丘倹に賛同する声は少なかったみたいで、これは毌丘倹の人望が無かったと言うより、司馬師率いる魏軍の強さが周りに浸透していたと見るべきでしょう。

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― 新着の感想 ―
[一言] 追伸 蜀、郭楯が費禕ではなく、あの劉禅を刺殺していたらどうなっていただろうかと思うときがある。
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